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第1話「受難の幕開け①」

 日本のとある場所に存在する都市「江楠田市」。今日、この都市では不可解な事件が多発している。  その事件とは、人間が触手の生えた化け物に変わってしまうというものだ。しかもぬるぬるぬめぬめの触手人間と化した人間は更に仲間を増やすために人を襲い、増殖する。この「触手人間パンデミック」は、日夜江楠田市を騒がせ、人々を震え上がらせていた。  警察は感染が恐ろしいらしく、迂闊に触手人間に手を出すことを躊躇っていた。病院は隔離された触手人間で溢れかえり、治療法もないままに犠牲者だけが増えていく毎日。都市はぬめぬめの触手によって、疲弊していた。  そんな中、とある部隊が江楠田市で結成された。  その名は、特殊部隊「レチェラス」である。レチェラスはとある大学教授が都市の平和を守りたいと願う青年達を集めた民間団体だ。  彼らは独自に開発した武器や装備を使って触手人間と戦い、尚且つ触手人間となってしまった人間を治療する活動を行っている。 レチェラスに所属する青年達は平和への志が強いだけではなく、皆頭脳明晰で身体能力に長けている者ばかりが集まっているのだ。  まず、部隊のリーダーである白金明人は柔道の全国大会優勝経験者である。力が強いだけではなく瞬発力もあり、俊敏な動きで敵を素早く打ち倒す。頭の回転も速く、多角的な視点と知識を持ってリーダーシップを発揮する百戦錬磨の青年だ。  部隊の副隊長の神奈木礼司は芸術一家の生まれである。だが芸術だけに傾倒しているわけではなく、スポーツ全般をそつなくこなす運動能力を持ったまさに天才肌だ。素早い判断力と大胆な行動力で、リーダーである明人を支えている。  三人目の隊員である白金律は明人の義理の弟で、主に資金管理を中心に担当している。経済学部に通い、バレエで鍛えた柔軟な肉体を使った戦闘を行うのが特徴だ。生真面目な性格であるが、部隊の統率が守られているのは律の真面目さのおかげでもある。  四人目の隊員の朝日ユウマは天文学を専攻する現役の大学生だ。身長が部隊の中で一番高く、百九十センチはある。柔道経験者である明人よりも力持ちで、触手人間の捕獲および搬送を行うのは彼の役目である。非常におっとりした性格で、今はチームのムードメーカー的存在だ。  五人目の隊員である早乙女琉衣は理工学部の大学生で、レチェラスの隊員達が使用する装備の開発担当である。戦闘能力も申し分なく、自身の開発したアイテムを駆使して触手人間と戦う。触手人間を元の人間に戻す特殊な光線銃や、触手人間からの感染を防ぐ防護服と武器を作り上げたのも彼だ。琉衣の頭脳がなければ、レチェラスは成り立たない。  この五人を中心に編成されたレチェラスは、暗雲立ち込める都市に差し込む一筋の希望になりつつあった。  レチェラスが一般市民である青年達で構成されている事は世間では知られていない。メンバーの素性も隠されている。それは、素性を大々的に公開する事でメンバーの家族や関係者に危害が及ぶ可能性があるからである。  触手人間は、人為的に誰かが発生させたものであるということは既に突き止められている。だが、触手人間を開発した人間の正体がハッキリと分からない以上迂闊に部隊の情報を公開する訳にはいかない。誰が敵なのか分からないから、メンバー及びメンバーの関係者の安全のためにも用心しなければならないのだ。  そして今日も、我々は都市を脅かす触手人間から人々を守る活動を行っている。 **** 「……ふう」  オペレーションルームの一角。デスクトップパソコンのモニターに映る活動報告書を前に、僕は一人息を吐いた。椅子に座ったまま一つ伸びをしていると、横からそっと机にカフェオレの注がれたマグカップが置かれる。 「お疲れ様、敬太。報告書まとまった?」  マグカップを置いてくれたのは、レチェラス五番目の隊員こと早乙女琉衣さんだ。僕は琉衣さんの作ってくれたカフェオレを一口飲むと「はい。とりあえず今日の分は……」と笑った。 「そっか。いつもありがとねえ、敬太。大学のレポートとか授業もあって忙しいのに、ほんとごめんすぎる」 「いえいえ、今日はもう授業は全部出席しましたし、大学のレポートは一通り全部終わっているので……それに、今は部隊での活動の方が大事ですから」 「そう? ならいいけどさ~」  艶のある長い黒髪の合間にピンクのメッシュが入ったお洒落な髪を揺らし、琉衣さんは手に持っていたマグカップを口に運ぶ。ブラックのコーヒーを一口飲んで、琉衣さんが「あ」と何かに気づいたみたいに声をあげる。 「ていうか、敬太の事もちゃんと活動報告書に書いてよ? アンタも大事なレチェラスの隊員なんだから」  言われてぎくりとする。僕はぎこちなく笑って、「あー忘れてました……」と零す。琉衣さんは疑うような、じとっとした瞳を僕に向けた。 「しょーがないな。じゃあ僕が書いてあげる」 「えっ、ちょっと琉衣さん!」  琉衣さんは近くから事務椅子を引っ掴んで持ってくると、僕を椅子ごと押しのけてパソコンの前に陣取った。事務椅子に座り、パソコンのキーボードを琉衣さんがカタカタと叩き始める。 「えーっと、名前は橋本敬太隊員……体育学部所属の大学二年生で、明人さんの部活の後輩。座学が得意なレチェラスの情報収集専門の隊員っと。普段は大人しくって良い子だけど~辛いモノと苦いモノが苦手で、カフェオレを作るときは砂糖三杯入れないと飲めなくてえ……」 「わああ! そんなことまで書かなくていいですよ!」  僕が慌てて琉衣さんを止めると、琉衣さんは楽しそうに目を細めて「えー? 大事な情報じゃん!」と笑う。完全に僕の反応が面白いからって遊んでいる顔だ。琉衣さんはいつも優しくていい人だけど、時々こうやって僕をからかってくるから困る。でも年上だからあんまり逆らえない。 「まあいいや。とにかく敬太はちゃんと自分の事も書きなさいね? いつも明人さんも言ってるじゃん。敬太も大切な隊員の一人だって」  琉衣さんが僕の額を小突く。僕は「すみません……」とちょっと俯いた。  とは言ったものの、僕は別に琉衣さんやリーダーの明人さんみたいに選ばれてレチェラスに入ったわけではない。むしろ、無理矢理入ったみたいなものなのだ。  僕は大学の部活帰りに触手人間に襲われた所を明人さんに助けられ、その時明人さんがレチェラスである事を偶然知ってしまったのだ。明人さんは「この事は誰にも言わないでくれ」と言って立ち去ろうとしたのに、僕は明人さんを引き留めて「僕もレチェラスに入れて欲しい」と懇願したのだ。触手人間にまつわる被害は僕も知っていた。自分の大切な人が触手の化け物になるかもしれないなんて馬鹿げた恐怖から、一刻も早く都市を救いたかった。僕も、戦いたかった。  明人さんは最初こそ僕の頼みを断ったが、何度も僕が頭を下げると「……司令と相談する」と言って、司令塔である体育学部の教授、二条武史教授に入隊を掛け合ってくれた。それから数日後に二条教授と面談があり、成績や生活状況などを考慮したうえで僕は情報収集専門の隊員としてなら入隊していいと許可を受けた。  僕は入隊してから、レチェラスの活動情報や触手人間にわかっていることなどについて必死にまとめあげた。触手人間に関する目撃情報や発生源についても詳しく調べ、自分で触手人間が出現した場所に赴いては現場で「触手人間を発生させている犯人」の手がかりが掴めないかを必死に探した。  最初こそレチェラスのメンバーに信用されていなかったけれど、段々と行動を起こしていくにつれて、皆僕の事を受け入れてくれた。それがすごく嬉しかったし、更に調査を頑張ろうと思えた。無理矢理入ったなりに頑張らなければと、奮闘する毎日だ。 現在は触手人間が発生した際の通報窓口のオペレーターとしての仕事も行っている。僕が通報された情報をレチェラスのメンバーに知らせ、レチェラスの五人が出動する。そういうシステムになっているのだ。  僕は基本触手人間との戦闘には参加しない。僕は戦闘能力に欠けていて、触手人間との戦闘現場にいると足手まといになってしまうからだ。僕は触手人間の事件が発生した場合、基地となっているシェアハウスの地下にあるオペレーションルームから指示を出すだけになっている。  僕の仕事は、五人が出動して触手人間の暴動を鎮静化した後の現地調査をするのがメインだ。目撃者や周辺地域の人から聞き取りを行って、何処から触手人間が発生したのかを辿って犯人への手掛かりを探す。  僕は触手人間と直接戦っているわけではない。だから、感染するかもしれないという恐怖もないし、怪我をする心配もない。それがすごく申し訳なくなる。皆が命を懸けて戦ってくれているのに、僕が出来るのはオペレーターか調査だけだ。自分にできる事を頑張ってるつもりだけど……歯がゆい思いもしている。 「敬太……」  琉衣さんが何かを言おうとした。すると、ピーッピーッとけたたましく警報音が鳴った。誰かが、通報してきたんだ! 僕は通信機器の繋がった大画面モニターに席を移し、すぐに通話を開始する。 「はい、レチェラス本部基地です」  通報してきたのは民間人だ。触手人間が出たらしい。僕は被害状況を通話で聞き取りながら、手元にあるキーボードを叩いてマウスを素早く動かしていく。  通話での聞き取りと通話の発信源からすぐに通報主のいる場所を特定すると、「対応に向かいますので身の安全を確保して下さい」と告げて電話を切った。電話を切ってからすぐに隊員の持っているスマートフォンに緊急連絡を入れる。一斉にメッセージを送信すると、すぐ近くにいた琉衣さんに言った。 「場所は濡果呂区三丁目東にある団地の公園です」 「オッケー。すぐ向かう」 「お願いします」  僕は琉衣さんが部屋に装備を取りに行く背中を見送ろうとした。すると、琉衣さんが何故か立ち止まりこちらを振り返る。 「濡果呂区ってこっから結構あるよね」 「そうですね……今来た連絡を見ると、現場の近くに礼司さんと律さんがいるみたいなので、二人が先に対応してくれると思うのですが…」 「じゃあ敬太、車出してよ!」 「え?」 「車で向かった方が早く着くじゃん? 敬太免許持ってるんだしさ、ね?」 「で、でも……」  僕は足手まといになりますし。そう言いかけて、やめた。きっと琉衣さんは僕に気を使ってくれているんだ。僕が戦闘に参加できなくて負い目を感じているのを少しでも緩和しようとしてくれている。僕はその優しさに更に申し訳なくなったけど、事態は一刻を争う。僕が謙遜しているうちに被害が拡大したら元も子もない。 「わかりました。僕が運転します」 「よぉーし! そうと決まればレッツゴー!」  琉衣さんがバタバタと準備を始める。僕も席を立ち、オペレーション室の壁に並んだ自分のロッカーを開けた。中には装備品のプロテクターや手袋、防護ヘルメットが入っている。少し前に、琉衣さんがもしもの時があったらと僕の為に用意してくれたのだ。僕はプロテクターを装着し防護ヘルメットを被ると、すぐに基地の車庫に向かった。 ****  僕が運転するシルバーのワゴン車の中には触手人間との戦闘を記録・解析する機材や武器装備などが常備されている。また、まれに触手人間は無機物と融合し自身を巨大化したり武装することがあるのだが、このワゴン車は特殊なコーティングが施されているので、触手人間と融合する心配がないのも特徴だ。触手人間に関する現地調査をする時にもよく使うし、この車は移動可能なレチェラスの基地の一つと言っていい。 「う~ん」 「どうしました?」  僕が運転する中、武装した琉衣さんが小さく唸る。ちらりとルームミラー越しに様子を窺うと、後部座席でノートパソコンのモニターを琉衣さんが見つめていた。 「今、りっちゃんから通信来たの。公園のジャングルジムと触手が融合したみたい。的が動かない分いつもよりかはマシだけど、デカいから何本か光線銃を照射しないと……」 「じゃあ、僕も手伝います」  そう提案すると「うん、頼んだ」と琉衣さんが言った。ハンドルを握る手に汗が滲む。ほとんど戦闘訓練はないけれど、僕もレチェラスの隊員だ。頑張らなければ。  しばらくして住宅街に車を入り込ませ、目的地である公園が見えてきた。団地の一角にできた小規模な公園故に、その異様な光景はすぐに目に入ってくる。  公園の中央に位置する場所に、まるで大きなイソギンチャクでも生えたかのようなオブジェ。うねうねと触手をくねらせるあれこそ、無機物と融合した触手人間だ。 「対象、確認しました」  言いながら、公園沿いの道に車を停車させる。自身の装備を確認し琉衣さんと共に車を素早く降りた。  公園の敷地に入ると、先に来ていた隊員の礼司さんと律さんを見つけ、声を掛けてすぐに合流する。 「こちらレチェラス・ファイブ。隊員Hと共にレチェラス・スリーとレチェラス・ツーと合流」  琉衣さんが防護ヘルメットに装着されている通信機に話しかける。戦闘時は皆、本名ではなくコードネームで呼ぶのだ。僕はレチェラスの補佐的なポジションであるから、隊員Hとして作戦時は呼ばれている。 「はあ~あ、まったく、リーダーとフォーは何してんだよ」  ブランコに座りながら、呆れたように欠伸をしたのは礼司さんことレチェラス・ツー。武装しヘルメットを被っているので顔こそ分からないが、多分眠そうな顔をしているんだろう。 「副隊長、作戦中に欠伸なんてやめて下さい。事態はひっ迫しているんですよ」  背筋のピンと正し、イソギンチャクとなったジャングルジムを観察しながらレチェラス・ツーを咎めたのはレチェラス・スリーの律君。彼は双眼鏡で辺りの様子を逐一チェックしながら、周りに被害が及ばないかを注意深く観察している。 「ひっ迫つったって、もう二十分だぜ。周囲の避難も完了してるし、目立った動きもないしよお」 「いつ事態が悪化するか分からないんです。それに、隊長がいない今は貴方に指揮権限があるんですよ副隊長。いつでも戦闘態勢に入れるように準備していてください」 「へいへい。口うるさいったらありゃしねー」 「なにを……」  スリーがツーに詰め寄ろうとした所で、琉衣さんことファイブが「まあまあ! 二人共そこまでにしなさいっての!」と割って入る。 「アンタ達ね、こんなとこまで来て喧嘩しないで下さいな? まずは喧嘩より任務遂行。って事で、移動中に考えてきた作戦について話すよ」  そう言って、ファイブはてきぱきと脇に抱えていたタブレットをいじりはじめる。スリーとツーはファイブのタブレットの方に視線を向け、それ以上言い争いはしなかった。僕は二人の口喧嘩におろおろするばかりで何もできなかったのに、ファイブはやっぱりすごい。 「まず、ジャングルジムと融合した対象の触手人間に四人同時に光線銃をフルパワーで当てるの。それで、弱体化したところで中にいると思われる人間を素早く保護する。あのくらいの巨大化であれば、四人分の光線銃で何とかなると思うけど、万が一の事もあるから注意ね」 「よし、ならすぐに仕事開始だな。スリー、お前は人間の保護担当。ファイブと俺は触手が暴れた時に備えて武器戦闘の準備。H、お前は戦闘データの記録と周囲の無機物と融合しないか警戒。以上」  ファイブの作戦提示の後、すぐにツーが僕達に指令を出す。リーダーが現場に不在な分、ツーの的確な指示があると安心できた。  スリーも仕事モードに入ったツーには文句を言わず、「わかりました」とだけ言って、装着していた光線銃を手にする。僕も光線銃を手にし、準備を整えた皆でジャングルジムの方へと警戒しながら近づいていった。  ジャングルジムと融合した触手人間は、近づいても攻撃してくる様子はない。海の中をそよぐイソギンチャクのようにゆらゆらと揺れているばかりだ。だが、攻撃を加えてからどうなるかわからない。僕はごくりと息を呑む。 「光線銃、発射!」  ツーの声と共に、四つの方面からジャングルジムに向けて眩い光線銃が発射される。光線銃を受けた触手は奇怪な悲鳴を上げた。苦しんでいるのか、うねうねと触手を動かしている。だがすぐに触手の動きは弱まり動かなくなる。 「弱体化成功! スリー、中にいる人間を保護しろ!」  ツーの声にスリーが素早く反応し、腰にあったレイピアを引き抜きジャングルジムの中心部へ向かう。ぷるぷるとした半透明の物体の中に、微かに人影がある。触手が宿主にしている人間だ。触手は宿主となっている人間と引き剥せば寄生先を失って死んでしまう生態なのである。光線銃は触手と宿主を分離させる能力を持っており、しっかりとその役割を果たしたようだ。  スリーが半透明の物体を引き裂こうとした直後、死んだように動かなくなっていた触手が突如として動き出す。怒り狂ったように触手をくねらせ、四方八方に攻撃を始めた。 「うわあっ!」  僕は何とか触手を避け距離を取る。他の隊員も同じく距離を取り、武器を手に戦闘モードへと入った。 「敬太、下がってて! あとは僕達がやる!」  ファイブに言われ、僕は慌ててジャングルジムから離れ、車の近くまで移動する。僕以外の隊員は、暴れまわる触手を華麗に避けながら戦っていた。  ファイブがジャングルジムに向かって特殊な電磁波を放つ小型装置を投げ、触手の動きを鈍らせる。そしてツーは九節鞭で襲い来る触手を薙ぎ払い、スリーはレイピアで素早く動きの鈍った触手を切り刻みながら深部へ向かう。  連携の取れた完璧な動きに目を奪われながら、僕はヘルメットに搭載された録画システムが稼働しているか確認する。僕は情報を記録する役目があるから、ここで皆の戦闘を見守るのだ。 「内部のエネルギー低下してます! スリー、今なら!」  僕が叫ぶと、ツーが邪魔な触手を打ち払って道を作る。「行け! スリー!」というツーの声の中、スリーがしなやかな動きで触手を回避し宿主のいる場所をレイピアでスパッと切り裂いた。  その途端、切り裂かれた内部からどろりとしたスライム状の液体と共に、触手の宿主出あった人間が流れ出てくる。べとべとぬるぬるのしなびたスーツを着てぐったりとする男性をスリーが肩に担ぐと、すぐにジャングルジムから退避した。  宿主であった男性は、救出されてすぐ近くのベンチに横たえられた。ファイブが男性の健康状態をすかさずチェックする。 「……息はある。衰弱してるけど、すぐに病院に運べば……!」  僕はファイブの指示ですぐさま救急車の出動を要請した。ファイブはそのまま男性の治療にあたり、残された三人で宿主を失い瀕死の触手を処理する仕事をすることになる。  既にジャングルジムと分離してどろどろと溶け始めた触手を、車に積んでいた小型の火炎放射器で焼却していく。一部の液体は採取して後にファイブの研究に役立ててもらうつもりだ。入念に処理しないと、触手は次の宿主を探して逃げてしまうかもしれない。 「はあ、終わった終わった。帰って酒だなー酒」 「ちょっと、副隊長。まだ終わったわけじゃありません。気を緩めないで下さい」 「ったく本当に律はお堅い奴だなー」 「まだ作戦中です! コードネームで呼んで下さい!」  またしても口論を始めたツーとスリーに、僕は割って入れなくなる。僕はファイブほど上手く二人を扱うことが出来ない。どうしよう……でも今はファイブは治療に専念してるし……そう思っていると、ピピッとヘルメットの装置が反応した。 「高エネルギー反応……まさか!」  ハッとして僕はジャングルジムの方を見る。それとほぼ同時に、最後の自我の生き残りであろう触手が僕の方に飛んできた。 火炎放射器を構えても遅かった。触手の速さに対応できない。まずい、このままでは……寄生される! 僕はぎゅっと目を閉じ、身を固くした。 「……?」  何も起こらないことを不思議に思い、僕はゆっくりと目を開ける。 「……あ」  僕の視界には逞しく広い背中。僕は自分の目が輝いているのがわかった。気持ちが舞い上がり、僕はその人の名前を呼んだ。 「明人さん……!」  武装したレチェラス・ワン……もとい明人さんが振り返る。片手には、僕に襲いかかってきた触手。触手の細胞を壊死させる特殊な電磁波が流れる装備をしているのもあり、触手による侵食の心配はないが、それにしてもあの素早い触手を素手で掴んだのか。流石過ぎる反射神経だ。 「遅れてすまなかった。怪我はないか」  言いながら、明人さんが触手を握り潰す。あまりの勇ましさに惚れ惚れしていると、横から「何ぼんやりしてんだ敬太」と声がして肩を強く叩かれる。  はっとして横を見ると、いつのまにか口論をやめたらしい礼司さんと律君が立っていた。僕の肩に手を置く礼司さんはやれやれとわざとらしく肩を竦めると「危ねえから気をつけろよ」と僕に言う。 「すみません…」 「君は謝る必要ないだろ。そもそも気を抜いていた僕達も悪い」 「僕達……って俺も入ってるのかよ? まず俺に突っかかってきた律が悪いんだろ」 「僕は注意しただけです!」  ああ、折角終わったと思ったらまた始まった。律君と礼司さんはいつもこうだ。二人共、性格が真逆だからすぐにぶつかる。でも、僕は何も言う勇気がない。 「二人共、やめないか」  明人さんが静かに言った。途端、律君と礼司さんがぴたりと口論をやめる。 「仲が良いのは良いことだが、注意力散漫になれば怪我をしてしまう。俺は誰一人として怪我をして欲しくない。喋るなとは言わないが、程々のコミュニケーションで任務にあたってくれ」  律君と礼司さんが押し黙る。多分本当は「別に仲良くしてたわけじゃない」と二人共反論したいのだろう。だけどしない。明人さんのお叱りはごもっともだからだ。些細な言い争いが任務に支障をきたしてるのは本当のことだし、今後重大な事故や怪我に繋がったら困る。  それに、明人さんの仲間思いな気持ちは二人もわかってるからこそ反論しないのだ。明人さんは誰よりも皆のことを大切にしているし、全て本心で言っている。だから何も言い返せないし、ここは素直に反省するしかない。 「とにかく、焼却が済んだら一旦家に戻ろう。反省会はそれからだ」 「ん?あれ、そういえば隊長ー。ユウマはどうしたの?」 ベンチで男性を治療をしていた琉衣さんが明人さんに声を掛ける。明人さんは「ああ……」となにか微妙な反応をしてから、ヘルメットの上から頬を掻くような仕草をした。 「ユウマは……レポート提出の件でゼミの教授に捕まってるとさっき連絡があった。なんでも羊皮紙にレポートを書いたとかでな……」 「あは……なによう、それ。ユウマったら相変わらず変な奴ねえ……」  呆れたような琉衣さん。明人さんは「通常運転だな」と呟いた。きっと、仮面の下で苦笑いを浮かべているに違いない。  ユウマさんの話題が終わると、再び触手の除去処理が再開された。一通り除去が終わると、明人さんは少し別の用事を済ませてからバイクで帰ると告げてすぐに走り去っていき、琉衣さんは男性の治療と情報提供のために病院へと向かった。  残された礼司さんと律君は僕の運転するワゴン車に乗って家に帰宅。家に帰るまで律君がしょんぼりしていたのが少し気の毒だった。きっと明人さんに怒られて落ち込んでいるんだろう。一方の礼司さんは爆睡だったけど。  家に到着すると、まず車を車庫に置いてから装着していた装備などを地下のロッカーに戻しに行った。  そして地下から階段を登って、ヘトヘトになりながらリビングに入ると、ふんわりと何やら美味しそうな匂いが漂ってくる。 「みんな、おかえり」  リビングの奥にあるキッチンから顔を出したのは、ユウマさんだ。エプロンを付けたユウマさんはのそのそと僕と礼司さんと律君の元に歩いてくると申し訳無さそうに頭を下げた。 「今日、出動、出来なかった。ごめん。代わりにご飯、いっぱい作った。食べて、くれる?」  恐る恐るといったようにユウマさんが僕達を見て首を傾げる。すると、礼司さんが僕と律君の前に出て、ユウマさんの前で腕を組んだ。 「献立は」 「肉じゃがと、アジフライ、味噌汁。あとポテトサラダもあって、食後はプリンがある」 「よし、許す!」  即答の礼司さん。副隊長たる威厳を発揮してるように見せているが、さっきから礼司さんのお腹がずっと鳴っているのを僕も律君も聞き逃さなかった。  僕はそっと律君と顔を見合わせる。律君も少し元気になったみたいで、眉を吊り下げて困ったように笑っていた。いつもの和やかな雰囲気が戻ってきた気がする。 「冷めないうちに飯食っちまおうぜ」 「でも、まだ明人さん達が戻ってきてないですよ?」 「ンなの待ってられねえーって。琉衣は当分病院で調査だろうしさ。……それに、白金はどーせ教授に会いに行ってんだから遅くなるに決まってる。なあ、律もそう思うよな?」  礼司さんがうんざりしたみたいにため息を付き、律君の肩を叩く。律君はちょっと嫌そうな顔をしてから「……副隊長の言う通りかもしれないですね」と眼鏡のブリッジを押し上げる。律君が礼司さんに同調するなんてちょっと意外だ。  僕が目を丸くしていると、スマートフォンが振動する。見てみると、隊員共有のグループチャットに琉衣さんから連絡が来ていた。内容は礼司さんの言う通り「病院での調査があるから先にご飯食べててー」という内容だった。それからすぐに後から「俺も遅くなる」と明人さんからのメッセージが入った。 「ほら! やっぱな。つーことで、飯食うぞ」  礼司さんがリビングに置かれたダイニングテーブルに向かい、僕と律君も後ろをついていく。いつのまにかキッチンに引っ込んでいたユウマさんがにこにこしながら皿を机に置いていき、僕と律君も配膳を手伝う。礼司さんは面白いくらい何もしない。  食事が全て並ぶと、一目散にご飯を食べ始めたのは礼司さん。すぐに空になった茶碗でご飯をお代わりして、食べ盛りの学生みたいな食べっぷりに思わず笑みがこぼれる。礼司さんってモデルみたいにスラッとしてるのに、一体どこにそんなに食物を蓄えるのだろう……。  律君はそんな礼司さんを横目に静かに丁寧に食事をする。箸の持ち方や小さな作法が綺麗な律君は、見習いたいものがある。 「敬太、食べない?」 僕の隣でユウマさんが不思議そうな顔をする。僕は慌てて「いただきます!」と手を合わせると、お皿にのったアジフライを頬張った。  アツアツサクサクの衣に、ふんわりとした口触りの魚の旨味が口いっぱいに広がる。ソースとの馴染もよくて、僕は「おいしい!」と口元を緩ませた。 「よかった……」  ユウマさんがホッとしたように微笑む。僕も実は礼司さんと同じくお腹が空いていたみたいで、肉じゃがやポテトサラダをおかずにしてすぐにご飯をお代わりした。ユウマさんはニコニコと嬉しそうにご飯をよそってくれて、僕も幸せな気持ちになった。  しばしの休息の時間。食事をしながら他愛もない会話を四人でして、食べ終わった順に食器をシンクへ持って行く。いつもお皿洗いをしてくれるのはユウマさんだ。ユウマさんは家事が好きだと言っていつも炊事洗濯を担当してくれて、今日も当たり前のようにシンクでお皿洗いをしてくれる。 「ユウマさん、いつもありがとうございます」 「ううん、大丈夫」  優しく笑うユウマさんに頭を下げてから、僕は自室に戻った。自室に戻ってみると疲れがどっと押し寄せて、僕はふらふらとした足取りでベッドにダイブする。  少し休んだら、今日の活動報告書を書かなければいけない。記録した戦闘データもまとめておこう。それから明日は授業が終わったらすぐに今日の戦闘現場周辺の聞き込み調査も行わなくては。  僕は頭の中でタスクを整理していく。目を閉じていると、眠ってしまいそうなのが危うい。  少しだけうとうとしていると、スマートフォンが振動した。僕はパッと目を開いてすぐにスマートフォンを見る。  見てみると、グループチャットに明人さんがメッセージを送ってきていた。 「九時から今日の活動報告会議をする。各自、準備をしておくように……か」  僕はスマートフォンで時間を確認する。時刻は夜の七時。まだ時間には余裕があるが、今日の会議のためにも早めに報告書を書かなくちゃいけない。必死の思いで入隊したんだから、少しでも皆の役に立ちたいんだ。  気力を奮い立たせて、僕はベッドから起き上がる。ベッドを降りると、一つ伸びをして頬を叩いてから部屋を出た。  地下のオペレーションルームに向かい、僕は今日の報告書を書き始めた。勿論、律君と礼司さんが口論した……なんてことは書かずに、触手の発生場所や、戦闘に要した時間などの情報を打ち込んでいく。  途中、琉衣さんから「救出した男性が意識を取り戻した」という連絡をくれて、僕は酷く安心しつつそれも報告書に書いた。  報告書を簡単に書き終えると、ヘルメットの録画記録から転送した映像の解析を行い、戦闘データをとっていく。映像から気づいたことなんかを逐一メモしながら僕のヘルメットの録画データを見ていると、僕が丁度生き残っていた触手に襲われそうになったシーンに差し掛かる。  あの時は目を閉じていてわからなかったし、映像もかなりブレているが、僕を庇うようにして素早く影が動き入ってくるのが映っていた。明人さんだ。  明人さんの背中が映り、彼が振り返る。怪我はないかと尋ねてくる明人さんの声。優しくて聞き心地の良い低い声に、少しうっとりする。明人さんはいつもカッコよくて勇敢で、僕の憧れの人だ。  画面に映る明人さんの姿を見つめていると、ガチャリと音がしてオペレーションルームのドアが開く。僕は我に返って、慌てて動画の画面から報告文書の画面に切り替える。 「敬太?」  聞こえてきた声にドキッとする。それはさっきまで、動画の中から聞こえていた声だ。 僕がバッと勢いよく振り返ると、そこには私服に着替えた明人さんが立っていた。 「お、お疲れ様です明人さん!」 「ああ、お疲れ様。集合が早いな」 「会議の時間までに今日の報告書を作っておきたくて」  僕が笑うと、明人さんが少し驚いたような顔をする。それから、何かを考えるように視線をさまよわせて「食事はとったのか?」と僕に聞いてくる。 「はい。食事は済ませてあります。お風呂はまだですけど……」 「そうか……」  僕の返答に、また明人さんが何かを考え込むような顔をする。なにかマズいことでも言ってしまっただろうかと不安になると、明人さんが僕の名前を静かに呼んだ。 「敬太、君はもっと自分の時間を大事にしていい。報告書も、明日暇があるときにまとめてくれればいいし、まずは自分のことを優先するべきだ」  真面目な明人さんのトーンに、今日戦闘現場で叱られた礼司さんと律君の事を思い出す。明人さんはいつだって対等に目線を合わせて皆と向き合おうとする。向けられる真剣な眼差しから、明人さんが僕の事を本気で気遣ってくれているのがわかった。 「……あ、ありがとう、ございます。でも、少しでも皆さんの役に立ちたいって気持ちのほうが強いんです。僕の時間を、平和のために役立てたい。そのために僕はここにいるんです」  明人さんの瞳を見つめ返す。明人さんは黙って僕を見つめたまま何も言わない。でもここで目を逸らす訳にはいかないと見つめ合っていると、明人さんが根負けしたように視線を外し、小さくため息をついた。 「君の強い意志はわかった。だが、無理は禁物だぞ。いいな?」 「はい!」  僕の元気な返事に明人さんが困ったように笑う。そして、明人さんはそっと手を伸ばし、僕の頭を優しく撫でてくれた。まさか、明人さんから頭を撫でられるなんて思わなくてびっくりして、すぐに恥ずかしくなって俯く。 「敬太は素直で……いい子だな」  明人さんの声色は、まるで幼い子供をあやすみたいに優しい。でも、僕は幼い子供なんかじゃない。 「こ、子供扱いなんてやめてください。僕、これでもハタチですよ?」 「ふ、ハタチはまだまだ子供だよ敬太」  明人さんの言葉に、益々悔しい気持ちになる。確かに明人さんは四つほど年上だし、僕より遥かに多くの経験を積んできたんだろう。でも、だからって僕を子供扱いするなんてズルいじゃないか。 「明人さ……」  なんとか言い返してやろうと顔を上げる。するとどうだろう? 目と鼻の先に明人さんの顔がある。唇が触れ合いそうなほどの至近距離に近づいた明人さんの顔に驚いて固まると、明人さんが黒曜石みたいに綺麗な瞳を細める。その妖艶な輝きに、思わず喉を鳴らしそうになった。 「敬太……」  低く名前を呼ばれ、ドキドキと心臓が早鐘を打つ。昭和チックな男前の明人さんの顔は近くで見るとさらにカッコよくて、目眩がした。  ああ、どうしよう。何だかちょっと変な気分になってきた。少しでも顔を動かせば唇がぶつかってしまう距離に息が止まりそうになる。でも不思議と嫌じゃない。いやむしろ、明人さんとだったら……。そう、僕の覚悟が決まりかけた時だ。  ガチャン! と大きな音を立ててオペレーションルームのドアが開いた。 「うわあーッ!」 僕は大声を上げて飛び上がり、一気に椅子から転げ落ちてしまう。 「敬太!」  明人さんが慌てて僕を抱き起こす。頭を軽く打ち付けてちょっと痛い。心配そうに僕の顔を覗き込む明人さんに「大丈夫です……」と苦笑いを浮かべ、ズキズキと痛む頭を抑えてオペレーションルームのドアの方を見る。  ドアの前には礼司さんが立っていた。何やら、機嫌の悪そうな顔をして僕と明人さんを見ている。何かあったのだろうか?  そのまま礼司さんは何も言わず、オペレーションルームに置かれた会議机の方に歩いていく。 「失礼します」  礼司さんの次にドアから入ってきたのは律君だ。律君もまた、僕と明人さんを見てなんとも言えない顔をしてから会議机の方に歩いていってしまう。皆一体どうしたっていうのだろう。 「ごめーん!遅れた!……ってあれ、何この空気」  僕が戸惑っていると、今度は勢いよく琉衣さんが入ってきた。その後ろ手にはユウマさんもいる。  琉衣さんはキョロキョロとあたりを見回してから「あ〜〜〜なるほど。早乙女琉衣は理解したわ」と独り言を呟いた。 「琉衣、なに、理解した?」 「いーや、ユウマは何も知らなくていい」  不思議そうな顔をするユウマさんに、琉衣さんは首を横に振る。それからわざとらしい咳払いをして、僕と明人さんの方を見た。 「あー、明人リーダー。会議の時間過ぎてますし、とっとと始めましょう?」  何処となく気まずそうに笑顔を引きつらせる琉衣さんに言われ、明人さんは「ああ、もうそんな時間か」と言いながら立ち上がる。 「立てるか、敬太」  明人さんが床にへたり込む僕に向かって手を伸ばす。僕は明人さんの手を取ってゆっくりと立ち上がった。まだちょっと身体が痛いけど、すぐに良くなるだろう。  よろよろと僕が席に座ると、向かい側に座っていた礼司さんがジロリと僕を睨んでくる。綺麗な顔が、鬼の様な形相でこちらを見ているのだ。さっきから一体何でそんなに怖い顔をするのかわからない。  僕が困っていると、隣に座った琉衣さんが「そういえば敬太、報告書作ってくれてたんでしょ?」と話しかけてくる。僕は礼司さんの眼光を気づかないフリで琉衣さんの方に顔を向ける。 「は、はい。今からの会議の内容も追加して、明日には完成版の報告書を共有できると思います」 「そっか。色々任せちゃってごめんね敬太」  いえ、と僕が微笑むと、琉衣さんも申し訳なさそうに笑う。それから、琉衣さんがふいに僕の耳元に顔を寄せてきて「礼司君の事は気にしなくていいから大丈夫」と囁いてきた。やっぱり琉衣さんも礼司さんの機嫌が悪い事に気が付いていたらしい。僕は小さく頷いた。 「では、今日の会議を始めよう」  明人さんの宣言で、静かに会議が始まった。メインは今日の任務の報告。触手の変異における対処法の共有や、どんな戦闘が有効かなどについて話し合われた。  今日は口論する場面こそあったけれど、礼司さんと律君の連携も良く取れていて、琉衣さんの迅速な治療のおかげで触手に寄生されていた男性は助かった。今日の任務は概ね成功と言っていいだろう。僕は明日現地調査に行くから、まだ任務は終わっていないけれど。  ひとしきり話し合いが終わると、明人さんが席を立つ。 「今日の会議は以上。皆各自部屋に戻って……」 「ちょーっと待った!」  明人さんの声を遮って、琉衣さんが挙手する。明人さんが「どうした、琉衣」と首を傾げると琉衣さんが立ち上がった。 「いつものアレがまだじゃないですか隊長?」  いつものアレ? って、何だろう?  僕が首を傾げていると、琉衣さんが着ていた白衣のポケットをごそごそと漁り出す。何をしているのかと見守っていると、琉衣さんがポケットから取り出したのは……数本の使い捨ての割り箸である。 「今日のご褒美くじっ!」  琉衣さんが割り箸を掲げてニコニコ笑う。ご褒美くじって何の事なんだろう。僕がじっと琉衣さんを見つめていると、琉衣さんが僕の視線に気づいて「あ、敬太は知らないんだよね」と言った。 「敬太にはまだ教えてなかったけど、レチェラスにはいつも一日の終わりにくじ引きをする制度があるの。割り箸を皆で一本ずつ引いて、当たりが出た人はなんとなんと……隊長から『ご褒美』が貰えちゃいまーす!」 「そ、そうなんですか?」  そんな制度があったなんて知らなかった。いつのまにそんな制度が出来ていたんだろうと思ったけれど、僕はいつも会議の終わりは勉強もあるから部屋にすぐ戻ってしまう事が多いし、知らされていなかったのかもしれない。 琉衣さんは「今日は敬太が参加しても良いよね隊長?」と明人さんを見る。明人さんは「俺は構わないよ」と笑い、こちらを見る。明人さんの顔が近づいたあの時間を思い出して、ちょっと顔が熱くなった。 「それじゃあ、やろうじゃない。あ、参加したくない人は参加しなくていいですよー?」  琉衣さんは言いながら何故か礼司さんを見る。礼司さんは腕を組み相変わらず機嫌の悪そうな顔をしているが「……やるさ」と席を立った。それにつられて、律君も立ち上がる。各々が席を立ち、琉衣さんの前に集合した。明人さんは僕達を見守っている。 「いっせーので引いてよね? いくよー! いっせーの!」  琉衣さんの掛け声と共に、琉衣さんが握る割り箸を僕と律君、礼司さんとユウマさんが同時に引き抜いた。最後に琉衣さんの手元に残された一本は琉衣さんの分みたいで、琉衣さんがそっと手を開く。 「あー、今日はハズレ」  琉衣さんが笑う。すると、それに続いて「僕もハズレです」と律君。「うん、はずれた」とユウマさんが言って、残るは僕と礼司さん。 「……チッ」  盛大な礼司さんの舌打ち。僕は声も出せずに割りばしを見つめて黙り込む。僕の掴んだ割りばしの先っちょに、赤い色が塗られている。礼司さんの割り箸には何も塗られていない。もしかしてこれは……。 「おー! 敬太、大当たりだねえ」 「あ、はあ……」  喜んでいいのかよくわからなくて戸惑っていると、何故か妙に楽しそうな琉衣さんが「隊長ー! 今日は敬太が当たり!」と明人さんに声を掛ける。明人さんは「そうか」とだけ。特段嬉しそうでも、嫌そうでもない。明人さんからのご褒美ってなんなのだろう。  僕が考え込んでいると、隣で盛大な溜息が聞こえた。 「……飲みに行ってくる」  吐き捨てるようにしてそう言って、礼司さんが苛立った足取りのまま部屋を出て行ってしまう。礼司さん、終始機嫌が悪そうだった。くじ引きでハズレを引いて益々機嫌が悪くなっていた気がする。 「副隊長! 夜間の外出は禁止ですよ!」  慌てたように律君が礼司さんの後を追って部屋を出て行く。相変わらず真面目な律君だが、不機嫌な礼司さんとまた喧嘩にならないか心配だ。 「敬太、心配、だいじょうぶ」  僕の心配を見抜いたみたいに、ユウマさんが僕の肩を叩く。ユウマさんの前髪で隠れて見えない瞳は、きっと穏やかでいる事が何となくわかった。ユウマさんの「大丈夫」は安心感がある。 「はいはい、じゃ、今日の所は解散しよ。お疲れ様~」  琉衣さんがそう言って、オペレーションルームから続く自室に戻っていく。残った僕とユウマさん、明人さんも解散して部屋に戻ることにした。 「敬太、あとで部屋に行く」  部屋に戻る途中、明人さんにそう声を掛けられた。僕は「わ、わかりました」と緊張気味に返して自分の部屋にそそくさと戻る。部屋のドアを閉めると、僕はすぐさま明日の支度をして、ばたばたと明人さんが部屋に来ても良い様に掃除を始める。  本や教科書を綺麗に並べ机の上のレポートをまとめて、布団も綺麗に整えて部屋の見栄えをそれなりに良くした。普段から散らかしているわけではないからすぐに終わったけど、期末試験の時期はもうちょっと悲惨だ。今の時期が期末試験の時期じゃなくてよかったと思う。  僕は明人さんが来るまでそわそわと部屋をうろついた。明人さんがくれるご褒美について、ずっとわからないからだ。  功労賞として賞状でもくれるのかな。とか、美味しいご飯屋さんのクーポン券を貰えるのかな、とか。それとも、大学の勉強を教えてくれたりして……色んな想像が膨らんでは消えた。  皆から慕われていて、とても強くて、頭も良い明人さん。クールだけど優しい、心から尊敬できる素敵な人からご褒美を貰えるなんて僕はすごくラッキーだ。正直、明人さんから貰えるものなら何でも嬉しい。  落ち着かないまま、それでも平静を装っておこうかなと部屋の勉強机に向かう。頭に入ってこないのに教科書を読んでいるフリでページを捲っていると、コンコンと控えめにドアがノックされた。 「ひ、ひゃいっ! どうぞ!」  肩を跳ね上げ、ドギマギしながら振り返る。僕の視線の先でゆっくりと部屋のドアが開いて、待ち望んでいた人が顔を出す。 「失礼する」  静かに部屋に入ってきた明人さんを見て、僕はぐっと息を呑む。明人さんは旅館でよく見るような質素な浴衣を着ていて、立ってるだけでとても絵になった。格好良い……を通り越して、もはや美しい。きっと、明人さんのファンが見たら卒倒モノだ。僕も今にも倒れそうである。 「座ってもいいか」 「は、はい! お好きなところに……」  僕がそう言うと、明人さんはすんなりとベッドに腰を下ろした。うう、座っていても格好良い。あまりに素敵過ぎる。 「どうしたんだ? そんなに緊張して」  浴衣を美しく着こなす明人さんが眩しくて何も言えずにいると、明人さんが困ったように笑った。どうしよう、明人さんを困らせてしまう! 僕は慌てて言葉を紡いだ。 「す、すみません……明人さんが、その、すごく綺麗で……」 「……綺麗?」 「あ、えと! あの……浴衣、すごく似合ってます!」  しどろもどろになって俯く。ああ恥ずかしい。きっと明人さんに変に思われただろうなあ。本当に思ってることだけど、綺麗だなんて言われて明人さんが喜ぶだろうか。礼司さんだったら「そりゃあ、俺は宇宙で一番の美男だしな?」なんてキメ顔で返してくれるんだろうけど……。 「……敬太、こっちに座ってくれないか」  明人さんが酷く落ち着いた声で言う。どうしよう、怒らせてしまったかな。僕は言われるがまま、緊張した足取りで席を立ってベッドに向かい、明人さんの隣に座る。  そこからしばらくお互いに無言の時間が続いた。どうして明人さんが何も言わないのか、わからない。やはり、怒っているのだろうか。僕は怖くなって、恐る恐る明人さんの方をちらりと見る。  明人さんは、じっと真っ直ぐにこちらを見ていた。すぐに目が合ってドキッとする。その瞳には見覚えがあった。そうだ、会議の前に見た……あの濡れた黒曜石みたいな、妖しい輝き。 「敬太、君に恋人はいるのか?」 「へっ⁉」  いきなりの質問に僕は困惑した。恋人がいるかどうか……? どうしてそんな事を聞くのだろうと思いながらも、明人さんの瞳から逃れられず、僕は首を横に振った。 「そうか……なら、大丈夫だな」  一体何が大丈夫なのか。僕が明人さんに聞き返す前に、明人さんがゆっくり距離を縮めてくる。僕の方に身を乗り出した明人さんの指が僕の頬を撫であげた。  そのスムーズな動作に疑問を抱く暇もなく……明人さんの顔が視界いっぱいに近づき、僕の唇に柔らかいモノが触れる。  それが、明人さんからのキスだということを理解するのに数秒かかった。え、どうして僕は明人さんにキスをされているんだろう?  パニックになり、明人さんを引き剥がそうとした。しかし、僕が明人さんを引き剥がす前に、キスをしたまま明人さんに押し倒されてしまう。僕は抵抗もできずベッドに背中を預けることとなった。  目を白黒させ固まっていると、唇が離れていく。それでもなお、明人さんの顔はすぐ近くにある。 「……嫌か?」  明人さんの瞳が僕を真っ直ぐ射抜き、囁く。嫌かどうかと聞かれると、わからなかった。だってあんまりに突然すぎる。憧れの人に突然キスをされて、睫毛が触れ合いそうな距離で見つめ合うなんて思いもしなかったから。 「敬太」  僕がフリーズしていると、明人さんが顔を覗き込んでくる。明人さんが僕の返答を待っている。僕は素直に「わ、わからないです……」とだけ答えた。すると明人さんは目を細めて「そうか」と呟くように言った。 「なら……わかるまでしようか」 「えっ、あ、んむっ」  明人さんが再び僕の唇を塞ぐ。最初こそ混乱していて分からなかったけれど、今度は鮮明に柔らかくしめった唇の感触が脳に伝わってきた。 角度を変え、ちゅっと音を立てて唇を吸われると、瞬間的にカッと頬が熱くなってどうしようもなくなる。恥ずかしくて、訳が分からなくなった。  それでもこのままじゃ駄目だと僕の中の理性が叫び、僕は一瞬明人さんの力が緩んだ隙をついて明人さんの肩を掴んで押し返した。 「……敬太?」  不思議そうな顔の明人さん。何処か幼いのになまめかしい瞳の艶に見蕩れそうになって首を横に振り、僕は明人さんを押し退けてベッドから無理やり抜け出した。 「ぼ、僕っ、書庫で調べものがあるので失礼します!」  矢継ぎ早にそう言って、僕は明人さんの顔も見ずに部屋から飛び出す。それからすぐに同じ階にある書庫にバタバタと転がり込んでドアに鍵を掛けた。  ドアに背を預け、ずるずるとその場にへたり込む。心臓がまだバクバクと音を立てていた。僕は何が起きたのか整理しようと頭を全力で回転させる。 まず明人さんが部屋に来てくれて、浴衣姿が綺麗で、首筋が妙に色っぽくて……って違う! そうじゃなくて、僕はいきなり明人さんにキスをされて押し倒されて……うああ駄目だ! 思い出すだけで顔から火が出そうだ! というかもう出ているんじゃないか⁉ 僕は自分の唇にそっと触れてみる。僕のファーストキスが、まさか明人さんになるなんて予想もつかなかった。こんなのってありなのか、僕は自分が夢を見たのではないかとすら思う。 だけど……明人さんの唇の感触がリアルに残っている。柔らかくて、温かかった。思い出す度にじわじわと息苦しくなって、僕は膝を抱えて小さく呻く。  一体明人さんはどうして僕にキスをしたのだろう。……もしかして、隊長からのご褒美ってそういう事なのだろうか? 明人さんからキスをされるのがご褒美? そんな事ってありえるのかな。でも、現に僕は明人さんに押し倒されてキスをされた。僕の頭の中は混乱で満ちている。情報の処理が追い付かない。  今日はもう、朝までここにいよう。それから、今後のことを考えていけばいい。とにかく、今は別の情報を頭に入れ込んでしまおう。一旦忘れるんだ。明人さんとのファーストキスを。  そう自分に言い聞かせて、僕は書庫の本棚を物色し始めたのだった。

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