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第49話 憎悪と魂と
「おれは書記官として王宮に残ることになった。音を見守れる場所にいられるのであれば、どこでもよかったのだ。おれたちは職務の合間を見つけて二人の時間を過ごした。おれはそれだけで幸せだったのだ。
しかし周囲は、おれたちを放っておいてはくれなかった。たった一つの大事な音をおれから奪っていく。人間のその横暴さ。傲慢さ。そんなものには神の鉄槌が下されるべきだ。いくら獣人を虐げればいい? おれたちは、人間に弄ばれるために生まれてきたのではない!」
カースは千年前の憤りを表出していた。それは千年もの時を経ているというのに、色褪せることはない。
「人間を滅ぼすという目的を邪魔したのは、よりにもよって音だった——。おれはなんのために悪魔に魂を売った? お前のためだったのだぞ? 音!」
愛しい思いが強すぎて、音に対する憎悪が膨らんでいるのだ。もしかしたら、この千年という長い時間が、その憎悪を増幅させていったのかも知れない。
カースはおれの中に眠っている音に揺さぶりをかけてくる。おれの心の中は嵐のように混乱していた。
「人間は傲慢だ。おれは人間が許せない。おれの細やかな幸せを奪う人間が嫌いだ。人間など滅んでしまえばいい。他の種族を虐げて手に入れた平和になんの意味がある。偽善だ。おれは人間を滅ぼし、音と二人だけの世界を作り出す」
——カース
音の声は悲しみに暮れているようだ。
——貴方は美しい
「そんなこと、音は一つも望んでいないよ!」
おれはそう言い切った。けれど、カースは肩で息を吐き冷静さを取り戻す。
「——お前とのおしゃべりはここまでだ。さあ、黒猫。音の器となれ!」
カースの腕から逃れようとすればするほど、彼はくねくねとからだを揺らし、おれの動きを封じ込めていく。おれはいつの間にか、そばにある漆黒の祭壇に押し倒された。
「音の匂いがする。音が呼んでいるようだ。さあ来い。お前を待っていたのだよ」
カースの唇がおれの唇に触れた。それは冷たい。けれど、サブライムとの口付けのように甘い物ではなかった。
まるで、からだじゅうの全てが吸われていくような感覚に頭の芯ががたがたと揺らされていた。
カースを突き離そうと肩を押し返すが、その腕を掴まれて、余計に動きを封じ込まれた。カースのからだはいつのまにか蛇のようにぐにゃぐにゃと変形して、おれのからだにぐるぐると巻きついていたのだ。
(た、助けて——!)
意識が遠退きそうだった。
からだの奥から、なにかが引っ張り出されていく。
——凛空 そのまま 流れに身を任せなさい
(誰? 誰なの?)
——大丈夫です 恐れることはありません
(音?)
——あなたの中は心地がよかった 皆に愛されてきた貴方の心は 満たされていて 私も幸せでした
(おれは……消えちゃうの?)
——大丈夫です 私に任せるのです リガードの言葉を信じるのです
(じいさんの?)
おれの左中指がぼんやりと熱くなる。その熱は、どんどん広がって、からだ全体を包み込んでいった。
——リガードは 貴方が貴方でいられるように 指輪に魔力を込めていました 安心なさい 貴方の魂は、彼の魔力で包み込まれます 流れに身を任せるのです 凛空……
怖くはなかった。おれのからだはじいさんの温もりに包まれているみたいだった。
——カースとは常に独りぼっちの可哀そうな子なのです 私がいないと駄目な子 大丈夫です 私がいますから……
(そうだよ。ねえ、そう。音。もうカースを一人にしちゃ駄目なんだから。もうその手を離さないでいてあげて)
ふと彼が笑みを浮かべた気がした。あまりにも強い光の中。ふと目の前に立ち現れた音の口元が綻ぶ。少しずつ消えていく彼に手を伸ばそうとすると「凛空!」と、おれの名を呼ぶ声が微かに聞こえた。
それを合図に強い光はすっと消えた。それと同時におれのからだの中から、『なにか』が出て行ったのを感じた。
息が止まっていたのだろうか。全てが吸いつくされた瞬間。おれは大きく肩で息を吐いた。夢の中にいたような感覚から、現実に引き戻された。
痛み、苦しみ、冷たい。そんな感覚が一気に戻ってきて、思わず大きく咳込む。そのからだを抱きしめてくれる温もりがあった。
——凛空 あなたは 大事なものを大切にするのですよ
音の声が耳に残っている。大きく息を吐いてから見上げると、そこには——サブライム。彼がいた。
サブライムは、おれのことをすごく心配そうな顔で見下ろしていた。
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