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 ぼくは失神しなかった。  それでも新しい鞭による昂奮が悟さんを刺激したのか、一時間ばかりでぼくは解放された。だからといって、それがなんだというのだろう。  深々とアヌスを抉られながら殺人的な鞭をふるわれて、ぼくは肉体はもちろん、精神的にも深いダメージを受けなくてはならなかった。ぼくの魂はあてなく浮遊し、この世からの解脱を切実に願った。自分というこの詮ない不運な存在の、そのあらゆる限界を思い知らされて、もう魂もろともすっかり無に帰してかまわない、そう思われてしかたなかった。  すべてが終わったあと、ぼくはなだれを打つようにソファに横になって丸まった。ほとんど働かない頭で、ただ不安だけが膨らんでいって、胸に重く圧しかかった。  これから悟さんは毎日あの鞭を使うのだろうか。そうなれば近いうちにぼくは脊椎神経をやられて半身不随になるか、最悪、骨折した肋骨が肺に刺さって死ぬかもしれない――ふと思う……でも、そのほうが呆気なくていいかもしれない、なんて。いっそぼくの死にふさわしいかもしれない、などと。  絶望のあまり、ぼくは悲しみの涙も流さずに寝た。絶望を「死に至る病」と名付けたのはキルケゴールだったかしら。ならばぼくはそれに罹ったようなものだ。ただ、背中の痛みが酷くて痛み止めの飲み薬を探したんだけどどうしても見当たらず、結局それだけはぼくを一晩中悩ませた。 「起きろ」  翌日は日曜だったので、昼過ぎまでうとうとと眠っていた。  それでも悟さんの声にようやくの思いで目を開けると、足の裏でぼくをゆっさゆっさと揺すっている。ゆっくりと意識が戻った途端に、背中の激痛に再び見舞われた。  なんか寝た気がしない。きっと一晩中体が痛みを感じ続けていたせいだろう。確かに途切れ途切れに眠りが妨げられていたのを思い出す。  時計を見ると、もうすぐ午後の二時だ。 「出かけるぞ。シャワー浴びて、着替えて来い」  悟さんが頭上から命じた。  正直、エ~~?という気分になった。  だって疲労困憊だ。だるっこくて、体ももう自分のものとは思いたくないくらいに激痛がするのに、いったいどこに連れて行かれるというのだろう。 「早くしろ!」  強まった語気に慌てて飛び起きた。ほっといたらそのうち平手が飛んでくるのは分かっている。たとえぼくが背中の痛みやセックスの跡の痛みでどんなにもがき苦しんでいようとも、そんなのは悟さんにとっては蟻の苦しみと同程度かそれ以下なのだから。  シャワーを浴びにバスルームに入って痩せた背中を鏡に写してみると、それはそれは目を背けたくなるほど無残な代物だった。こんなの人間の背中じゃないな。醜くて見る影もない。  一面の痣と、何本にも引かれた切り傷、みみず腫れ。そして全体的に肉が腫れて盛りあがっているから、せむしのように見える。 (こりゃひどいな)  そろそろとお湯を当てる。飛びあがるほど痛い。骨だの神経だのという前に、今夜またあれで打ちのめされたら、背中の皮膚がぜんぶ(まく)れあがるのじゃないか。そう考えてぼくはあらためてぞっとした。  マンションの階下に出ると、悟さんはオープンにした真っ黒のロードスターを正面玄関に寄せ、サングラスをかけてぼくを待っていた。出掛ける気満々てとこだ。  今日も晴天だった。  厳しい陽光が朦朧とする頭に照りつけ、なまぬるい風が白んだ皮膚に不快に纏わりつく。ぼくはいやよいやよという気持ちで助手席に乗り込んだ。シートベルトをして背もたれにもたれると、背中が音を立ててきしむ。しかたなしに窓側へ向いて斜めに腰掛け、背中がシートに当たらないようにした。  勢いよく車が走り出す。  直射日光が強くて眩しい。オープンならオープンと教えてくれればいいのに。それならキャップでも被ってきたし、こんな半袖じゃなくて日光を遮る長袖を着てきたのに…などと口にしてみたところで、悟さんにとってはそのどれもがこの上なくどうでもよいことだし、むしろごちゃごちゃウルセエ以外のなにものでもないのだから、ぼくは座席で丸まりながら、じっとすべての不快感に耐えていた。ただ、走り出すと風は気持ちよくて、ぼくの半端に伸びた洗いたての髪も、あっというまに乾いた。  いったい他の車の人たちからはぼくたちはどう見えるのだろう。  ベンツのオープンカーに可笑しな取り合わせ、と思うだろうな。ぜんぜん面白くなさそうに助手席で(うずくま)る痩せ細った少年と、黒いサングラスにヤクザの親分みたいななりで上機嫌に運転する男。ぼくだってそんなペアがいたらぱっと見ヘンだと思うや。  悟さんは一昔前のアメリカン・ロックのCDを大音量でかけていたけれど、ここでもぼくはうつらうつらと眠り込んでしまう。まるで眠り姫だよ。だってぼくはいつも疲れているのだもの、許してほしい。  そしてぼくはしばらく眠り込んでいたらしい。  次に目覚めたときには木々に挟まれた狭い山道を走っていた。時計を見るとマンションを出てから一時間ばかり経っていた。  木々といってもそんなにうっそうとしているわけではなくて、東京の中にもたまにある小高い丘に入ったようだった。人影一つ見当たらない道の真ん中で車が右折する。学校に似た門をくぐり抜けると、左手に窓の少ない巨大な建物が現われた。  悟さんは右手に開けている広い駐車場の一角に車を停めた。他に車は三台ほどあるだけだ。

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