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第9話 手を繋いでもいい?
「ピスだ。内務大臣として父の代から仕えてくれている。エピタフと共に、おれが信頼している者の一人だ」
「サブライム様のことは、生まれた時から存じ上げております」
「だからね。頭が上がらないんだ。おれの人生の大半を掌握している人だ。父親のような存在だよ」
骨——いやいや。ピスは、おれの顔をまじまじと見つめた。
「大きくなったものだ。赤ん坊の頃、一度会ったきりだ」
彼は眼鏡をずり上げてから、咳払いをした。
「キミが生まれた夜のことは、まるで昨日のことのように覚えているよ。太陽と月が一直線になった夜だった。生まれたばかりのキミをリガードと私で引き受けた。ご両親は涙を流していた」
自分の生い立ちを聞いたのは初めてだった。おれは生まれた瞬間から両親と引き離されていたということか。道理で、両親との思い出が一つもないわけだ。
「赤ん坊を母親から引き離すことは、我々にとっても辛い決断であった」
ピスはふと声色を和らげた。
「母親の凛は、最後の最後までキミを抱きしめて離さなかった。『死んでもいい。少しでもこの子の側にいたい』と懇願してきたのだ。そんな凛を、君の父親である空海は、ただ抱きしめていた。
だが——それは叶わぬ願い。しかるべき場所で管理されなければならない存在。我々は、泣く泣くキミを連れだした」
初めて聞いた。父さんの名前は「空海」。母さんの名前は「凛」。そうか。おれの名前は二人からもらったのか。
「あの。両親は……」
「彼らは猫の町を離れ、王都で隔離されて暮らしていた。空気も環境も悪かったのだろう。その後、二人とも亡くなった。残念なことだ」
黙り込んだおれの様子を見て、ピスは「お悔やみ申しあげる」と頭を下げた。
大臣と言ったら、王様の次に偉い人だ。一般庶民からしたら雲の上の人である彼に、気を使ってもらうなんて、なんだか居心地が悪かった。
「おれの家族は、じいさんと雄聖だけでした。二人がいてくれたから。おれはここまで幸せに暮らしてこられたんです。一目会ってみたかったですが……。もういいんです。今はじいさんと雄聖を失ったことのほうが辛いです」
ピスは、ここで初めて表情を和らげた。
「我々も辛い。リガードは私の戦友だった。彼の訃報に触れ、目の前が真っ暗になった。若い頃から戦いに明け暮れてきた人生だった。キミとの時間は、彼にとったらとても尊いものになったに違いない」
若いころのじいさんのことは知らない。けれども、きっと色々な苦難があった人なのかも知れない。
朝起きていくと、いつもすっかりと身支度を整え、雄聖が準備をしてくれた朝食を食べているじいさんの姿を思い出した。
『おはよう。凛空』
微かな笑みを浮かべているじいさんを思い出す。あの笑顔をもう見ることができないのか、と思うと、言葉が出てこなくなった。涙を堪えるように、唇を噛みしめた。
ピスはじっと押し黙っておれを見つめてくれていたが、表情を険しいものに戻してから言った。
「感傷に浸る時間も必要だ。しかし時は待ってはくれないだろう。キミはこれから、歌姫としての資質を問われることになる」
「スティールが言っていた。おれの中に歌姫の魂があるって——」
サブライムは頷いた。
「そうだ。お前は平和をもたらす歌姫の魂を抱いて、この世に生を受けた黒猫だ。これからお前には、様々な試練が待ち受けている。だが、大丈夫だ。凛空なら。きっと乗り越えることができる」
サブライムはおれのことを信じてくれているみたいだった。昨晩出会ったばかりなのに。どうしてそんなことが言い切れるのだろうか——?
ここには誰もいない。知っている人が誰もいないんだ。そんな場所で、こうしておれのことを信じてくれている人がいるということに、少なからず心が和らいだ。
「貴族院の者たちが広間に集まっております。皆、救世主である歌姫を一目見ようと、首を長くして待ちわびているのです。凛空を紹介していただきたい」
「面倒だな。どうせ、本当の歌姫なのかと疑っているのであろう。そんな輩に凛空を紹介したくはないのだが——」
「王よ。凛空を大事に思うのであればこそ、必要なことでもあるのですぞ」
ピスの腹の底から響くような声は、ものすごい威圧感があった。おれは思わず肩を竦めたが、サブライムは大して気にもしていないようだ。「わかっている」と軽く返答をした。
サブライムは、椅子にかけられていた、輝くような純白の襯衣 を羽織る。それから、その上に天鵞絨 地の紺色の上着を着用した。
ふんわりとしている真紅の襟締を結ぼうとする様子を見て、すかさずピスが手を差し出し、それを整えた。
「いい加減に人を使うことを覚えていただきたい。ご自分でなんでもしようとするから、周囲の者たちから、甘く見られるのですぞ」
「人に任せるのが王だ、と言うのならば、王とは赤ん坊ではないか。くだらない話をするな。そんなちっぽけなことで、王の資質が問われるというのか」
「然り。そんなちっぽけなことが重要なのです」
サブライムは不本意そうに押し黙った。ピスが襟締を結び終えると、サブライムは踵を返す。
「凛空。行くぞ。皆に紹介しよう」
「……うん」
おれの身長よりも遥かに大きくて重そうな、装飾の施された扉が押し開かれると、そこは今まで見たこともないような美しい世界が広がっていた。
(これが王宮——。なんてすごい場所なんだろう)
今まで生きてきて、一番美しいと思った場所は、町の中心にあった大聖堂だ。大聖堂と王宮とでは目的が違うから、比べても仕方がないことだが、それでも比べ物にならないくらい、豪華絢爛な装飾が施されている場所だった。
どこまでも続いている廊下には、ふかふかの赤い絨毯が敷かれている。高い天井には花を表現した複雑な模様が描かれ、硝子がたくさんついている飾りがぶら下がっていた。
更に支柱には、細かい植物の装飾が施され、壁には大きな肖像画がいくつも飾られていた。
全てが眩しすぎて、なんだか目がちかちかとしてしまう。おれは何度も瞬きを繰り返して、なんとかその光景に目を慣れさせようと努力した。
しかし、サブライムやピスはお構いなしだ。慣れた様子で、その廊下を颯爽と歩く。二人の歩幅が広すぎるせいで、小走りにならないと、あっという間に置いてきぼりになりそうだった。
「オペラは昨晩の処理作業に追われていますので欠席です。それ以外の者たちは揃っております」
サブライムの横顔は、昨晩から見ていたその表情とは違い険しい。なんだか余計に不安になった。
ふと立ち止まったサブライムが、手を差し出した。
「ほら」
おれはゆっくりとその手を受け取った。すると、温かい彼の手が、ぎゅっとおれの手を包み込んだ。
「泣きそうな顔をするな。お前はお前だ。そのままのお前でいればいい」
「余計なことを考えずに、流れに身を任せることも大事である。君の中には、確かに歌姫の魂があるのだから」
眼鏡を押し上げて、ピスも言った。
「ピスが励ましてくれるなんて珍しいぞ。大丈夫だ。おれたちがいる」
サブライムはおれの手を取って歩き出す。彼の手の温もりがじんわりと心に沁み込んできた。不安だった気持ちが少し和らぐのがわかった。
長い廊下を歩いて行くと、両開きの扉が見えた。脇に控えていた騎士が、サブライムの登場に合わせて、その扉を開いた。
中は大聖堂よりも、何倍も広かった。少し細長い部屋の両脇には、おれの背よりも高い硝子窓が続いていて、そこから柔らかい日差しが注いでいた。
部屋の突き当りには、床から数段高くなっている場所があり、そこには一脚の大きな椅子が置かれていた。あれが、サブライムが座る席——王座。
廊下と同様に敷かれている絨毯を挟んで、その両脇にはたくさんの人がいた。サブライムの出現に、彼らは次々と頭を垂れた。
サブライムは王座へと続く階段を上る。ピスに促されて、おれも一緒にその階段を上った。
サブライムが王座に腰を下し、右後ろに直立したピスの更に後ろにおれは立たされた。視線を床に落としているというのに、そこにいる彼らが、おれの様子を伺おうとしている気配がひしひしと伝わってくる。なんだか居心地が悪くて、思わず一歩下がった。
「遅くなって悪かった。顔を上げてくれ」
サブライムの張りのある声は、この広々とした空間に響き渡った。そこのいた人たちは人間族だった。
甲冑を身にまとっている者。外套を目深に被っている者。きらびやかな衣装を身に着けている者。みんなそれぞれの恰好をしている。獣族は——エピタフしか見当たらなかった。
ピスが昨晩のことを伝えた。
「約束の日であった昨夜。猫の町がカースの襲撃を受けた」
すると、どこからか声が上がる。
「猫の町はリガードが隠蔽 魔法をかけていたと聞きます。カースに見つかったということは、リガードの落ち度ではないのでしょうか?」
「リガードの問題ではない。カースは狡猾。言葉巧みに内通者を作り、約束の日を待ち続けていた。さすがのリガードも住人全員を把握することは困難である。これはリガード一人に押し付けた王宮の落ち度として捉えるべき問題である」
ピスは軽く咳払いをした。おれは嬉しかった。彼がじいさんを擁護してくれる様が嬉しかったのだ。
そこに集まった人々は口々になにかを言い始めるが、ピスはお構いなしに言葉を続けた。
「報告では、町は半壊。住民に多数の死傷者が出ている。現在、厚生省の救護部隊が現地入りをし、オペラの指揮の元、被害状況等の調査と、負傷者の救援に尽力しているところだ。明日には詳細な被害状況が明らかになるだろう」
ピスは小さく頷いた。それを受けて、今度はサブライムが口を開いた。
「リガードが命を賭して我々に託してくれた歌姫を紹介しよう。——凛空」
名前を呼ばれて、はったとして顔を上げる。しっぽが大きく膨らんでしまった。怖かった。そこにいる人たちの目が。冷たく感じられた。今まで、こんなに多くの人に、こんな目で見られたことはない。
おれのからだの特徴を見ているのだろうか。ひそひそとした声が一段と大きく聞こえてくると、なんだか悪口を言われているみたいで怖かった。
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