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第1話 銀狐、逃げる

 ──よし! 俺は逃げる!  そう心に固く誓った(こう)は、へにょっと倒れてしまった灰黒の狐耳と灰黒の頭を抱えながら、本気で逃げる為の算段を頭の中で繰り広げていた。  時期長として見聞を広げる為に遊学することが決まっていたから、そこが絶好の機会だろう。  よし、逃げる。  だって無理だ。  どう足掻いても無理だ。  あんな体格のいい奴のアレなんて、絶対にでかいに決まっている。   (……アレがアソコに……──って、ひぃー!)    痛い……絶対、痛い。  絶対無理に決まってるじゃないか。      ***      麗という名の国がある。  その昔、この地は魔妖(まよう)という『人成らず者達』の跋扈する荒れた土地だった。人々はひっそりと隠れ住み、魔妖にいつ喰われるかと怯えて暮らしていた。  それを哀れに思った一人の天の神がいた。人の為にそして魔妖の為にこの地に降り立つと、魔妖は神に従い静かに身を潜めのだ。  何故なら彼は天にいる時から魔妖の神であり、人を魔妖から救う神でもあった。彼は人と魔妖を守るためにこの地に居着いたが、人は彼を国の主に祀り上げた。  だが、神とて妖。  麗国は魔妖を主にすることで、魔妖から身を守っている国なのだ。そして魔妖を人から遠ざけ、守っている国でもあるのだ。      『愚者の森』と呼ばれる森が、麗国の南にある。  国の南のほとんどを占める広大なそれは、様々な魔妖の種族の里が存在することで有名な森だ。かつて野生に近く、力が全てだった魔妖だが、国主が麗の地に降り立った際の甚大な妖気に影響され、知性と秩序が育ったのだと云われている。今では人のように社会を形成する魔妖がほとんどであり、魔妖が率先して人を襲うことはなくなった。人の社会に溶け込んで暮らしている魔妖もいる。  そんな『愚者の森』の中で縄張りを二分するとも云われている種族がある。    鬼族(きぞく)と銀狐だ。    鬼族はかなり好戦的だ。無断で縄張りに入ってきた者ならば、人だろうが魔妖だろうが、天敵でもある竜であろうが、数に物を言わせて容赦なく狩って糧とする。  そんな鬼族が決して争わないと云われているのが、銀狐だ。  銀狐は魔妖の中でも特別だ。  昔、銀狐の一族は天から落ちてきた『真竜』と呼ばれる竜の一族を助けたことがある。真竜は助けられたことに感謝し、惚れた銀狐の長と夫婦になり、銀狐の一族に加護を授けた。当時はまだ妖力が弱く、狩られる事の多かった銀狐だが、加護のおかげで妖力が増し、数を増やしていったのだという。  それ以来、銀狐一族の長は、真竜を娶り加護を受けることが習わしとなった。  銀狐の長となる者は、証となる紋様を持って生まれてくる。不思議なことに、生まれてきた時期長に惹かれるかのように、数年後に対の紋様を持った真竜が生まれてくるのだ。  (こう)は銀狐一族で時期長の紋様を持って生まれた、久方振りの子供だった。そして言い伝えの通りに、数年後に対の紋様を持った真竜が生まれてくる。  真竜は生まれて落ちてくると、麗国麗城に預けられて成竜まで育てられるのが昔からの習わしだ。  だが銀狐の番ということもあり、あまり頻度は高くなかったが、幾度か里で会う機会があった。  鱗が綺羅綺羅と輝く、綺麗で愛らしい小さな白竜だった。  真竜は竜形と人形の二形を持つ。本来ならば生まれて数年で人形を成すが、対の紋様を持って生まれてきた白竜は、成竜にならないと人形を形成することが出来ないのだという。  晧は楽しみで仕方なかった。  あんなに綺麗で可愛い白竜が、将来自分のお嫁さんなのだと思うと、それだけで心が高鳴った。何度か会ったこともあったが、白竜のくせに蛇を怖がり、大きな瞳からぽろぽろと涙を零すのだ。助けてやると足にぎゅうとしがみ付いて、しばらくの間は離れなかった。ちび、と晧が付けた愛称で呼ぶと、きゅうきゅうと鳴いて喜んだ。愛らしいと思うと同時に、この子は自分が守ってあげないといけないと心に誓う。  そんな白竜がついに成竜となり、人形を成した。  そして婚儀の相談の為に、この銀狐の里に来るのだという。  あの愛らしい子が、一体どんな人形となったのか。  小さな白竜だったから、きっと線の細い美人になっているだろう。    「──は?」 (──いやいやまさかのまさかだろう!?)    そこで見たのは、冷たい印象を与える灰銀の目と長い灰銀の髪を持った、自分よりも長身で体格の良い──美麗の雄竜だった。  あの愛らしい子はどこに行った。  あのまあるい翠水の大きなおめめをした、蛇が怖いと泣いた愛らしい子はどこへ消えたのだ。  別人じゃないのか。  そんなことを晧は思うが、幼い時に感じた気配と匂いが全く同じで、本人そのものだと訴えている。自分の良く効く鼻が、こんなにも憎いと思ったことはない。  身長差は頭ひとつ分以上。すっぽりと自分を包み込みそうな体格をしているというのに、どこかすらりとした印象がする。それが余計に全体の冷たい印象を増長しているのかもしれない。   (──無理だ)    いくら『娶る』という言い方をしていても、体格は向こうの方が上。  きっと自分は抱かれる立場だ。  本能的にそう、直感した。  普段あまり働かない感のようなものが働くのだから、きっと危機なのだ。  銀狐も真竜も(いにしえ)の時代に一度滅びかけている。一応雌雄の区別はあるが、数を増やす為にどちらの性も孕む性質へと、身体を変化させた歴史がある。  周りの里の者からすればきっと、対の真竜を娶りさえすれば、どちらが産んでも構わないのだろう。   (──……いやいや無理だ!)    だってあの体格なら、それなりの物を持っていそうじゃないか。  しかも真竜は常時の時点で、既に大きいのだという噂を聞いたことがある。  それが閨になったら、どんな剛竜と成り果てるのか。  そんなぶつに(いざらい)を貫かれるのか。   (ひえぇ……っ!)    想像しただけで背筋を冷たいものが滑り落ちて、ぞくぞくとしたものが駆け上がる。  周りの者は何やら目出度い雰囲気を出していたが、晧は何とか逃げる算段を考えていた。  そうこう言ってる内に、祝言の日取りなんかが決まっていく。  準備の全ては晧の見聞を深める為の遊学が帰ってから、らしい。  もう逃げるのなら、遊学中だ。そこしかない。  晧はもう一度、人形になった真竜を眺める。相手は周りの者と話をしている為かこちらの視線に気付くことはない。  そう思っていた。  だが。   (──ひっ!)    灰銀の目と視線が合った。  凍てつくような瞳の中にある冷たい焔のようなものに、晧は本能的な恐怖を感じて、灰黒の耳を竦ませる。     ああ、食われる。  絶対に食われる。    食われる前に、絶対に逃げてやる──!                        

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