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第35話 膨張

「も、もぉ…た、すくの、バカぁ」  朝、スマホの目覚ましアラームで起き上がろうとして、菊地は体制を崩してベッドから落ちた。  腰に、力が入らなくてスマホを手にした途端にバランスを崩したのだ。  原因が分かっていただけに、もちろん直ぐに苦情を申し立てた。 「和真、見事に落ちたな」  さすがに一之瀬も慌てたものの、ベッドから落ちた菊地の格好を見て、直ぐに口に手を当てた。  なにしろ、昨夜散々一之瀬は菊地を躾けたのだ。もちろん、綺麗にして寝かせはした。が、綺麗にしただけだ。 「見るな!バカっ」  菊地は手に持っていた、スマホを、そのまま一之瀬に投げつけた。当たれば痛かろうが、適当に下から上へと投げつけただけなので、当然一之瀬の所まで届いただけで、一之瀬の目の前に落ちた。 「ごめん、和真」  一之瀬はベッドから降りて、菊地を抱き上げるとリビングのソファーに、座らせた。 「着替え持ってくるから待ってて」  そう言ってくれたものの、パジャマの上だけを肩にかけられただけの菊地は不満顔だ。なにしろ一之瀬はしっかりとパジャマを、下だけとはいえ着ていた。 「パンツはこれでいい?」  そう確認しながら、一之瀬は菊地に服を着せていく。菊地も、もう面倒なのでされるがままだ。 「和真はカフェオレにする?」  一之瀬がキッチンに立ち、朝食の支度を始めた。備え付けのカフェマシーンは、カフェオレも作れるらしい。 「甘くして」  菊地はソファーの上であぐらをかいて、テレビをつけた。車で通勤するから天気は関係なくなったけど、一人暮らしの頃のくせで、誰かの声を聞いていたい。 「トーストは、バターたっぷり?それともジャムにするのか?」 「バターたっぷり」  菊地がキッチン向かって返事をすると、一之瀬がマグカップをトレーにのせてやってきた。 「熱いから、気をつけてな」  菊地の前にマグカップを置いてくれた。マグカップは菊地の愛用品。使い慣れているというより、この量がちょうどいい。  カフェオレを冷ましながら飲んでいると、一之瀬がトーストを持ってきてくた。たっぷりと塗られたバターが溶けて、見た目が食欲をそそる。 「サラダとか、必要だったか?」 「ん?朝からそんなに食べられない。それに、机の引き出しにお菓子隠してるから」  菊地があっさりと告白すると、一之瀬は意外そうな顔をした。 「あれ?意外だった?大抵の人はやってるよ。特に女子は新作のお菓子を配りたがるからね」  それを聞いて一之瀬は不思議に思う。菊地はいつお菓子を買っているのだろう? 「朝にコンビニによってるよ」  菊地がサラッと言うものだから、一之瀬は目を見開いた。そんなことをしていたなんて知らなかった。 「電車の時は、駅近のコンビによってたけど、今は高橋さんが降りて買ってきてくれるんだ」  オメガになって味覚がだいぶ変わった菊地は、会社で気兼ねなくお菓子の話が出来ることが普通に嬉しい。たまに手作りお菓子を配る人もいるから、オメガの島だけ賑やかなものだ。 「たすく…も、食べたかった?」  最後の一口を口に押し込みながら気は聞いた。名家の子息で社長をしている一之瀬が、コンビニ限定のお菓子を食べるとはおもってなどいない。一之瀬の関連企業に、食品はなかったと記憶している。 「和真がくれるなら、食べてみたい」  真顔でそんなことを言われれば、食べさせたくなる。ココ最近で一番気に入ったお菓子があった。 「じゃあ、今日買ってくるから」  今朝の約束はこれ。  ちいさな約束を積み重ねつつ、一つずつ消化していく。そんなことを繰り返して関係を築いていくものだろう。  昨夜は、一之瀬が躾にこだわりすぎたせいで、三ノ輪との約束を言いそびれた。菊地は車の中で考え事をしていたせいで、高橋に声をかけられたことに気づかなかった。 「あ、ごめんなさい」  思わず謝ると、バックミラー越しに高橋が苦笑しているのが見えた。 「奥様、本日はコンビニに寄られますか?」  奥様と、呼ばれるのは全くなれることでは無い。 「今日は帰りに寄りたいんだ」 「かしこまりました」  帰りに寄りたいコンビニは、最近スイーツに力を入れていて、カスタードが菊地好みの味だ。コンビニ限定のコーヒーチェーン店のカフェオレと合わせて買って帰るつもりだ。  地下の駐車場で車を降りると、役員専用の入口から中に入る。警備員がドアを開けてくれるので、そのままエレベーターに乗り込む。一旦役員フロアに着くと、社長室の扉を叩く。 「おはよう、行ってきます」  返事を聞かずに扉を開けて、定型文のような挨拶を室内にする。返事があろうがなかろうが構わない。 「和真、気をつけてな」  室内から一之瀬の返事が聞こえたけれど、菊地は構わず扉を閉める。同じビルの下のフロアに移動するだけだ。気をつけることがあるとすれば、運動不足解消のために階段を利用するから、転ばないようにすることぐらいだろうか。  菊地は時間通りに自分のフロアについて、席に着く。隣りの席の山岸に朝の挨拶をして、パソコンを立ち上げた。  いつものように入力作業をして、ドラマの話や新作スイーツの話を時折すれば、午前中など直ぐに終わってしまう。  外に出てランチをとるより、社内て済ませた方が楽だし安い。菊地は山岸たちと一緒に食堂のあるフロアへ移動した。 「ねぇねぇ、山岸さん」  菊地はランチを取りながら山岸に小声で話しかけた。  いつもとちょっとちがう様子に山岸も小声で返す。 「何?相談事かな?」  その辺は年の功なのか察しが良かった。 「うん、あのさぁ……その、えっと」  話し始めてから菊地の歯切れがわるかった。 「あ、じゃあ、食べ終わったら席で話す?」 「あ、ああ、はい」  話をふっておきながら、菊地はこんなところで話していい内容じゃないことに、気がついたのだ。下手をすればセクハラになりそうだ。  食器を下げて、食堂フロアにあるコンビニで飲み物とお菓子を買って席に戻る。 「あの、えっと…どこから話そう」  お菓子を開けてから、菊地は山岸に向かって口を開いたものの、話の順番が組み立てられない。 「うん、何となくは分かるけど、番のこと?それとも入籍のこと?」 「えっと、入籍?」  菊地は言いながらも疑問形になる。 「山岸さんは、番ったのが先?それとも入籍が先?ほら、結婚式は二人で海外って言ってたから」  山岸に、子どもがいないことは知っているから、その事は避けて話す。そうなると、三ノ輪との約束の話をいきなり出せなくて、その前の段階からの話になって、菊地の頭の中で、話の組み立てがめちゃくちゃになってしまった。 「ああ、そーゆーことね」  山岸は笑いながら返事をしてくれた。菊地の質問の仕方に不快感はないらしい。 「入籍してから番ったよ。」  山岸はそう言いながら、菊地の出したお菓子を一つ口にした。 「番になっても『番届』を、役所に提出するけどさ、婚姻届の方が法的な効力があるじゃない?戸籍だし。ほら、番になるにはヒートを待たなくちゃいけないじゃない?」 「そうですね。……『番届』?」  相槌をうったものの、菊地は『番届』という聞きなれないワードに首を傾げた。 「あ、もしかして出してないの?」  山岸はやらかしたと思って、思わす唾を飲み込んだ。 「え?うん、そんな書類書いたことない、なぁ」 「で、でも、上位のアルファだと、番が誘拐とかされないように敢えて出さないってこともあるかもよ」  山岸は慌ててフォローをしてみたけれど、これで大丈夫だという保証はない。 「うーん、そういう難しいことは田中さんに聞かないとわかんないなぁ……ああ、そうだ、でね」  菊地はいったん区切って、ペットボトルのミルクティを飲んだ。 「結婚式、写真とかあったら見たい、見せて貰えます?それとね、俺、友だちと一緒に妊娠する約束しちゃったんだよね、どうしよう」  菊地の発言は爆弾だった。  だって、菊地の相手はみんな知っている。菊地は最近オメガ性に目覚めたのに、一緒に妊娠する友だち?なんだか物凄いことを話しているのに、菊地はその重要性を全く理解していない。 「写真はスマホに入ってるから、はいどーぞ」  山岸は気軽に写真を菊地に見せた。けれど、その後の返事に困惑していた。 「ええと、男性オメガの友だちがいるの?」  スマホの写真に夢中になる菊地に声をかける。 「うん、由希斗くん。高校の同級生なんだ」 「…ん、うん?」  山岸は、その名前には心当たりがあった。いや、回りの社員たちもその名前を知っていた。だから、一瞬静寂が訪れたのに、菊地は気づかなかった。 「あ、由希斗くんは三ノ輪って苗字なんだけど?」 「うん、知ってる。うちの社長のお姉さんが婿入りした相手だよね…」  名家同士の婚姻で、しかも入婿したものだから、結構な騒ぎだったのだ。それなのに、菊地は全く涼しい顔で話を続ける。 「うん、そうなんだ。それでね、由希斗くんと子どもも同級生にしたいねって、話をしたんだよねぇ、どうしたらいいかな?って思ったんだけど、俺まだ結婚してないから、やっぱりそーゆーのって、結婚してからだよね?」  この間までベータであった菊地は、その手のことは順を追ってやっていくものだと思っている。けれど、アルファとオメガの場合はなんだか特殊な事情があるようだと何となく気づいてはいる。 「え、その辺は番とよく話し合った方がいいと思うよ?」  下手な事が言えないと察した山岸は、あたりの様子を伺った。同じ島のオメガたちは、黙って頷いている。管理職のアルファたちが目で訴えてきているのが痛いほど分かってしまい、山岸はそれとなくアドバイス的なことを口にした。 「やっぱり、結婚式って憧れるよね?」  一般的な事だけれど、結婚式は人生で最大の儀式だろう。菊地が山岸の写真を見て何を考えているかは分からないけれど、前も菊地は憧れていると口にしていた。 「うん、そう!いいね、山岸さんのこの海で撮ったウエディング、海外って言ってたよね?タヒチ?ハワイ?」  海の綺麗な場所でドローンでも使ったらしい構図の写真を眺めながら菊地が聞く。口にした地名は、唯一菊地が知っている海の綺麗な海外だった。 「これはハワイ。そう言うプランがあるんだよ。南フランスとかも人気だよ?地中海で古城でするウエディングもいいんじゃないかな?」  山岸は、自分がその頃考えていた候補をいくつか菊地に教えてみた。 「いいなぁ、俺やっぱり結婚式したいなぁ」  菊地がそんなことを言うから、山岸は驚いて目線だけで辺りを警戒した。結婚式しないつもりだったの?とは口が裂けても言えない。 「お披露目式はあるんだよね?」  山岸が控えめに聞くと、菊地は頷いた。 「うん、あるらしいんだけど、それって披露宴だけってことだよね?俺もこういう写真撮りたい」  菊地は目を輝かせて山岸の写真を指さす。青い海に白い衣装に身を包んだ二人が、幸せそうに笑っている。海の見える教会での、誓いのキス写真はちょっと恥ずかしいけれど、山岸のを見せてもらって、ちょっと憧れた。 「じゃあ、強請っちゃえばいいじゃない」  山岸はニコニコしながら言う。 「え?しても大丈夫かなぁ、由希斗くんもお披露目式しかしてないみたいなんだよね」  菊地が戸惑っていると、山岸は思いっきり無責任な一言を言い放った。 「大丈夫、アルファは番の言うことなんでも聞いてくれるから」

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