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第5話 王子様、再び
じいさんは苦しそうに息を吐いていた。鳩伯爵が立ち回るたびに、じいさんは呻き声を上げた。
じいさんの魔力が消費されているのかもしれない。雄聖の首が転がったのと同時に、じいさんが地面に膝をついた。
「じいさん!?」
じいさんの元に駆け寄ろうとするが、じいさんに「来るな」と止められた。
鳩伯爵は愉快そうにじいさんを見ている。
「おいおい。しっかりしろ。リガード。お前の命の灯が消えたら。その時は契約終了だぞ」
「わかっている。余計な口を叩くな」
「ならいいが——。まだ、大物が残っているようだ」
鳩伯爵は「ポポポ」と気味の悪い声で笑い、それからカースを見据えた。カースはピクリともしない。雄聖とは違う。カースは、こんな凶悪な存在を目の前にしても動じないようだった。
「ぐ……っ」
じいさんの口角から血が滴り落ちた。
「じいさん!」
おれは溜まらず駆け寄って、じいさんのからだを支えた。じいさんの目は血走り、純白の外套は、血で汚れていた。
「凛空。ここは私が抑える。お前は森の入り口に向かえ。オロバス大公がお前を町の外まで連れて行ってくれる。そこで待っている者がいるから。そのお方と一緒に行くのだ」
「でも、じいさんは?」
「大丈夫だ。心強い相棒がいるからな」
じいさんは自分の左中指にはめられていた白銀の指輪を外した。
「これをお前に——」
血でまみれた指輪を、おれの手に押し込む。
「これは、じいさんの宝物じゃ……」
「もう私には必要がなくなった。お前への誕生日の贈り物だ。ちゃんとしたものを用意してやりたいところだが、あいにく時間がない。これは私が生涯伴に過ごしたものだ。きっとお前の人生にも役に立つことがあると思う」
手渡された指輪は周囲の炎を受け、光を放っていた。
『私の大事な人からの贈り物だ』
指輪について尋ねた時。じいさんは、穏やかに笑って答えた。あの時の顔。じいさんは、幸せそうだった。だからこれは、じいさんの大切な宝物だって、おれは知っていた。
「駄目だよ。これは。駄目。おれはもらえないんだから——」
じいさんは首を横に振った。それから、おれの手を取ると、じいさんと同じ、左中指にその指輪を差し込んだ。
「じいさん——」
(これじゃあ、お別れみたいじゃないか……!)
目の前がぼやけてよく見えなかった。何度も何度も首を横に振る。しかし、じいさんの血まみれの手が、おれの頬に触れる。
「凛空。お前はお前だ。それをよく自覚することだ。いいか。自分を大事にしろ。これからいろいろなことがあるだろう。しかし、投げやりになってはいけない。決して諦めてもいけない。命ある限り、お前はお前の人生を全うする義務があるということ、忘れるなよ。いいか?」
「はい……」
「いい子だ」
彼はにこっと笑みを見せてから、おれをぎゅっと抱きしめた。いつものじいさんだった。おれのことを優しく見守ってくれているじいさんの顔だった——。
「よくここまで育った。凛空。私の希望の光。お前のことをずっと愛しているぞ」
「じいさん……!」
(いやだ。じいさんだけ置いていくなんて!)
おれは首を横に振る。しかしじいさんは、有無を言わせずに、そばにやってきていたオロバス大公の背に、おれのからだを押し上げた。
「さあ、行くのだ。森の入り口まで! オロバス大公、凛空を無事に連れ出してくれ!」
「嫌だ! 嫌だよ! じいさん……っ、おれも、おれも。じいさんと一緒にいる!」
オロバス大公はまるで風のように駆けだした。おれのからだは、貼りついてしまったように動かない。これでは降りたくとも降りることができなかった。
「嫌だよ……! お願い。戻って! ねえ、戻ってよ!」
振り返って見ると、鳩伯爵がカースの相手をしていた。じいさんたちは、あっという間に見えなくなる。
おれが走り出したのを見て、黒鳥たちが一斉に飛び立ち、おれたちめがけて飛んできた。思わず目を瞑ったが、何事も起こらなかった。
オロバス大公から神々しい光が放たれた瞬間。黒鳥たちはおれたちに退路を開くように身を引いたのだった。
(これは……)
おれの心の中の問いに対し、オロバス大公は口を開く。
「これは私の力だ。こやつらの精神に働きかけている。こやつらは私に従う。安心しろ。主の命だ。町の外までは、無事に連れて行ってやろう。黒猫の子よ」
「そんな。おれは……」
おれはオロバス大公にしがみついたまま、後ろを振り返る。じいさんがいる辺りには、青白い炎が立ち上がっていた。
(あれは——)
夢で見た炎の色だった。赤い炎ではない。空中を華麗に舞う鳩伯爵の姿も見えた。青白い炎が噴き出している。まるで花火でも見ているような光景だった。
辺りはすっかり夜の帳に包まれている。猫の町は——。平和で穏やかな町は、燃えていた。
「黒猫の子よ。お前になにができるというのだ」
「なにがって」
そう言われてしまうと、言葉に詰まる。ぎゅっと目を瞑ると、オロバス大公が穏やかな声で言った。
「力なき者は、なにも手に入れることはできぬ。——よき主であった。お前のすべきことは、生き延びること。主の思い。お前が引き継ぐがよい。それに私がここにいるということは、まだ主の命は地上に留まっている。町を出るまで持ち堪えられると良いのだが——。急ぐぞ。黒猫の子。しっかり掴まっておれ」
(おれは——なんて無力なんだ……)
もうなにも考えられなかった。ただ無我夢中でオロバス大公にしがみついた。涙がどんどん後ろに流れていく。
(じいさん——。じいさん……。じいさん!)
*
あちこち擦り傷ができていた。浅葱色の制服はボロボロだった。ひどい有様なのはわかっていたけれど、そんなことにかまけている場合ではなかった。
(こんなことになるなんて。まさか、こんなことになるなんて……)
小高い丘を登ったところで「ここまでだ」とオロバス大公が言った。
「私の役目は、お前を町の外に連れ出すこと。黒猫の子よ」
オロバス大公から降りて、彼を見上げる。黒目がちの優しい瞳がおれをまっすぐに見ていた。そっと手を伸ばし、からだに触れようとすると、その姿は静かに闇に溶け込んでいった。
「あ、待って。じいさんは——」
オロバス大公はそれに応えることなく消えた。一人になってしまうと、とても心細くなった。町を燃やす炎が明るく見える。
夜の帳が下りたのだ。森の上には、ぽっかりと大きな満月が浮かんでいた。
おれは口を開けて何度も呼吸を繰り返した。気持ちが昂っていて、冷静ではいられなかった。けれど、ここにいても仕方がない。拳を握りしめてから、じいさんが言っていた人を探すことにした。
どうせ一人で戻っても、おれでは役不足だ。じいさんの言っていた人に助けを求めたほうがいい。そう思ったのだ。
ふらつく足元に力を込めて、なんとか歩みを進めていった。
すると——「待っていたぞ。黒猫」と低い声が響いた。そこに立っていたのは、大きな体躯の獣人。
(この人が? ——いや、違う!)
それは本能で理解した。この人じゃない。じいさんの言っていた人は、この人じゃない——。
そう思ったけれど、おれのからだは思ったようには動かない。あっという間にその獣人に胸倉を掴まれて引きずり上げられた。
月明りで露わになった男は虎だった。ふさふさの耳は黄色と黒の縞模様。頬にうっすらと残る黒い線はまさに虎。同じ猫族なのに、体格が違いすぎる。
がっちりとした肉体は、見事に鍛え上げられていて、おれが暴れてもびくともしないくらい強靭だった。
「薄汚ねえ野良猫だなあ。こんな奴が本当に歌姫なのか?」
虎族の獣人はそう言った。彼は一人ではなかった。その後ろから、長身の、やはりがっちりとした体躯の男が顔を出す。
「汚い言葉を使うんじゃないよ。老虎 。歌姫に失礼だろう」
「だってよぉ。スティール」
二人の後ろには幾人もの黒い人影が見えた。この人たちと行ってはいけない気がした。
「離せ!」
おれは必死に抵抗を試みる。しかし、それは無駄なあがきだった。
「うるせぇガキだ!」
虎族の獣人——老虎は、おれの声を抑え込むように、掴んでいる手に力を入れてきた。喉元が締まって息が吐けない。目の前がちかちかした。
今まで気がついていなかったが、おれのからだは、かなり限界を迎えていたようだ。手も足もがくがくと震えて、力が入らなかった。
「おい。やめろ。老虎。死ぬぞ」
スティールという男が叫んだ時、ひゅんと風を切る音が耳元を劈いた。それと同時に老虎のうめき声が聞こえて、おれは地面に落っこちた。
どすんとお尻が地面にぶつかって前に倒れ込む。目の前の地面には、弓矢が刺さっていた。
老虎はおれを掴んでいた右腕から血を滴らせていた。弓矢が彼を傷つけたのだ、と瞬時に理解した。
「クソ野郎! おれは弓が大嫌いなんだよ」
「途中から横取りするのは、止めてもらおうか」
鬱蒼とした森から姿を現したのは——大聖堂で見かけた王子様だった。彼は弓を構え、スティールたちを狙っていた。
(王子様だ。ああ、お願い。じいさんを助けて。じいさんを助けてくれる?)
スティールは「お前……まさか」と言った。
「お前一人でここまで出向いてきたというのか? おいおい。呆れるぜ。護衛はどうした?」
スティールは驚愕の表情の後に冷笑を浮かべたが、王子様は堂々と言い放った。
「一人で来てなにが悪い。凛空を迎えに来るのは、おれと決まっているのだからな!」
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