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第1話 天変地異
それは、衝撃。
音のない世界でじっと目を瞑ってた。
水の中で揺蕩っていた。
けれど、彼の声を聞いた瞬間、彼の歌を聴いた瞬間、世界に稲妻が走って、僕が漂っていた水を駆け抜けた。
それは、感電。
そして、僕は――。
人は、苦手だ。
そして、僕自身も、僕は苦手。
「いやいや、あの作家の本は僕はどうかと思うなぁ」
「そうですか? 大人気じゃないですか」
「いやいやいや、人気の作家だから良作ばかりってことでもないでしょ」
「椎奈(しいな)くんはどう思う?」
「ぇ」
びっくりした。
いきなりこっちに話を振られても。
「いえ……僕はとくには」
「でしょでしょ。でしょー」
会話をいきなり、隣の席にいた同じ図書館勤務の同僚から振られて、思わず身構えてしまった。
「あ、彼、椎奈くんって言って、うちの文学部門担当。すごく小説詳しいんだよ」
「えぇ、そうなんですね。今度ぜひ、色々教えてください」
「……ぁ、はい」
前に座った……確か、隣の地区の司書の人がじっとこっちを見つめてる。
「こちらこそ、宜しく、お願いします」
そう小さな声で呟いて、手元に視線を移した。
俯いていよう。
話しても、話さなくても、きっとどちらにしても、「なんなんだ」と思われてしまうだろうから。だから、その表情をチラッと見て、あとはそのまま小さな声で短く、素早く、相槌だけした。
僕が働いている図書館の館長の送別会だから出ないわけにもいかないけれど、でも、飲み会も、苦手。定年退職される館長に最後なのだからと挨拶したくて、けれどたくさんの人に囲まれている館長に声をかけるタイミングがわからなくて、帰り際になかなか帰れなかった。
あそこでまごつかなかったらもう一本早い電車に乗れたのに。
「……はぁ」
一本前なら快速だったから。それに乗りたかった。これ、各駅停車の電車だし。その上、何か安全確認のためにって変なところで停車してるし。
停車したままもう二十分になるし。
ついてない。
失敗した。
そう思って、また一つ溜め息をこぼした。
もうこんな時間だ。
早く帰りたい。明日は休館日だからまだいいけれど。
僕は帰って、新しい小説でも読んでいたい。
「はぁ」
そんなぼやきを頭の中でだけ呟いた時だった。その頭の上を掠めるように、目の前で人が、ゆらりゆらりと。
「……!」
揺れている。
というか、よ、酔っ払い? 電車の端の席、僕が座っているところは扉のすぐ近くで、出入りする人、それから扉付近に立つ人との間になる衝立がある。その衝立から乗り出すように、柱に身体を預けて、ゆらり、ぐらり、人が揺れてる。
「!」
ちょ、あのっ。
「っ!」
わ、何。
銀色の髪の人。黒いマスクしてて顔は見えないけど、耳にはピアスがくっついてて。きっと遊んでる人。
酔っ払ってるんだ。多分。
泥酔。
その人が、まるでゾンビみたいにグラグラと、今にもここに倒れてきそうなのに、ギリギリ、その肩に当てている柱のおかげで、倒れ込むことなく、けれど、柱に寄りかかっているだけだから、とても不安定で、まるで海岸に打ち寄せる波みたいに。
ぐらーって、座ってる僕の方に来たかと思えば、フラーって、引き返して、また、ぐらーってこっちに。
そのまま倒れ込んでくるんじゃないかと、僕は、その銀髪の人がこっちに揺れてやって来る度に戦々恐々としてた。
倒れ込んできたらどうしよう。
怖いし。
それに、今の時点で目立ってそうで、すごく恥ずかしいし。
席譲ろうかな。
そしたら、この人もこんなに揺れたりしないで済むし。
でも、どうぞって声かけるの、ちょっと。電車の中、やたらと静かだから、目立ちそう。
それは、やだな。
でも、僕の上に倒れられたらもっとやだし。
チラチラと周囲から視線を向けられてる気がして、ただそう思っただけで、頬の辺りに辺りにぎゅっと力が籠る。
何かあると、すぐにそうなるんだ。ぎゅっと。
それが他の人には怒っているか不機嫌なように見えるようで、よくそれで相手の気分を悪くさせてしまうらしい。それに僕は声が低くて少し掠れてるというか。だから、余計に怒っているように受け取られてしまう。もちろん、怒っているのでも不機嫌なわけでもない。ただドキドキしたり緊張しているだけなのに。
だから人が苦手になった。
だから、どうしてもそんな表情になってしまう自分のことも苦手になった。
「んー……」
その人が急に顰めっ面をした。
え? もしかして、気持ち悪いとか?
えぇ?
そう思った時、また大きくぐらりと揺れて、僕の隣の人の頭上ギリギリまで倒れ込みそうになった。
隣の人は倒れ込まれたらイヤだと思ったんだろう。ものすごく怪訝な顔をしながら、席を立って別の座席へと移動した。
「あ、あの、どうぞ。座れますよ」
「?」
僕は急いで席を一つずらして、一番端の席をそのな銀髪の人へと差し出す。ここなら揺れても隣は衝立だし、まだマシかなって。
「んーあえ? ここ電車?」
え? 電車って気が付いてなかったの?
「止まってる……」
窓の外をじっと見つめて、マスクの中でもそもそと呟いてる。店、もう出たんだっけ? って。
「動かないね」
え、僕に話しかけて。
「っ」
一番僕の苦手そうな人にじっと見つめられて、思わず身構えた。
「あれ?」
「!」
またいつもみたいに、何怒ってるの? と不機嫌にされてしまうと思った。それでなくても相手は怖そうな人だ。どうしよう。いちゃもんをつけられたりしたら、と俯きかけた。
「あはは、そんな緊張しなくていいよ」
え?
「電車、動かないね」
「は、はい」
返事をすると、またじっと見つめられて。
「ショートカットの子、いたっけ? まいっか。さっき、聴きたいつってたっけ」
怒られ、なかった。何怒ってるの? と、怒られなかった。
「いーよ。これ」
「え?」
どれだけこの人、お酒飲んだんだろう。僕を同席していた友人と間違えてるみたいだ。
「はい」
「あ、あの」
「そんで……」
びっくりした。
耳に、何か触れたと思って。慌てて。それは、その人が持っていたイヤホンで。
「んで」
その瞬間、電気が走った。
「!」
ガタン、と揺れた。
「あ、電車動いた」
それは、衝撃。
音のない世界でじっとしていたんだ。
水の中で揺蕩っているのが好きだった。
一人で、ゆっくり。そうしていたら、誰にも不機嫌だと叱られないから。
けれど、彼の声を聞いた瞬間、彼の歌を聴いた瞬間、世界に稲妻が走って、僕が漂っていた水を駆け抜けた。
それは、感電。
そして、僕は――。
「それじゃ、またね」
「…… 」
その泥酔していた銀髪の人はやっと動き出した電車が到着したその駅のところで立ち上がり、誰か全く知らない女性の名前を口にすると、電車を降りていってしまった。
「……」
僕の耳にアクセサリーのような金色をしたワイヤレスのイヤホンを残して。
さっきまで耳に触れていた音はすでに、その繋がっていたはずのスマホが遠くに行ってしまったせいで、音が途絶えていたけれど。
「……」
僕の耳には確かに、今さっき聴いた、音楽が、歌が、いまだに鳴り響いている気がした。
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