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 朧な意識の果てで、男の低い声が静かに流れてくる。 「とにかく――――処置できてよかった――――間に合って――――」  壊れた体温計みたいな機械音が一定に時を刻んで、ぼくの耳に不快に纏わりつく。 「もう少し――――ひびが深かったら――――脊椎神経を傷めて――――半身不随どころか寝たきりに――――それに肋骨も――――本当によく連れてきてくれたと――――」 「はい」  ――――あれ?  ぼくの全部の指がくるんと丸くなった。  これ、タカハシの声だ。 「それより心配なのは――――栄養失調による極度の――――特に、メンタル的な深いダメージが――――」 「ええ、そうですね」  ぼくは彼が大好きだから、こんなに朦朧としていたって彼のちょっとした声でも聞き逃すまいとする。  だからいまも、ぼくを再び引き込もうとする猛烈な睡魔を追い払おうと必死になった。ほんのわずかだけ、瞼を開けられそうな気がした。  でも眠い。すぐに眠気に負けそうになる。なんで体も瞼も、鉛のように重いのだろう。 「とにかく、まだ本当のところは――――ね、だから――――たとえ学校の先生にも言わないように――――分かるね?」 「はい」  タカハシがいるということは、ここは天国じゃない。  あれほど苦しんだのにぼくは死んでいない。なぜだ。 「彼はまだ十七歳だし――――児童相談所に――――それまでは、さっきも言ったとおり誰にも知らせずに――――」  …児童相談所。 「それまで俺は、ここにいてもいいですか?」 「もちろん――――なにしろきみは――――張本人だから」  ここでぼくは、はさみで切ったみたいに意識がなくなった。  次に意識が戻ったときも、まず感じたのはさっきと同じ、ピッ、ピッ、と鳴り続ける機械音だった。  そしてシューシューという大袈裟に篭る息遣い。  今度は瞼を開けることができた。うっすらと見あげた視線の先にあるのは、クリーム色の狭い天井に、無機質な蛍光灯。左の空間にごちゃごちゃとした背の高い点滴だのの医療器械。さすがに病院にいるのだなと見当がついた。  感覚だけが覚め、意識は茫漠としていた。それでもここはぼくの絶対に来たくなかった場所なのだということを思い出す。  そう。来たくなかった。なぜなのか…。  それを突き詰めて考え始めれば、猛烈に疲れそうでいまは考えたくない。でもこうやって実際に病室のベッドに横たわり、布団へと深く身の沈んでいる状態になってみれば、あまりにすべてが安穏としていて平安だった。なにをぼくはそんなに怖れていたのだろう。  ここは居心地がいい。安心できる。ぼくを鞭打つ人もなく、少なくともいまは、ぼくのことを人殺しの子だと白い目で見てくる人もいない。休んでいていい、存在を許す、と言われている感じがしてありがたい。さっきまでは不快だった、ピッ、ピッ、とぼくの隣りで生真面目そうに音を繰り出す機械も、いまはぼくの安息を守る毘沙門天みたいに思われなくもない。まったく現金なものだ。  ぼんやりと天井を見あげてしみじみと思った。ここはなんていままでのぼくからかけ離れた平穏な場所なのだろう。 「佳樹」  ごちゃごちゃとした器械のない方、つまりベッドの右側から名前を呼ばれた。声でタカハシだとすぐに分かった。  首をひねって彼を見る。ひねるときに物質的な抵抗があって、自分が酸素マスクをしていることに気付いた。シューシューと呼吸が煩かったのはそのためだ。  タカハシは制服を着ていた。椅子に座っているのか、ごく近くに顔がある。手が伸びてきて、ぼくの前髪の生え際を彼が何度かかきあげた。慈母のような柔らかな手つきだった。 「汗をかいているな」 「…そう?」  シュー。シュー。シュー。  ほんとに煩い。声も篭ってしまうから言いづらい。まるで海中でボンベをかついでいるみたい。

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