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第37話 それから

 可愛い番のためなら、アルファの決断と行動力は無駄に早い。菊地には内緒だけれど、菊地のデスクには監視カメラが着いている。菊地のパソコンのモニターそのものが監視カメラになっていて、昼休みに菊地と山岸がしていた会話はライブで一之瀬に筒抜けだった。だから、もちろん、山岸にみせてもらった結婚式の写真だって一之瀬は見ている。  見てすぐ、一之瀬は秘書の田中に資料を集めさせた。一族を、集めてのお披露目を兼ねた披露宴は、どんなに頑張っても一年は期間をおかないと日程の調整が出来なかった。何しろ、姉が三ノ輪と結婚している。そうなると二つの名家が集まるわけだ。二つの名家の絡んだ企業の数を考えただけでも、目眩がするというものだ。そこに名前を連ねる一之瀬と三ノ輪の姓を名乗る者の日程を合わせるのだ。場所も、警備も、手配するだけで大事だ。  順番を意識する菊地のために、番になって、番届けをだして、結婚式を挙げる。考えただけでも幸せな気持ちになるというものだ。番届けは、ネットでダウンロードができる。提出する書類だと言うのに、キャラクター柄のものなどあって人気らしい。菊地がそう言うのを意識しているのか聞いていなかったので、標準タイプのものを用意した。  いつも通りに定時で上がった菊地は、帰宅する車の中で一之瀬からのメッセージを受け取っていた。『定時であがる』簡潔なメッセージではあるが、菊地が絵文字やイラストなどを使用しないので、一之瀬もそれに習っている。  菊地が夕飯の支度を終えた頃、一之瀬が帰宅した。昨日おかしな夕飯にしてしまったから、今日は和食にした。 「おかえり……たすく」  一之瀬を迎えるにあたって、菊地は頑張って名前を呼ぶように心掛けている。普段から名前を呼ぶようにするには、やはり挨拶の際に呼ぶのが自然だろう。 「和真、ただいま」  一之瀬は当たり前のように菊地の名前を呼んで、挨拶の度に唇を寄せてくる。初日、菊地が不意打ちでしたのが余程嬉しかったらしく、あれから毎日してくるのは一之瀬だ。 「ご飯できてる」 「凄いな」  一人暮らしの間、菊地は簡単な料理はある程度していたので、今では時短のために電気圧力鍋を使いこなすようになって、煮物も失敗知らずだ。 「最新家電が揃いすぎなんだよ」  菊地は褒められても、一之瀬が買い揃えた家電のせいにする。そんなところも可愛いと、一之瀬は内心悶えているのだが、態度には出さず、食事を一口食べては褒めちぎることにしていた。  今日も、煮物の人参を食べては「味が良くしみている」とか、コンニャクを食べては「臭みがなくて美味しい」とか、白あえを食べては「ごまの風味がよくのっている」とか、なかなか食事がすすまない。 「ねぇねぇ、匡はさぁ、かぼちゃの煮物って、ホクホク派?ベチャベチャ派?」  菊地は一之瀬がいちいち褒めるのを軽く聞き流し、今日は食卓にのっていない料理の話をした。 「え?かぼちゃの煮物、って」  料理人が作った食事で育った一之瀬は、綺麗に煮られたかぼちゃしか食べたことがない。ベチャベチャしたかぼちゃの煮物とは、すなわち煮崩れしたかぼちゃの煮物のことなのかと考える。 「あ、そうか、そういうの食べたことがないんだ」  水分量の多いかぼちゃを使うとベチャベチャな仕上がりになるとか、そういうことを一之瀬は知らない。 「煮崩れしたのでは無いということなのか?」  一之瀬の知らない話をされて、自分の中の知識で探るけれど、どうやら菊地の言っていることは一之瀬の知識の中とは違うらしい。 「うん、冷凍のかぼちゃとか、水分の多いやつ使うとベチャベチャになるんだ。俺は見分けがつかないんだけど」 「ベチャベチャになったのは、食べにくくないか?」  ベチャベチャと言うからには、原型を留めていない仕上がりなのだろうと想像して、考える。そうなると、箸では掴みにくそうだ。 「うん、ご飯にのせて食べるのが好きなんだ。あまじょっぱくて美味しいよ?」  菊地の言う食べ物の話は、一之瀬の知らないことが多い。そもそも菊地は平凡な公務員家庭に生まれ育っている。そんなベータの中でも優秀な部類に属するから、優秀なアルファが通う高校に通っていたのだ。ただ、菊地は優秀だったけれど、あくまでも平凡なベータ家庭であったから、生活は全て平凡だ。母親が食事を作り、家族揃って食事をする。子どもがお手伝いをする。そんなごくありふれた日常を送る家庭。  片や一之瀬は名家で生まれ育った。アルファの父とオメガの母。使用人がいて、食事は専属の料理人がつくり、お手伝いさんが身の回りの世話をする。アルファに生まれたから、第二次性の特性が現れてからは、オメガの母には滅多に会えない。高校の頃から一族の経営に携わり、親ほどの年齢のベータたちを従えてきた。  そんな菊地と一之瀬であるから、食への常識もまったく噛み合ってはいなかったということだ。 「すまん、和真。俺の想像の範囲を超えている」  一之瀬の頭の中には、どう頑張ってもかぼちゃの煮物がご飯の上にはのらないのだ。まして、ベチャベチャのかぼちゃの煮物とは?とりあえずかぼちゃのペーストを想像しては見るけれど、想像の先はどうしてもかぼちゃのリゾットになってしまう。 「そっかぁ、ベチャベチャなかぼちゃの煮物は庶民の味だったか」  菊地は一人納得をして、何事もなかったかのように食事を続ける。けれど、一之瀬は菊地のこの発言が気になってしかたが無い。明日出されるかもしれないし、忘れた頃に出てくるかもしれない。その時に、どういった反応をすれば正解なのか、今から緊張しているのだ。  そんな一之瀬の心の内などこれっぽっちも気にしてはいない菊地は、何事も無かったかのように食器を片付けるのだった。  食後にコーヒーを飲みながら、明日のメニューを考えていると、一之瀬がテーブルの上にパンフレットを広げてきた。見た感じ旅行のものらしく『特別な7日間』とか、『プライベートな時間を』なんて文字が踊っている。 「なに?これ?」  タブレットを置いて、菊地が一冊を手に取ると、それは確かに旅行のパンフレットだった。しかも、 「え?ウェディング??二人だけの?え?え?え?」  どれをとってもウェディングプランの旅行のパンフレットだった。 「和真の希望を叶えるから、どこでも選んでくれ」  一之瀬は嬉しそうにパンフレットを広げてきた。山岸が挙げたみたいな、綺麗な海を背景に、二人だけの結婚式を挙げるプランや、高原に建つ素朴な教会で挙げる牧歌的なプラン、ヨーロッパの古城を貸し切って行う贅沢なプランなど、一之瀬はたくさんのパンフレットを菊地にみせてきた。 「す、凄いね……SNSで結構見たけれど、どれも憧れるよね」  菊地が手にしているパンフレットは、南フランスで挙げるプランで、衣装はフランスの有名ブランドの物を着用すると言うものだ。菊地が望むなら、レンタルなんかじゃなくて、買い上げても構わない。なんなら、宮殿を貸し切ってもいいとさえ一之瀬は思っている。けれど、菊地は山岸にみせてもらったのが余程印象に残ってしまったのか、海での二人だけの結婚式のパンフレットに釘付けだった。 「和真はこれがいいの?」  一之瀬がそう聞くと、菊地は顔を上げて少し眉根を寄せて答えた。 「うん、あのさぁ、由希斗くん和装だったでしょ?凄く似合ってた。俺だと七五三になりそうじゃない?こういう写真なら見せびらかしても恥ずかしくない…かなぁ、って」  菊地は言いながら恥ずかしくなったのか、耳が赤くなっていた。同じ男オメガの山岸が羨ましいのを、遠回しに訴えているようではある。しかも、三ノ輪に対抗意識もあるようだ。  可愛い番を自慢したいのは、アルファの方が意識として強い。あとからする方が有利なのは確かだ。 「分かった、和真。海外に行こう、パスポートを明日作りに行こう」 「え?明日?早くない?」  突然のことに菊地がアワアワしてしまったけれど、一之瀬は冷静だ。 「パスポートは発行までに時間がかかるからな、早めに作って置いた方がいい。番届けを出しながら作りに行こう」  そう言って、一之瀬は番届けをテーブルに出してきた。 「これが番届けなんだ」  菊地は用紙を手に取って、真剣に眺めている。婚姻届に似ているけれど、記入欄がアルファとオメガとなっていた。 「俺が先に書いても?」  一之瀬が菊地の背後から手を回してきた。 「え、うん……そうして」  婚姻届よりも効力の強い番届けだ。一度提出したら取り消すことは出来ない。生涯アルファはオメガを護る義務が課せられる。戸籍制度のある日本だからこそ強い効力の発揮される届出だ。  育ちの良さがよく分かる一之瀬の性格のよく出た文字の隣に、自分の名前を書くのはだいぶ恥ずかしかった。菊地もそれなりに上手な字をかけるけれど、どこか癖のあるやや丸みを帯びた文字である。 「文字って性格が出るらしいよね」  書き上げた番届けを見ながら菊地が言う。 「書道家の先生だと、見ただけで性格を言い当ててくるよ」  過去に経験があるらしく、一之瀬は大して面白くもなさそうに言った。 「あたってたんだ」  菊地はそれを聞いて軽く笑った。今なら、菊地だって一之瀬の性格が言い当てられる。けれど、口にすることはしない。 「明日は少し早く二人で出ような」 「えっ、あ、うん」  二人で一緒に、ってことなのだと意識すると菊地は頬が熱くなった。 「和真、そんな可愛い顔しないでくれ」  一之瀬はそう言って、少し赤くなった菊地の目元に唇を寄せる。 「だ、ダメだからな。明日は忙しいんだから」  菊地が、そう言って一之瀬の顔を押しのける。 「分かってる。けど、和真が可愛い」  一之瀬はそう言いながら菊地を抱き上げた。 「ダメだからな、絶対にダメだからな」 「分かってる」  一之瀬は笑いながら菊地を寝室に運ぶのだった。  ───────  翌日、午前休をとって菊地は出社した。  隣の席の山岸に、番届けを出したことを伝えると、聞き耳を立てていた島のオメガたちが悲鳴を上げてしまったので、フロア全体から怒られた。  パスポートを作った事も伝えると、 「海外で挙式するんだ、いいね」  と山岸が笑ってくれた。 「お土産、買ってくるから」  菊地がそう言うと、 「うん、多分社員全員分買うと思うよ」  だって、社長と行くんだもんね。とからかわれた。  菊地はまだ知らないけれど、ハネムーン休暇が一ヶ月も提出されていた。理由はもちろん、一之瀬が可愛い番にはどれもこれも似合ってしまう。と一人で盛り上がって、全てのツアーを申し込んだからだ。もちろん、護衛の島野も一緒だ。  あの日のハマグリは、たくさんの撮った写真と共にリビングに飾られている。  二人の大切な記念だから。 おしまい

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