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第1話

   仕度を整え、ホテルから出た。  見上げれば太陽が俺に微笑みかけていて。  頬が思わず緩んでしまったけど。  胸は爆発しそうだった。  彼とは午前十時に、駅で待ち合わせしている。  こんな早く出なくても十分間に合うけど。  ホテルで時間を潰してなんかいられない。  俺は逸る意識を抑えながら、駅までの道のりを歩いた。  昨晩はよく眠れなかった。  ライブや、打ち上げでかなり興奮してしまったからだろう。  目が乾いて少しぼんやりする。  でも、頭は嫌になるぐらい冴えていた。  約束した駅の前、分かりやすい場所で彼を待った。  まだ約束の十五分前。  さすがに早すぎたか。  携帯電話を眺めながら、苦笑する。  でも、それで良かったようだ。  約束の時間より十分早く、彼はやってきたから。  彼が俺を見つけて、軽く手を振る。  俺も頬の筋肉が崩れないように、必死に保って手を振った。  笑顔が眩しい。  可愛い。 「おはよ。待った?」 「ううん。全然」  五分なんて大した時間じゃない。  最低でも十五分待つだろうと思っていたから。 「行こうか」  俺は何気ない仕草で彼の傍に寄り、先を促した。  ……手とか繋いじゃ駄目かな、なんて考えつつ。  駅から東へ数分歩くと、河川敷に差し掛かった。  もう綺麗なピンク色の頭が少しだけ見えている。  ちらちらと、薄い色の花びらが散って見えた。  その景色だけで、彼が小さな感嘆の声を上げる。  河川敷を上がればどんな顔をするだろう。  もっとはしゃいでくれるんだろうか。  それが楽しみになるあまり。  階段で躓きそうになった。  幸い、彼にはばれなかったが。 「うわぁ……」  彼が先程よりずっと大きな声を上げた。  黒豆みたいな艶のある瞳が輝いて。  ああ、やっぱり綺麗だ。  可愛い。  彼が桜を見上げながら、きょろきょろする。 「危ないよ」  そう声をかけるけど。 「うん」  と言いつつも、彼は桜ばかり見ていて。  少し寂しくなった。  彼の映す世界に、俺がいない。  俺は花見のための切符でしかないんだろうか。  そんな気分で少し俯いていると。 「ぅわ」  彼が小さな声を上げた。  何事かと顔を上げると。  えへへ、と言わんばかりに彼がはにかんでいた。  ……躓きそうになったな。 「だから言ったじゃん」  俺が拗ねた心情を隠して窘めると。 「うん」  彼がまだ頬に小さな桜を咲かせたまま、頭を掻いた。  ああ、本当に可愛い。  彼がめげずに、先を歩く。  やっぱり俺の姿は映してくれないけど。  もう、それでいい。  俺が彼をちゃんと見てるから。  昨日のライブは大成功に終わった。  現実で本当に彼の生歌を聞いた俺は卒倒しそうになって。  絶対に倒れないように、舞台袖の壁にもたれ掛かって耐えた。  本当に綺麗な歌声で、歌う姿も綺麗で。  強いライトの中だったのに。  客席の暗さが夢の光景と重なって。  まだ夢の続きを見ているような気になった。  そして今日、彼と花見をしているわけだが。  現実にいる自覚があるのに。  まだどこか夢を見ているみたいだ。  現実で会えば、少しは何かが崩れるかと思ったが。  何も崩れなかった。  彼は夢の中の彼と何も変わらない。  姿も、声も、仕草も、何も変わらない。  だから余計、まだ夢を見ているような気がするのかもしれない。

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