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第4話「苦悩と快楽と恋②」

****  数日後。無事にテストを終えた僕は嬉々とした足取りで家に帰った。シェアハウスの玄関から廊下を抜け、リビングに入る。 「ただいま帰りました」 「お! おかえり〜、敬太。テストどうだった?」 「バッチリでした!」  リビングでくつろいでいた琉衣さんに、僕は笑顔を見せる。明人さんのおかげでテスト問題はほぼわかったし、万々歳だ。 「今日、明人さんは?」  僕がリビングを見渡すと、琉衣さんが「え、あ〜……」と何故か目を泳がせる。どうかしたんだろうか? 首を傾げると、ダイニングで机を拭いていたユウマさんが落ち込んだ様子で言った。 「明人サン、今……礼司サンと、喧嘩、してる」 「え⁉」  びっくりして琉衣さんを見ると「ちょっとユウマ、ヨケーな事言わないでよぉ~」と呆れた顔をする。どういうことですか? と言いたくて琉衣さんを見つめると、琉衣さんは仕方ないと肩を竦めた。 「まあちょ~っと作戦の方向性の食い違い? ってだけだよ。敬太が考えてるほど深刻じゃないから。ただ礼司君が難癖付けてるってだけでぇ……」 「れ、礼司さんが……明人さんに?」 「そう。まあ……主に敬太の事で」  僕の事で⁉ 益々衝撃を受けた。僕が原因で、礼司さんが明人さんに難癖をつけている? 何で僕じゃなくて明人さんに言うんだろう。僕に直接言えばいいじゃないか。  僕はいてもたってもいられずに、「二人は何処にいるんですか」と琉衣さんに詰め寄った。琉衣さんは「……オペレーションルームだよ」と諦めたように言う。  僕はすぐにオペレーションルームに向かう階段を降りて、件の二人の元へ向かった。  部屋の前まで着き、ドアをノックしかけた所で気づく。隙間が開いて室内の声が少し聞こえてくる。僕はそっと耳を澄ませて、二人の会話を聞くことにした。 「だから、何度も言ってんじゃねえか。敬太を前線に出すなって……」  先に聞こえてきたのは礼司さんの声だ。前線……というのは、戦闘時の事を言っているのか。雰囲気からして、礼司さんは僕が戦闘の場に出る事を嫌がっているみたいだ。 「アイツは基地で連絡係だけやってりゃあいい。戦闘も出来ねえのに、出しゃばって足引っ張られちゃ困る。……なのに琉衣もお前も、わざわざ敬太を現場によこしやがる。こっちはいい迷惑だってえの」  礼司さんの痛烈な批判に、ぐっと胸が痛んだ。確かに僕は、戦闘が行われる現場には不向きなのは確かである。それについては、何も言えない。 「敬太にも、現場の経験が必要だ。いつまでも連絡室にいさせるだけでは、敬太の今後の活動の為にもならない。彼だって……正式なメンバーの一人なんだからな。……それに、敬太はお前が思ってるよりヤワな男じゃないぞ。礼司」  明人さんのフォローに、少し泣きそうになる。明人さんが僕の事を考えてくれている事が伝わって来てすごく嬉しかった。やっぱり僕は、明人さんが……。  僕が胸に熱い想いを抱いた時、それを遮る様に乾いた礼司さんの笑い声が聞こえた。 「……たかが数回寝ただけの奴に絆されてやがる。まったくお前は困ったやつだな、白金」 「おい、礼司……」 「違うとでも言いてえのか? 違わねえだろ。お前は自分の憂さ晴らしが出来る丁度いい相手だから優遇してるだけだ」 「礼司ッ!」  明人さんの厳しい声、ガタンッと椅子が倒れる音。僕はまさか殴り合いでも始まるのではないかと動揺して、二人を止めに入ろうとドアを勢いよく開けた。それとほぼ同時に、オペレーションルームの警報が鳴る。  僕が通信機を取る暇もなく、明人さんがオペレーションルームの機器を操作して通話を開始した。 「こちら、レチェラス本部基地……被害状況は? ……ええ、はい」  明人さんはそのまま手元にあった紙とペンで何かをメモしていくと、通信機での通話を終えた。立ち尽くす僕に気が付いた明人さんは、特に動揺する素振りもなく僕と礼司さんを見た。 「警察からの通報。触手人間の発生だ。数は三体。場所は『セクシティ』というショッピングモールだ。俺と礼司、それからユウマが出動。……琉衣と敬太は基地で待機」  明人さんを見つめたが、明人さんは少し申し訳なさそうに目を伏せるだけで何も言わずにロッカーの方へと向かってしまう。礼司さんは僕の方に一瞥もくれずにロッカーの方へと向かってしまった。  僕が今出来る事、それは明人さんの指示通りに動く事だ。そう言い聞かせて、僕はオペレーションルームの事務椅子に座る。いつも通りの仕事をしなくてはいけないとわかっていても、少し指先が震えた。  明人さんの事を信用していない訳じゃない。明人さんは、本当に僕の事を考えてくれている。でも、不安はあった。礼司さんの言う事が本当だったらと。今日の現場に出さない判断をしたのは、礼司さんの言う事が事実だからなのではないかと。不安が確信に変わるのが怖くて、僕はただ仕事に没頭することにした。  しばらくしてから琉衣さんが来て、僕達は触手人間の発生地までの誘導や周辺区域及びショッピングモール内の避難指示を出した。モニターには、ユウマさん……及び、レチェラス・フォーの装着したヘルメットの映像が流れてきている。避難が遅れた人をフォーが誘導しているのが見え、避難誘導が完了すると、ショッピングモール内をうろつく触手人間を探し始めた。  触手人間を探し始めてしばらくすると、通信が入ってくる。 「こちらはレチェラス・ワン。触手を発見した。一階の中央ホールだ。レチェラス・ツーと戦闘に入る」 「了解」  ワンからの連絡。フォーが二階のエスカレーターから一階のホールに向かうと、既に戦闘は始まっていた。  映像には、通報通り三体の触手人間が。頭部や手足の触手を伸ばし、隊員達に襲い掛かっている。僕は映像を見ながらハラハラとした気持ちでいた。 「フォー、無暗に二人の間合いに入らない方が良いよ。怪我するから」  ふいに琉衣さんが通信機に話しかけた。いや、早く助けに入るべきじゃないのか。と僕が琉衣さんを見ると、彼は「まあ見てなって」と軽くウィンクする。  フォーは琉衣さんの言う通りに、そのまま陰で様子を窺う。記録として見るにはいいが、本当に大丈夫なのか……と思っていたのも束の間だった。 「ツー、いけるな」 「ああ」  二人の会話の途中に、触手人間が向かってきた。すかさず、ツーが多節鞭でガラ空きの足元を狙う。片足を持って行かれた触手人間が床に倒れ、その腹にワンがストレートを撃ち込んでノックアウト。  続いて二体目が襲い掛かり、ワンに伸びた触手をツーの鞭が払い除けた。よろけた触手人間二体目の鳩尾にワンが一発エルボーをかまし、三体目が背中に忍び寄ってきたのをツーが拘束する。 「ワン、いけ!」  ツーの声に、ワンが振り向きざまに蹴りを華麗に決め込んだ。触手人間はそのまま動かなくなり、三体全ての触手が撃沈する。あまりにも素早く、呆気ない終わりだった。 「うーん、お見事。流石」  フォーが二人の元に駆け寄って、気絶しているのであろう触手人間に光線銃を当てていく映像が流れる中で琉衣さんが唸る。  やはりあの二人が揃うと、並大抵の戦闘力ではなくなるのだなと改めて思い知らされた。さっき言い争いをしていたとは思えないような二人の阿吽の呼吸に僕は言葉を失ってしまう。  ふいに、フォーの視界がワンとツーを映した。ワンが、ツーの肩を叩いている。 「やっぱり、お前はすごいやつだ。礼司」 「はっ、当たり前だろ? お前の相棒は俺だけにしか務まらんさ」 「はは……まあ、そうかもしれないなあ」  二人の何気ない会話が、僕の心をグサリと突き刺した。二人の絆の深さに、僕はどうしようもない気持ちになる。この、胸が焦げ付くような不安はなんだろう。僕が黙っている間にも、任務は着実に終了していく。 「……二人って、すごいですね」 「まあねー、礼司君は明人さんと一番付き合い長いみたいだし。それに……いや、なんでもない。とりあえず僕らは皆の帰りを待とうか」  琉衣さんが控えめに笑って僕の肩に触れる。琉衣さんは、何を言いかけたのだろう。でもなんだか、詮索する気にもなれなくて僕はそのまま任務の後処理を始めた。  任務の後処理をしはじめてからしばらくすると、任務に行ったメンバーと、大学の授業から帰ってきた律君が帰ってきて、会議が始まった。今日の任務の様子の伝達や、触手人間のその後の話などをして今日は早めに会議が切り上げられる。  ユウマさんはすぐに晩御飯を作るからとキッチンのある部屋までそそくさと行ってしまい、律君も食事の前に勉強をしたいと言って出て行ってしまった。残った僕と琉衣さん、礼司さんは、いつもの「くじ引き」をすることに。相変わらず、明人さんは何も言わずにその様子を静観している。 「それじゃ、一本ずつ引いてね? せーの……」  琉衣さんの声を合図にして、僕は一本選んだ棒を引いた。  ……ハズレだ。僕は内心がっかりしながらも、誰がアタリを引いたのかと周りを見る。 「ああ、今日は俺か」  いたってクールな表情の礼司さんが、アタリだった。僕は益々、気持ちが沈むのを感じた。明人さんと礼司さん、二人の仲が元から仲が良いのは知っている。でも、今日はいつもよりそれを苦しく感じてしまう。 「じゃ、とりあえず今日は礼司君がアタリってことで……お腹空いたしご飯行こ、ご飯。ね、敬太」  琉衣さんが僕の肩をぽんと叩く。僕は「そうですね」と上の空で曖昧な笑みを作った。琉衣さんや他のメンバーに内心の憂鬱について気づかれないように、僕は早足でダイニングルームに向かう。  それから何となく考え事をしながらユウマさんの作ってくれたご飯を食べて……気づいたら部屋にいた。  ぼんやりとベッドに寝転がって天井を眺めて、気づけば明人さんのことを考えていた。明人さんが僕とする行為について。礼司さんとしている行為について。……明人さんは、礼司さんの事が好きなんだろうか。色んな考えが頭の中を巡っていく。  これ以上考え事をしていてもキリがない。そう自分を叱咤して起き上がると、僕は一階にあるお風呂場に向かうことにした。一度、気持ちをリフレッシュしよう。  支度をして部屋を出ると、階段を降りてお風呂場へ続く廊下を歩いていこうとした。その途中、リビングの方にぼんやりと明かりがついている事に気が付いた。さっき時計を見たけれど、もう夜の九時を過ぎていた筈だ。誰か起きて、夜食でも食べているのかなとちらりと開いたドアからこっそり様子を窺う。  ドアの向こう側、薄明りのリビングに置かれた長いソファーに、明人さんと礼司さんがいた。何をしているのかと思えば、どうやら二人でお酒を飲んでいるらしい。一升瓶とコップが置かれた机には、ちょっとしたおつまみなんかも見える。  二人の事を見ると、少し胸がぎゅっと締め付けられる。でも目が離せなかった。二人が何をしているのか、どんな会話をしているのか気になったのだ。僕は壁の方に隠れながら、ドアの隙間から二人を見る。 「礼司は面白い。いつもそうだな。俺の知らない事ばかり教えてくれる」  ゆったりとした口調。頬を赤くした明人さんは、とろんと酔った瞳で礼司さんを見ている。礼司さんもまた少し頬が赤いが、明人さんほどではないようで、いつものように「そりゃあ、俺は何でも知ってるからな」と自信ありげに笑っている。 「俺はあまり物知りではないから……皆といると、楽しい。皆、色んな知識を持っていて……ああ、俺は仲間に恵まれているな、と感じる」  明人さんが優しく笑う。心の底から、きっとそう思っているんだろう。明人さんだって決して物知りじゃない訳ではないのに、明人さんはいつも謙遜する。いつも皆から色んな事を教えてもらっていると、温かい笑みを向けてくれる。それがすごく嬉しかった。  でも今は……その笑みを独り占めしたいと思っている自分がいた。それが、叶わない事が分かっているから辛かった。ここで、礼司さんと明人さんを見ている事しか出来ない事が悔しい。 「……恵まれてるのは、俺達の方だ」  礼司さんがぽつりと呟いた。明人さんが「そう、なのか?」と首をゆるりと傾ける。 「少なくとも……俺は、お前の下で戦えることをラッキーだと思ってるさ。お前は『戦う』ということがどういうことかを知っている。そういう奴が、先頭に立つべきだからな。俺は……お前がリーダーで良かったと思ってるよ」  礼司さんが真面目なトーンで言う。僕はこの時初めて礼司さんの本音を垣間見た気がした。明人さんもまた同じなのか目を丸くしている。 「それよりよ……そろそろお喋りは終いにしねえか? 白金」  礼司さんがコップに注がれたお酒を一杯飲むと、明人さんに身体を寄せる。 「……あと、一杯だけ」 「駄目だ、待てねえ」  礼司さんが、明人さんの顎を手で掬う。顔の近づいた二人が見つめ合う。そこから何が始まるかなんて分かり切っている筈なのに、僕は目が離せず食い入るように見つめた。 「んっ……」  見つめ合って間もなく、明人さんと礼司さんが口づけを交わした。明人さんは抵抗する事もなく礼司さんからのキスを受け入れている。改めて見ると、かなりショックだ。やっぱり明人さんは、僕以外ともそういうことをしているんだとまざまざと見せつけられている。 「ふっ、んんっ、ぁ……」  深い口づけを交わしながら、明人さんがソファーに横たわる。ぴちゃぴちゃと水音を響かせながらキスをする二人の姿に、目を背けたいはずなのに釘付けになった。  キスをしながら覆い被さった礼司さんが、明人さんの服の下に手を忍ばせ弄ると、明人さんが「礼司っ」と少し焦ったような声を出す。 「あっ、駄目、だ。誰か、来たら……っ」 「誰も来ねえよ。俺が言っといた。明人とヤるから入ってくんじゃねえってさ」 「……れ、いじは、すぐそういう事をする……っん」  焦っていた明人さんがどこか呆れたみたいに笑う。礼司さんは明人さんの首元に顔を埋めながら、器用に明人さんのジーンズのベルトを解き脱がしていく。手慣れている。 「……明人、挿れたい」  礼司さんの甘え声に、明人さんが「……ん」と小さく頷いた。そして、下着が片足に引っかかったままの乱れた状態の明人さんが、礼司さんを迎え入れるために大きく足を開く。礼司さんから見たら、何もかもが丸見えになっている事だろう。性器も、秘部も、全部。  これ以上見ていられない、見たくないと拒絶している僕と、明人さんの痴態を見逃したくない僕がいた。もうとっくに思考は焼き切れているのかもしれない。今の僕は……嫉妬と興奮で燃えていた。  しばらく礼司さんが明人さんの中を解した後、ジッパーが引き下げられる音がした。礼司さんが明人さんの足を手で支え、体重をかけるかのように礼司さんが前のめりになると、明人さんが淫らに喘いだ。 「んあぁっ……んう、あっぁ……」 「おい、明人……っ、締め過ぎだ馬鹿……」 「で、も……気持ち、いいからっ、あっ、ぅ、んぁ……!」 「……ったく、お前って奴は……」  明人さんの淫靡な声に煽られたように、礼司さんが荒い腰つきで抽出を開始する。揺さぶられる明人さんは、快感を訴えながらも声を抑えようと口元を手で覆う。 「明人、声……出せば、いいだろ?」  礼司さんの囁きに明人さんは首を横に振る。僕が居ることなど知りもしないのだろうが、明人さんのプライドが声を出すことを許さないらしい。すると礼司さんはため息をついて「はあ、そうかよ」と言いながら、徐々に律動を緩めていく。  そして何をするかと思えば、明人さんの身体にぐりぐりと腰を押し付け始めた。その途端明人さんがびくんと身体を震わせ、堪えきれなかった嬌声を漏らす。 「ふぁあっ! あっ、いっ、れいじ、それ、やぁっ」 「明人、奥の方掻き混ぜられるの好きだもんなあ」 「ひあっ、あっ! んぁああっ、いっ、うぅ……っ!」 「そう、そう。そうやってお前はエロい声出してりゃいいんだよ……明人」  言いながら、礼司さんが更に重心を明人さんの方に傾けた。途端、明人さんが目を見開く。 「~~~っ! かはっ、あっぁ、ぉく、はいって、るっ……」  明人さんが、がくがくと身体を震わせている。絶頂しているようにもみえるが、何かが違うらしい。もっと近くで、明人さんが気持ちよくなっているところが見たかった。だけどそれは叶う事のない幻想だ。僕はいま、いない者として扱われている。 「……っ、明人の中、熱いな……」  礼司さんの噛みしめる様な呟き。それが聞こえたのか否か、明人さんが礼司さんの腰に足を絡ませる。まるで離さないとでもいうようにがっちりと足でホールドすると息を荒げた明人さんが言った。 「れ、いじ、奥にっ……出して、くれ……礼司の……ほしい……っ」  明人さんの淫らなおねだりに、礼司さんが息を呑んだのがわかった。しばらく礼司さんは黙り込むと「知らねーからな」とだけ呟いて腰を引き、パンッと一気に明人さんの奥を貫いた。 「ひっ、ぁあぁ! あっ、んぐ、あ、ああっ!」  激しい律動に獣のような声を上げ、ドロドロと快楽に溺れる明人さんの姿に僕は唇を噛む。大好きな人が自分以外の与える快感に狂わされて悔しい気持ちなのに、興奮して堪らない。早く立ち去らなければならないのに、この光景をずっと見ていたい気持ちになった。 「明人、明人……っ!」  礼司さんが愛おしそうに何度も明人さんを呼ぶ。普段は明人さんの事を名字で呼ぶ礼司さんが夢中で明人さんの名前を呼ぶ姿に、独占欲を感じた。 「っ、中に出すからな……!」  礼司さんの呟き。明人さんは快感に身を委ねているせいか聞こえていないようだった。 「あっ、ひ、れいじっ、いく、もう、いく、ぅう……」 「イけよ、明人……俺で……」 「あ、あ、ぁあ、んっ、ぁあぁあっ!」  明人さんが、ビクンと身体を震わせる。それからすぐ、礼司さんの律動がピタリと止まる。礼司さんが明人さんに腰を押し付けて、小さく呻いた。そして、フーと深いため息を吐く。  「……」  ふいに、礼司さんが顔を上げる。そして、バチッ……と、暗がりで二人を見つめていた僕と目が合う。僕が息を詰まらせると、礼司さんは廊下の暗がりにいる僕に向けて、ニヤリと微笑んだ。  礼司さんは、ずっと僕の存在に気づいていたんだ。僕がいると知っていながら、僕の前で明人さんと……。その事実を理解して、僕は自分の中に嵐が吹き荒れるのを感じた。だけど、ここでリビングに入るほどの度胸はない。僕は一歩、二歩とドアから引き下がり、そのまま部屋へ引き返した。きっと、お風呂場は明人さんと礼司さんが使うだろうから。  部屋に戻ると、僕はベッドの上でうずくまった。胸の苦しさに、耐え切れなくて。明人さんが僕以外にもああやって身体を許す姿を酷く辛く思うのに、脳裏に焼き付いて離れない。胸が高鳴って、息が上がる。明人さん、明人さん。僕も、明人さんが欲しかった。  気づけば、僕は明人さんの痴態を思い浮かべて自身の性器を慰めていた。耳に残った明人さんのいやらしい声、汗ばむ肌、蠢く体内を想像して……。 「うっ……」  苦しみからの、束の間の解放。手元に吐きだされた、行き場のない欲望を見て切なくなる。この場所に来なければ、こんな風に僕はならなかった。こんな、妬みなどという感情を抱くことはなかっただろうに。  でも、恨むことは出来なかった。明人さんが僕に優しくしてくれた事は、決して嘘などではなかった筈だから。……全部、身体を許した僕が悪い。あの時、性的な行為で一線を越えた僕が。望み過ぎた僕が。  これからどうすればいいかもわからず、心に重い感情を背負いながら、静かに僕の夜は更けていったのだった。 ****  それから数日。僕は勉強や触手人間に関する調査活動を理由にして食事を一人でするようになり、任務や会議以外では明人さんとあまり顔を合わせない様にした。明人さんの顔を見ると、自分の中の感情の整理がつかなくなるからだ。  今、僕が抱えている「明人さんを自分のモノにしたい」という欲求が、チームワークを乱してしまうかもしれない。それは嫌だった。この部隊の輪が乱れるなんてあってほしくない。  だから僕は、自分の欲望を封じ込める術が見つかるまでは明人さんとは関わることをしたくないと思った。これは僕の意地だ。気持ちの整理がつくまで、僕は明人さんと顔を合わせられない。 「敬太、最近……根詰めすぎじゃない?」  調査報告書の作成の為、オペレーションルームでモニターを見つめながらキーボードを素早く叩いていると、僕の様子を見に来た琉衣さんが言った。僕はモニターを見つめながら「そんなことないですよ」とだけ返す。 「……何かあった?」  琉衣さんが尋ねてくる。僕は「あはは、別に何もないですよ……」と笑う。いつも通りのフリをして、モニター画面を見つめ続ける。 「敬太、こっち見て」  琉衣さんの厳しい声。僕は恐る恐る、琉衣さんの方を見た。琉衣さんは怒ったように眉を顰めて僕を見下ろしている。 「周りが気づかないと思う? 何をそんなに我慢してるのアンタは。敬太はいつもそうだよ。自分が我慢すれば解決すると思ってる。でもそんなの違う。ちゃんと、何が不安なのか話をするべきだよ」 「我慢、なんて……してません。僕は……」 「そんな顔して……何が、我慢してない、よ。嘘つくならもっとマシな嘘ついたら? 明人さんだって心配して……」  明人さん。その名前が出てきた途端、僕の顔色が変わったことを琉衣さんは目ざとく察知する。 「……やっぱり明人さん関連か」  琉衣さんの言葉に、反論しようとして口を噤んだ。ここで否定しても、琉衣さんには通用しなさそうだったからだ。諦めたように俯くと、琉衣さんが言う。 「まあ、明人さん、ちょっと人の心に鈍い面はあるし……アンタが傷つくような一言を言ってもおかしくはないけど……」 「違います! 明人さんはそんな事言っていません!」  僕は即座に強く否定した。その勢いに驚いたみたいに琉衣さんが目を丸くする。僕はハッとして「す、すみません……」と椅子に座り直した。 「これは、僕の問題であって……明人さんは関係ないんです。僕の中で、気持ちの整理がつかないって、それだけで。きっと僕が一人で考えていれば解決できる問題だから、だから……今は何も言わないで下さい」  僕は頭を下げた。琉衣さんは何も言わない。……わかってもらえないんだろうか。僕の覚悟は。 「……敬太がそこまで言うなら、何も言わないよ」  琉衣さんの言葉に顔を上げる。琉衣さんは真面目な面持ちのまま。僕がそれでも感謝を述べようとした時、「でも」と琉衣さんが言う。 「もう無理だと思ったら、誰にでもいいから相談する事。それだけは約束して」 「……はい。わかりました」  琉衣さんの目を見て頷いて見せる。琉衣さんは真面目な顔で僕の顔をじっと見つめてから、眉を吊り下げて笑った。 「ホント、真面目なのも困りもんね」  僕の眉間を琉衣さんが指先でつつく。やめてくださいよ、と顔を背けても琉衣さんの指先が僕の眉間を追いかけてくる。くすぐったくて、笑みが零れた。  ガチャリ。僕と琉衣さんがじゃれていると、オペレーションルームのドアが開いた。誰が入ってきたのだろうと思ったら……今一番僕が会いたくて会いたくない人達が入ってきた。 「あら、明人さんと礼司君。お疲れ様」  琉衣さんが軽く挨拶する。僕は固まったまま、何も言えなくなってしまう。礼司さんは「なんだ、琉衣いたのかよ」とだけ言って、明人さんは「ああ……」と軽く返事をしてから僕を見た。目が合った途端、胸にズキッとした痛みが走って立ち上がる。 「ぼ……僕、そろそろ部屋で勉強してきます。お疲れ様です!」  矢継ぎ早にそう言って、明人さんと礼司さんの横をすり抜けオペレーションルームから風の様に走り去る。まだ調査報告書が書き途中だったけど、あとで琉衣さんに連絡しておけばいい。  部屋に戻ると、電気もつけないまま僕は床にしゃがみこんだ。あんなに露骨に避けたら、きっと明人さんだって気づくだろう。自分が情けなくて涙が出そうだった。もっと出来ることがあるはずなのに、器用になれない自分に腹が立った。もっと、円滑に物事が進められたらいいのに。  そうやって悶々と自分の行動について悩んでいるうちに、また数日が過ぎた。勉強もあまり頭に入ってこないし、触手人間についての調査活動もさほど進んでいない。もっと頑張らなければいけないのに……と気持ちが焦るばかりだ。  このままじゃいけない。そう思って、僕は思い切って気分転換として久しぶりに所属していた柔道部に顔を出すことにした。  レチェラスに所属してからというもの、任務に専念する為に柔道部は辞めてしまった。辞めた後は律君や明人さんに戦闘訓練に付き合ってもらっていたけれど、今は状況が状況だし、たまには隊員以外の人からも稽古を付けてもらった方が自分の為になると思ったのだ。  幸い、柔道部の先輩や同期は皆気前が良くて、僕を校舎で見つけると頻繁に声を掛けてくれるし、「たまには顔を出せ」とまで言ってくれていた。だから、今のタイミングで柔道部に顔を出しても大丈夫……だと思う。確か、大会もそんなに近くない筈だし。  ドキドキしながら柔道部の使う道場まで辿り着いて、懐かしい気持ちになる。入部当初は今よりも全然体力がなくて、いつも走り込みや基礎的なトレーニングでへばっていたっけ。それでも自分を変えたいから、頑張ろうと思って柔道部のキツいトレーニングに食らいついていたんだ。  でもやっぱり、中々練習についていけなくて、いつも試合は負け続きで心が折れそうだった時……OBとして、あの人が現れた。僕が上手くいかない状況を把握して、適切にアドバイスしてくれて……出会った時から、明人さんは優しくてかっこよかった。 「グアーッ!」  ドタン! 僕が思い出に浸っていると、突然叫び声と共に大きな音がした。道場の中からだ! 僕は慌てて道場の中に駆け込んだ。  廊下を抜けて練習場に入ると、僕は驚愕する。 「なっ、なんだ、これ……⁉」  練習場の畳の上には、僕の顔馴染みの先輩や同期が倒れ……屍の山と化していた。一体何が起きたんだろうか。まさか触手人間……な訳がない。僕は、練習場の中心に立つ人物に目をやった。 「よお、遅かったな敬太」  パッパッと手を払いながら、振り返ったのは……礼司さんだ。「れ、礼司さんっ?」と、僕が素っ頓狂な声を上げると、白い道着を着た礼司さんが僕の方に歩いてくる。 「な、何してるんですか、こんな所で……」 「何って、道場破りだよ」 「ど、道場破りーッ⁉」  呆気に取られていると、床に倒れていた先輩の一人がぜえぜえと息を荒げながら上半身を起こす。 「け、敬太、気を付けろ……その男、強いぞ……」  そんなの知ってるよ! だってこの人レチェラスの副隊長なんだから! 僕は叫びたくなったが、ここで僕達の正体を明かす訳にもいかなくてぐっと言葉を飲み込む。 「いやあ、白金のお墨付きの柔道部って聞いてたから期待していたんだがなァ。まったく、天才秀才な礼司様の足元にも及ばなかったぜ」 「な、ぐぬぬぅ……!」  先輩や同期の皆が悔しそうな顔をする。礼司さん、煽りすぎですよ! と止めに入ろうとした所で、礼司さんが「おい、敬太」と僕を指差す。 「ここにいる奴で俺と勝負していないのはお前だけだ」 「は、はい?」 「つまりだ、敬太……お前が柔道部の最後の一人。お前を倒せば俺の道場破りは終了って訳だぜ。つーことで、俺と勝負しな」 「えぇ⁉」  僕、柔道部辞めたんですけど……と言いたかったのに、先輩や同期が「敬太、お前が最後の希望だ!」とか「お前がこの男を止めるんだ!」とか言い出し始めた。うわあ! やめて下さいよ! 荷が重すぎる……!  いい加減こんな悪ふざけはやめましょう! そう言って場を収めようとした時、礼司さんが追い打ちをかけるように言う。 「いいのか? お前がここで逃げたら、お前の大好きな白金が大事にしてきた柔道部に傷がつくんだぜ? お前の所為で、だ」 「っ、それは……」 「……たまにはガチで勝負しにこいよ敬太。じゃないと、明人は一生俺のモンだぜ」  礼司さんの不敵な微笑み。僕はぐっと拳を握りしめ、礼司さんを睨みつけた。 「明人さんは……貴方のモノじゃありません」 「はっ、じゃあお前のモノだってのか?」 「違います。明人さんは、誰のモノでもない……明人さん自身のモノです。僕達が奪い合うものなんかじゃない」 「……つまんねえ答えだ。がっかりだぜ」  礼司さんが肩を竦める。僕は「でも」と言葉を付け足した。 「僕は……貴方に勝ちたいです。勝って、どうにかなるわけじゃないとしても……僕は礼司さんに勝ちたい! だから、勝負してください!」  真っ直ぐ礼司さんを見つめた。礼司さんに勝ったって、明人さんの心は僕のものにはならない。それでも、僕はこの人と勝負をする必要がある。僕の心のケジメの為にも。 僕の言葉に、礼司さんは少し驚いたみたいに目を見開いてから……楽しそうに笑った。 「いいぜ、やってやろうじゃねえか。とっとと着替えて来いよ」  礼司さんに言われ、僕はすぐにロッカールームに駆け込んだ。道着に着替え、身支度を整える。礼司さんにあんな事を言ってしまった自分が少し信じられなかったし、勝てる見込みなんてほぼない。でも言ってしまったからにはやるしかないと帯を締めた。  道着を着て再び道場に戻ると、礼司さんが「それじゃあ、やるか」と僕に声を掛けてくる。僕は丁寧にお辞儀をして、礼司さんの元へ歩いていく。固唾を飲んで見守る柔道部の皆の視線。 「いつでもこい」  対峙した礼司さんが言う。僕はぎゅっと唇を引き結び、構えた。緊張している僕とは真逆に、礼司さんはあくびなんかして身体を小さく揺らす。とても隙があるように見えるが……あれは僕を油断させるためのフェイクだ。礼司さんはいつもそうだ、油断も隙もない。隙を与えない。  それでも、このままでは埒が明かないのも確か。僕は勢いを付けて一直線に礼司さんに向かって行く。技を一つでも決められればいい! 僕は礼司さんの道着に掴みかかろうと手を伸ばした。  掴んだ! 僕は礼司さんの道着の襟を掴めた事で少し気が緩んでしまう。それが駄目だった。 「油断がはえーぞ、敬太」  礼司さんがニヤリと笑い、僕の道着を掴む。そして素早く身を屈めると、僕の足に自分の足を引っかけてきた。たちまち僕の身体はバランスを崩し、軽く宙に浮いてから畳に叩き落される。 「……っ!」  背中に伝った衝撃に歯を食いしばる。だが、ここで負けるわけにはいかないと僕はすぐに体を起こし、再び礼司さんに掴みかかった。礼司さんの身体はびくともしない。軽い絶望を覚える。  礼司さんはそんな僕に微笑むと、僕の襟を掴みそのまま背負い投げた。ふわっと身体が浮いて、また畳に沈む。痛みだけが鮮明だ。 「お前、そんなもんか? あんまり俺をがっかりさせてくれるなよな、敬太」  礼司さんの煽り。僕の冷静さを欠く為の作戦だろう。そんな手には乗らない。僕は再び起き上がると、また礼司さんに向かって行く。礼司さんもまた、僕を受け入れ……軽々と打ち倒す。 「敬太! 無茶はするな!」  僕達の様子を見守っていた部員の一人が叫ぶ。けれど、僕はその言葉を無視した。ココで無茶しなくてどうするんだ。これは僕自身の戦いなんだ。負けたくないんだ。礼司さんにも、自分にも。  そうやって、一体何度畳に沈められたか分からなくなり始めた頃。礼司さんが「そろそろ決着つけようかねえ」などと言ってフラフラの僕に近づいてくる。僕は警戒しながらも、礼司さんの襟を掴む。もう、あまり手に力が入らなかった。  礼司さんは僕の震える足を軽く払う。呆気なく床に倒れた僕の身体に、礼司さんの足が蛇のように俊敏な動きで絡んでくる。 「ヤバいッ! 腕ひしぎ十字固めだ!」  部員の誰かが言う。僕の首を礼司さんの足が締め上げ、腕を掴まれ拘束されて動けない。今の僕では、完全に逃げられない寝技だ。礼司さんは、僕のギブアップを狙っている。 「敬太、死にたくなかったらとっとと負けを認めとけ?」  礼司さんの声に僕は息も絶え絶えに「嫌です……!」と返した。すると足の締め上げる力が増し、身体の圧迫が増す。苦しくて、今にも気絶しそうだった。 「お前の往生際が悪いのは認めるよ、だがな……どうしたって変えられない事実だってあるんだぜ」  礼司さんの言葉が何を指しているのか、大体想像はついた。明人さんと礼司さんの関係が、僕より親密なことくらいわかっている。それに嫉妬してしまった自分がいることも……明人さんの事が好きな自分の事もわかっている。 「……勝てないの、なんて、わかってます! でも、やらなくちゃいけないんだ……! 僕は、明人さんの事が……好きだから……! 好きだって気持ちを……否定したくない! 誰にも、僕の気持ちを否定させたりなんて、したくないんだ!」  無我夢中だった。何とか礼司さんの拘束から逃げ出そうと藻掻く。それが無駄な足掻きだったとしても、やるしかなかった。 「……そうかい。なら、俺も本気出すぜ」 「うぐっ!」  首が更に締まる。藻掻けば藻掻くほど呼吸がどんどん浅くなり、意識が遠退いていく。負けたくないという気持ちに反して、身体は限界を迎えつつあった。 こんな所で終わるなんて……! 悔しさの中、僕の意識が途切れそうになったその時だ。 「礼司、そこまでにしろ」  霞んだ意識の中に、一つ声が落ちてくる。聞き慣れた声に、うっすらと目を開けた。  僕と礼司さんを見下ろしていたのは……明人さんだ。いつもの赤いニットにジャケットを羽織った明人さんはどこか怒ったような顔で僕と礼司さんを見ている。 「なんだ白金、いやがったのか」 「いやがったのか……じゃない。柔道部の部員から連絡があったんだ。道場破りに来た男が敬太と戦っているとな」 「チッ、余計な事しやがって……」  礼司さんは僕の拘束を解くと即座に立ち上がり、足元を手で払う。解放された僕は、新鮮な空気を吸いながら咳き込んだ。 「敬太、平気か」  明人さんが僕の前にしゃがみ込む。僕の顔を覗き込む明人さんは心配そうで、僕はその顔に向けて「大丈夫です……」と掠れた声で呟いた。明人さんはほっとした顔をすると、すぐに厳しい顔を作って礼司さんの方を向く。 「礼司。気まぐれもいいが、やり過ぎるな。お前は優れた人間なんだから……力の使い方を間違ってはいけない」  明人さんの真剣な怒りに、礼司さんはしばらく黙り込んでから肩を竦めて言った。 「……わかってるさ。今日はちょっと熱くなっちまっただけだ」  礼司さんは踵を返すと、道場の入り口の方へと歩いて行ってしまう。まるでもう用はないとでもいうようなスッキリとした背中に僕は「礼司さん」と声を振り絞って名前を呼んだ。礼司さんが振り返る。 「僕、次は……勝ちます!」  決意を秘めた僕の言葉に、礼司さんは神妙な顔つきをしてから不敵に笑った。 「やってみやがれ」  それだけ言い残して、礼司さんは道場から去って行った。  礼司さんが去ると、僕は一気に緊張の糸が解けた様にふらっとその場に倒れそうになる。そんな僕の肩を、明人さんが抱いて支えてくれた。 「敬太、しっかりしろ」  ぼんやりとする意識の中に明人さんの声が響く。僕は何とか意識を手繰り寄せて明人さんを見つめた。 「すぐに帰ろう。歩けるか?」 「……少しなら」 「そうか、なら一旦着替えだけ行ってくるんだ。行けるか?」  明人さんの問いかけに、僕は小さく頷いた。僕は痛む身体に力を入れ、フラフラとした足取りでロッカールームに向かう。着替えを終えると、おぼつかない足取りで明人さんの元に戻った。 「敬太、背中に乗れるか」 「え……」 「歩くの、辛いだろう?」 「……はい」  頭が追い付かないが、つまり明人さんがおんぶしてくれるという事なのか。疲労と痛みでなんだかよくわからなくなっている僕は、言われるがままに明人さんの背中にそうっと抱き着いた。 「それじゃあ皆、また顔を出すから……」  明人さんの言葉に部員の皆が頭を下げるのをぼーっと見つめていると、視界が動き出す。明人さんが僕を背負って歩き出したのだ。僕だってそんなに軽いわけじゃないのに、明人さんは難なくすたすたと歩いてしまう。僕は大きな背中に身体を預け、その安心感にうとうとしてしまった。 「敬太、すまなかった。礼司を止められなくて」  明人さんの声にハッとして、僕は首を横に振る。 「い、いえ……僕も、一度礼司さんに手合わせしてほしかったので……いい経験になりました」  嘘は言っていないつもりだ。礼司さんのあの柔軟な動きには驚かされたし、彼がいかに強かであるかを再認識できるいい機会だった。やっぱり、副隊長は彼しかいない。そう思った。 「……そうか。なら、いいんだが」  明人さんはそれだけ言って、暫く黙り込んだ。気まずい空気が流れる。つい最近まで、僕は明人さんを意識的に避けていた。それもあって、僕も何を話せばいいのかわからなくなってしまっていた。 「……最近、あまり話せていなかったな。その……俺もあまり言葉が上手い方ではないから、どう言ったらいいか分からないんだが……寂しかったよ、敬太と話が出来なくて」  その言葉に、ドクンと心臓が跳ね上がる。あんなにぼんやりしていた意識が鮮やかになって、一気に顔が熱くなるのを感じた。 「俺が何かしたのなら謝るが……」 「い、いや! 違います! 明人さんは何もしてないです! ただ……その、ちょっと勉強とか、色んな事で疲れていて……」  しどろもどろになると、明人さんが「そうか」と呟く。 「あまり、抱え込み過ぎるのはよくない。もし……俺が力になれる事があるなら、いつでも言ってくれ。俺は、いつでも敬太の味方だ」  明人さんの台詞に、どんどん胸が苦しくなって熱くなって、泣きそうになる。こんなに明人さんは優しくて素敵な人なのに、僕って奴は。自分の感情に悩んで、八つ当たりみたいに明人さんを避けて、何をやっていたんだろう。そんなこと……している場合じゃなかったのに。自分の気持ちを認めて、前に進むべきだった。 「……あの、明人さん」 「なんだ?」 「僕……明人さんの事が、好きです」  意を決し、それを言葉にした。礼司さんとの手合わせ、明人さんの優しい気遣い。それらが、燻って自分の感情の整理がつかないといじけていた僕の背中を押してくれた。迷いはなかった。明人さんに、僕の素直な気持ちを伝えたかった。 「明人さんの事、誰にも渡したくないってくらい、好きで……好きなんです。だから……!」  たどたどしい言葉が嫌になったけど、僕は精一杯伝えようとした。 だけど、明人さんは言った。 「……敬太、ありがとう。だが……君の気持ちは受け取れないよ」 「……え」  僕が言葉を失うと、明人さんは更に続けていった。 「ずっと、好きな人がいるんだ。俺は、その人以外の事を考えられない。だから……すまない」  明人さんの声色は優しくて、穏やかだった。顔は見えなかった。僕の心臓は色を失って、静かに感情が消えていく。その後、自分がなんて答えたのかを覚えていない。  ただ刻々と落ちて行くとろけた夕焼けだけが、僕と明人さんを照らしていた。

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