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 でも、それでも、もう悟さんの許にだけはけして戻りたくなかった。  それだけは事実、本心だった。  そんなことになるくらいならすぐに死んだほうがましだ。  もういっときだって、あの恐怖に身を置きたくない。どうやってこれまで我慢できていたのかまったく理解できない。それほどに、あのマンション、あのリビング、あの悟さんの部屋には、もう一歩だって近付きたくなかった。  タカハシがひとつ、深く息を吸い込んで、横に首を向けた。  ぼくは首をひねって彼を見た。ふぅ、と大きく息を吐き出して彼はまた眠った。  横顔に斜線を引くようにかかっている髪の隙間から、静かに閉じられた瞼を縁取っている長い睫が見える。  高く通った鼻すじと、少しだけ厚みのある整った唇、美しい曲線を描く男らしい顎。  タカハシはなんて綺麗な顔立ちをしているんだろう。毎晩でも眺めていたいよ。  ぼくは感動すら覚えながら、その奇跡のような寝顔をうっとりと見つめた。もう余計なことなど考えずに美しい寝顔を目に焼き付けていた。  やがて、瞼がぴくぴくと動いたかと思うと、タカハシはゆっくりと目覚めた。  それでも眠たそうに、また、ハァと息をつく。  眉根を寄せた、ちょっと不機嫌そうな顔。寝たりない、という感じ。  ゆっくりと上体を起こし、背もたれにもたれてこわばった首を左右に揺らして、片手で前髪をかきあげる。  その一つ一つの動作を、ぼくは貴重な一瞬一瞬として視界に収め、大切な記憶データとして保存する。  タカハシがぼくに気付いた。途端、その口角があがるのを見て、ぼくの胸が熱く鼓動する。 (好き――大好きだよ、タカハシ。好きでたまらない…!)  魔法の呪文みたいに、それだけですべてが癒されるみたいに、ぼくの心は唱えた。 「なんか、そんな顔で見られると、ヤバい気分になる」  それでぼくはきょとんとする。ヤバいって、どんな気分なのかしらん。 「いま、何時だか分かる?」  タカハシがズボンの後ろポケットからスマホを取り出した。 「十一時」 「もうそんな時間…! タカハシ、学校に行かなきゃ」 「今日は休んでここにいる」  鼻にかかった声と、ぼくへと注がれる柔らかな視線に、つい期待しちまいそうになる。そそるような甘さを、懸命にぼくは意識外へ追いやった。 「だめだよ。今日は合唱コンの日だろ。六年間の最後だもの、あんたは出なくちゃ。練習だってちゃんとしてたんだろ、本番にだって出なくちゃ」 「そうむきになるな。また熱があがるぞ。あんなの、出ても出なくても、どっちでもいいことだよ」  生欠伸をして暢気なものだ。 「でも…っ、ぼくのせいで、休んでほしくないんだよ。合唱コンの最後の思い出、作らなきゃ…!」  ぼくは本気で半べそになった。  だって不良のぼくなんかと違って、タカハシは生徒会長まで勤めた人なのだ。きちんと学校の思い出を作るべき人だもの。  真面目な顔になって、タカハシが答える。あの、たまらなくぼくの胸をくすぐるクールヴォイスで。 「そんな思い出より、佳樹のほうが大事だよ」  ――――あ?  やだ。  なんて殺し文句を使う人だろう。  絶句したまま頬が熱く燃えあがる。困る人だ、とことん。 「熱がさがってよかったな」  いえ。いまあがりました。と、返しそうになる。  でも、その言葉で、本当に検温まで起きていてくれたんだと分かってぼくはまた新たに胸が熱くなった。 「タカハシは寝不足だね。ごめん、ぼくのせいで」  ぼくたちの間にある問題は何一つ解決されていないけれど、いまはこの甘やかな時間に溺れていたいと思った。 「そう、ぼくのせい、を連発するな。ぜんぶ俺が好きでやっていることだよ」  なんでこう、ぼくを喜ばせてくれるセンテンスばかり言ってくれちゃうんだろう。やっぱり、ぼくが弱っているから気を遣ってのことだろうか。――まあ…そうなんだろう。  でも、あんまり優しくされると自分は特別だって勘違いしちゃいそうで困る。  そしてそうじゃないと思い知ったときのつらさを考えるだけで、ただそれだけで、ぼくは胸が張り裂けそうになるのだから、あんまり期待させるようなことは言わないでほしい。

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