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第5話 銀狐、紫君に会う 其の四

 式を一度札の状態に戻した紫君(しくん)は、ふうと息を吹きかけた。  すると札は意思を持ったかのように空中でふわりと立ち上がり、紫君にぺこりと頭を下げる。そして茶屋の二層目の格子窓から外へと飛んで行ってしまった。  あのまま(こう)の泊まっていた宿まで飛んで行って、部屋の中で人形を執ってくれるらしい。それは大変有難かった。護衛に付いてくれている者達に、自分が宿の外に出たのだと気付かれることはない。このまま自分がどこへ旅立とうとも構わないのだ。   「晧なら妖力も強いし一人で大丈夫だと思うけど……心配だからさ。どっち方面に行くのか聞いててもいい?」    紫君の言葉に晧は、しばし考える。   「まだ目的地を決めたわけじゃないけど、南の方へ山越えをしようかと思ってる」    南の山の手前にある愚者の森は庭のようなものだが、実は山越えはまだ数度しか経験がない。一度用意を整えて、じっくりと登ってみたかったのだ。そしてそのまま国境を越えて隣国にも行ってみたい。  そう紫君に伝えれば、彼はにっこりと笑った。   「南かぁ。山に入る手前にある宿でね、すごくおいしい川魚の煮を出してくれるところがあるよ。あと山の中腹にある宿の温泉も気持ちいいからおすすめだよ」    楽しそうに話す紫君に、自然と晧の気持ちが少し上向いてくる。  式を置いていくとはいえ、やはり心のどこかに引っ掛かりのようなものを覚えていた。それは里への裏切りのような気持ちと、幼い時から決まっている許婚(いいなずけ)である真竜を置いていくような気持ちだ。  だからといって素直に真竜を受け入れられるのかと言えば、また別問題だ。        「だから、『逃げる』んでしょう? 晧」 「……」  「大切なものを見失わなければ、逃げてもいいって僕は思うよ。一度逃げて、自分の心をちゃんと見つめ直すものいいと思う。でも彼らは優しいけれど、特に身の内に入れた者に対する執着は、凄いとしか言い様がないんだ。心が落ち着いたらさ、ちゃんと相手と向き合って話をした方がいいよ、晧。それこそほら、あれ……が怖いとかさ。初めは言いにくいかもしれないけど、でも話をしないと何も生まれないし、お互いに思ってること話さないと、変なところで擦れ違ったりするしね」    紫君の言葉は実体験を伴っているのか、とても重く響いたのだ。

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