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三、

 地獄のような一晩から幾日か経つと、康辰はあの日の出来事は全て悪い夢だったのではないかと思うようになっていた。しかし相変わらずに康辰にしか認識できない奥光が家の中をうろちょろしていて、生前と同じように話しかけてくるため、やはり紛れもなく現実なのだと思い知らされる。  あれから、康辰は自室に篭ることが増えた。元々一人で過ごすことが多かったが、より兄弟らと同じ空間に居ることを避けて過ごしていた。彼らの前で奥光の存在を完全に無視して生活するのが難しいためと、何日も帰らず連絡も寄越さない長男を心配し始めた皆の前で、同じように適度に心配してみせるのに苦労を要したためだった。  当初は、この男が連絡もなしに数日帰ってこないことなどよくあったため、皆「どこかで遊び呆けているんだろう」と楽観的に話していたが、一週間も経つと家に中には不安気な空気が漂い始めていた。母はあからさまに心配していたし、義父も「この年頃の男は、遊びまわってなんぼだからな」等と母を慰めてはいたが、やはり気にかけていたし、心当たりに連絡を入れているようだった。  全ての元凶である奥光は一人でふらっとどこかに行くこともあったが、何にも触れず誰とも話せないため時間を持て余して結局家に帰ってくる。元々構われたがりの気がある兄を一人きりで放置するのも悪い気がして、康辰は自然と誰の目にもつかない路地裏や河川敷の橋の下で奥光と過ごすことが増えていた。自身の部屋で話したとしても、会話を聞かれる恐れがあったため、苦肉の策だった。 「飯も食えないし酒も飲めないしパチも打てないから最悪。あ、でも、馬は見放題だからそこはラッキーか」  と、いつだったか奥光が嬉しそうに報告してきたので、康辰は神経が図太くて羨ましいなと思ったりした。ニュースや新聞などには適度に目を通していたが、まだあの男の死体が発見された様子はなかった。  そんな気が張った生活を送っていたある日。正午を過ぎてから目を覚ました康辰が一人で食事をとっていると、先程まで自室で眠っていたらしい奥光も目を擦りながらリビングに降りてきた。おはようと声をかけようとしたところで、臣辰が「おはよう、康辰」とやけに張り切った調子で挨拶を投げてきたため康辰は口をつぐむ。次男は、何か話したいことがある時、いつもこうして調子良さげに声をかけてくるのだ。 「なに」 「あぁ、いや、なんというか……」  本題を急かすと、臣辰は途端にしどろもどろになる。一体なんなんだと、康辰は味噌汁をすすりながらその様子を見上げる。 「最近……元気がないように見えるから、どこか調子でも悪いのかと思ってな」  臣辰が遠慮がちに言った。そういえばあの日、この男には明らかに動揺した姿を見られているのだった。以来避けるような形になっているため、不審がられるのも無理はない。康辰は、心配そうな視線を送ってくる瞳から目をそらす。  「俺が元気ないのはいつものことでしょ」 「……それもそうだな」  一旦納得した様子の臣辰だったが、すぐに「いや、そうじゃなくて」と仕切り直す。 「ここのところ塞ぎ込んでいるというか……。俺たちともあまり喋らないだろ」  なんと答えたものか。康辰が汁碗を片手に考え込んでいると、先に臣辰が口を開いた。 「奥光のことを心配してるのか」  思わず、奥光に視線を送る。彼は床に寝転んで、鼻に指を突っ込みながら康辰と臣辰のやり取りを眺めていた。 「大丈夫だ。あいつならそのうち帰ってくるさ」  次男は柔らかい声音で、自分自身にも言い聞かせるようにそう言った。いや、帰ってこない。だって死んでるんだから。それで、今、すぐそこに居るんだから。康辰が思うと同時に、奥光が「臣辰〜、俺ここに居ま〜す」と片肘をついて手を挙げた。 「そうだね」  罪悪感と可笑しさがちょうど半分ずつ込み上げ、康辰の中で混ざり合う。一体この状況は何なんだ。どうするのが正解なんだ。康辰は自分が置かれているのが悲劇の中なのか喜劇の中なのか考えてみたが、頭がぐるぐると回って判断がつかない。 「でも、大丈夫。別にそういうんじゃないから」 「そうか。何にしても、あまり無理するなよ」  康辰が良心の呵責から言うと、臣辰は尚も優しい声で康辰を気遣った。  無理は、もうずっとしている。奥光と路地裏で出会った時からか、はたまたあの夏にコンビニから出た奥光の後をつけた時からか。それから今の今までずっと、無理をし続けている。いっそのこと全て打ち明けて清々したいという衝動が起きないではなかったが、もうそれをするには遅いことはじゅうぶんにわかっていた。康辰は「うん」と返事をして一気に味噌汁を流し込み、弱気な思考を呑み下す。  食事を終えて臣辰と無難な会話をいくつか交わした康辰は、隙をついて家を抜け出した。臣辰と奥光に挟まれて平静を保つのなんて、息苦しくて仕方がない。少し遅れて奥光もついてきたため、二人は例の如く河川敷の橋の竪壁に凭れて座り込む。 「あいつ、普段は鈍感なくせに変なところ聡いよなぁ」 「そういうところがまた腹立つよね」  お前、実の兄に対して酷いね。と笑う奥光だが、すぐに何か思い出したかのように笑みを引っ込める。 「ごめんな、康辰。なんか窮屈な思いさしてぁ」  康辰は呆然として、一瞬呼吸ごと静止した。奥光は突然黙った康辰を不思議そうに見ている。 「奥光が、謝るなんて……」 「お前、俺のことなんだと思ってんだよ。悪いとは思ってんだよ、ほんと。でも他の奴とは喋れないし、できることなんかテレビ見るか競馬くらいだからさぁ。康辰、遊びにもいけないだろ」  皆にも悪いことしてるなぁと呟いて、奥光は膝を抱える。 「別にいいよ、そんな気にしなくて。俺が好きでやってることなんだし」  言っている途中、妙に気恥ずかしくなって川面に視線を落とした。濁って底の見えない川は、穏やかに橋の下を流れていく。今度は奥光が「康辰が優しい」と驚いたように言った。 「どうやったら成仏っていうの? できんだろ。全然わかんねえ〜」 「無理にしなくたって、いいんじゃないの」 「でも、ずーっとこのままってわけにもいかないだろ」  康辰は何か言おうとしたが、何も言葉が出てこずに沈黙する。まさかこの男の口からそんな真っ当な意見が出てくるとは思ってもいなかった。奥光は、「どうすっかねぇ」とため息を漏らして項垂れる。  康辰は長く、意識的にこの話題を避けていた。今、自分は以前のように奥光と話すことができて、以前と同じように奥光と無駄で無意味な時間を共有できている。周りの目にさえ気を配っていれば、生きていた頃となんら変わりはない。自分さえ上手くやっていれば、この先きっと今の奇妙な状況にも適応できるはずだ。家族に洗いざらい打ち明けたい気持ちが湧いた時、康辰は無理にそう結論付けて、思考に蓋をした。それ以上考えてしまったら、恐ろしい考えに至るような気がしていた。 「俺がお前にだけ見えるのって、多分、お前のことが気がかりだったからなんだよ」  隣で消沈していた奥光が不意に口を開く。 「え、うん。俺と喧嘩別れみたいになったからでしょ」 「まぁそうなんだけど。なんていうか、そういうのだけじゃなくて」  彼が何を言わんとしているかわからず、康辰は次の言葉を待った。 「やすって、俺にとってちょっと特別だから」 「特別って、何が」  焦れた康辰が言うと、奥光は 「いやー、別に」と誤魔化すように言う。  何を言いたいのかわからないはずだった。わからない方が普通だ。しかし康辰には、ぼんやりとその真意が読み取れてしまい、奥光の顔を見ているうちにそれが確信へと変わった。それを意識した瞬間、心臓がぎゅうと縮み上がり、それから激しく拍動し始めた。 「それって、そういうこと……で、いいの」 「そういうことって?」 「いや、だから……。その」  康辰は一旦言葉を止めて息を飲み、意を決して「好き的な」と続ける。 「改めて言うと、笑えんな」  奥光は否定もせずに笑い声を上げた。康辰は唖然とした。遠くで遊ぶ子供の騒ぎ声と、川の流れる音がやけに大きく聞こえる。何をおかしなことを言っているのだ、と思った。でも一番おかしいのは、それを聞いて何の戸惑いも嫌悪もないどころか、喜びを覚えている自分自身だ。  康辰は、奥光に感じていた陰鬱とした怒りが本当は別の感情であったことに、やっと気づいた。いや、やっと認めることができた。 「なんっで今更そういうこと言うかなぁ……」 「いや、なんとなくそうかな〜とは思ってたんだけどね。死んでからしっくりきたんだよ」  康辰は脱力して、コンクリートの壁にぐったりと背を預ける。一度認めてしまえば、案外あっさりと飲み込むことができた。つまるところ、ほとんどが嫉妬と執着だったのだ。  それにしたって今更だ。どうして今になって言葉にしてしまうんだと思ったが、今だからこそ、奥光自身がもう肉体を持たないからこそ口に出すことができたのだろう。身体はもう、冷たい土の中なのだ。もはや義理とは言え血縁だの、そもそも同性だのといった問題は過去のもので、取り繕わねばならない外野もいない。 「俺も、そう」  康辰がぽつりと言う。 「は?」 「俺も、おんなじ」 「いや、いいよ別に合わせようとしなくて」 「してないし。マジだから」  え、マジで? と奥光が目を丸くして言うので、康辰は「マジ」と肯定する。奥光は途端に破顔して「分かりづれえよ康辰は!」と嘆いたが、それはこちらの台詞だと思った。全くそんな素ぶりも見せないどころか、こちらが好意を見せようものならすかさず嘲弄する勢いだったはずだ。それが奥光の虚勢だったことに、彼に傷つけられることをいっとう恐れていた康辰が気付くのは難しかった。  例えば、もう少しだけお互いに素直になれていたら。もう少しだけ大人だったならば。あの最後の朝に、もう少しだけ強く引き止めていたならば。後悔の念に駆られたが、いくらもしもの話を考えたところで全くの無意味だ。  康辰は顔を上げて深く息を吸い込んだ。冷たい空気で肺が満たされる。呼出煙の要領でそれを吐き出してから、先ほど当然のように浮上したある提案を持ちかける。 「じゃあ、もう、一緒に住んじゃいますか」 「え?」  奥光が調子外れの声をあげる。 「家、出るよ。俺」  言うと、奥光はもう一度「え?」と面食らった顔で繰り返した。  それから二週間と経たぬうちに、康辰は築六十年家賃三万五千円の木造アパートを借りて、奥光を引き連れて引越しを済ませた。引っ越しと言っても、持ってきたものは客用の布団一式と一人分の食器類と衣類、その他生活必需品のみなので、軽トラを借りてさっさと終わらせた。近所の猫達に別れを告げる時間の方が長かったほど、転居作業にさして時間はかからなかった。  康辰が奥光との同居(と言っても、一人暮らしの程だが)を切り出した当初、兄弟達は康辰の気が触れたと思ったようで激しく引き止めてきた。が、彼らのその予想通りの反応をなあなあに躱しつつ、康辰は無職ゆえの有り余る時間を最大限に使ってとにかく安く、即入居できる物件を早々に決めてしまった。内見も済ませて両親に必要書類を記入してもらっても尚、「命が惜しければやめておけ」だの「飢え死にが一番辛いんだよ」「いや、一番辛いのは焼死じゃないか?」「水死って聞いたけど」などとやいのやいの騒いでいたが、「この中で一番生活力があるのは間違い無く俺だから」で押し切った。それを聞いた奥光は、側で「絶対嘘」と笑っていたが。  引越しの期日が近づくに連れ、徐々に反対運動も収まっていった。それに、その頃にはいよいよ奥光が帰ってこないことに皆が不安を隠さなくなっていて、それどころではなくなったと言える。  それでも当日の朝は皆、無理に明るく送り出してくれた。母に「皆でいつ帰ってくるか賭けてて、母さんは二ヶ月にしたから、一ヶ月は頑張りなさい」と肩を叩かれ、どうせ短期間で勝負しているであろう全員を大負けさせてやろうと固く心に決める。  少ない荷物を積み終えた軽トラックに乗り込もうとすると、「康辰」と呼び止められ、ドアハンドルから手を離す。振り返ると、滝辰が何かを差し出している。それは、水着の女が表紙を飾っているアダルト雑誌だった。 「どうせ女の子との出会いもないだろうし、まともにエロ本買う余裕もないだろうからって、臣辰が」 「うわ、何あいつ気持ち悪っ。いらないいらない、お前にやるよ」  康辰がその年季の入った雑誌を突き返すと、滝辰は「あ、そう?」とあっさりとそれを受け取る。 「じゃあ、もう俺行くから」 「ねぇ康辰、ずっと思ってたんだけどさ」  滝辰の黒い瞳が康辰の方を向いた。二人のすぐ側を軽自動車が走り抜けていく。 「え、うん。何」 「……いや、やっぱり何でもない」  暖房代ケチって凍死するなよと皮肉っぽく笑い、滝辰は康辰を送り出す。弟の様子に僅かな引っ掛かりを感じたが、いつまでも路肩にトラックを停めっぱなしにしておくのも居心地が悪いため、運転席に乗り込み、ゆっくりアクセルを踏んだ。トラックが動き出すと、サイドミラーの中で手を振る滝辰はどんどんと小さくなっていき、やがて見えなくなる。助手席の奥光は、暫くの間首を捻って後ろを見ていた。  ディスカウントショップで破格の値段で手に入れたちゃぶ台を殺風景な部屋のど真ん中に置き、簡単な荷ほどきを終えて、康辰と奥光はやっと一息ついた。六畳一間、フローリング、コンパクトキッチンにはガスコンロが一口。床や壁の傷みや空調設備の古めかしさ、立て付けの悪さに目を瞑れば、家賃の割には良い物件ではないかと思われた。駅までは三十分以上歩かなければならないらしいが、元々出不精である泰辰が交通機関を利用する機会はあまりないだろうから特に不都合はない。ユニットバスが狭苦しい気はしたが、風呂があるだけマシだ。 「やー、康辰がこんな行動力ある奴だとは思わなかったよ」 「いや、俺も」  中古の卓に突っ伏した奥光が言い、康辰も同意した。自分は母が言うように意外と思い切りが良い人間だったのかもしれない。そう思いながら、アパートの向いの自動販売機で買った炭酸飲料を飲み込む。木造ゆえか、室内の温度が外とほとんど変わらずペットボトルを持つ手はすっかり冷たくなっている。だが、入居して即暖房を使うのも気が引けて、指を揉んだり重ね着をしたりして寒気を誤魔化す。  寒さなど感じない奥光は伸び伸びとした様子で 「これで誰の目も気にしないで話しかけられるー!」と開放的な声をあげた。 「いや、元々誰の目も気にしないで話しかけてきてたでしょ。俺が頑張って無視してただけで」  とは言いつつも、康辰も内心では安心していた。もう、家族の目を気にしてこそこそと会話を交わすことも、奥光の言葉に対して聞こえぬふりを徹底する必要もない。気兼ねなく会話できる空間を手に入れたことに喜びを覚え、己を認識できない弟や両親を前に寂しげな顔をする奥光と彼らをやっと引き離せたことにも安堵する。 「でも康辰、仕事どうすんの。家賃とか食費とか色々かかるじゃん」 「もうバイト見つけてあるから」 「は、マジ!? やす、お前できる男〜!」 「あざっす」 「やっぱね、やればできる奴だとは思ってたよ! 俺はお前が一番まともだって信じてたから!」 「正直かなり悪い気はしないから、もっと言って」  テレビも家具も何もない部屋で、二人は今まで踏み締めていたブレーキが壊れて急勾配を加速していくかのようにとにかくひとしきりはしゃぎあった。奥光とこんなに伸び伸びと無遠慮に会話をするのは久しぶりだ。隣の部屋の住人からは、一人で喋っている気狂いの男が入居してきたと思われるかもしれないが、最早それすらどうでもよいことのように思えた。  日が暮れてくると二人で近所のスーパーまで出て一人分の弁当や惣菜を買い、だらだらと話しながら夕食を済ませる。実家に居た頃は両親や兄から酒を拝借したものだが、近頃はあまり飲まないようになっていた。ずるいと文句を言われるからでもあり、康辰自身も奥光に悪い気がしていたからだ。  温度調節の難しいシャワーを悪戦苦闘しつつ浴びて、冷たい床に布団を敷く。二人分を持ち出す理由が思いつかなかったため一式しか用意することができなかったそれに潜り込んで、床にべったりと寝そべっている奥光を呼ぶ。 「布団、入りなよ」 「別に俺どこで寝ても同じだし」と、物に触れても温度も感触も感じないらしい彼が言った。 「そういう問題じゃなくて、見てて寒い」  奥光は渋々という感じで布団の方まで這って来て、布が擦れる音も振動もなく康辰の隣に寝転がる。橋の下で好意を自覚して以来、彼とこれほどまでに肌を近づけるのは初めてだった。むず痒い気持ちになって寝巻きの袖をぎゅ、と掴む。  薄闇の向こうの天井をぼんやりと見つめていると、奥光が呟いた。 「狭くね?」 「狭い」  頷くと、「男二人が布団一枚で寝るって、なかなかハードじゃない? 絵面もキツいし」とけらけら笑い出す。康辰も「いや、男四人で毎日銭湯通ってる図も相当だったでしょ」と笑う。 「あー、なんか変な感じすんね。家にあいつらいないと」 「今頃、家が広くなったって喜んでるんじゃない」 「うわ絶対言ってらぁ。なんか腹立ってきた」  今頃二人や両親はこんな会話をしているに違いないだとか、そういえば誰それに金を貸したまま返してもらっていないだとか、そういえばこの前誰が何をしていただとか、そういうくだらない話を眠気に抗えなくなるまで延々と話し続ける。やがて奥光からの返答がなくなり、彼がすっかり寝入っていることを確認した康辰は、満ち足りた気分で目を閉じる。静まり返った部屋の中、すぐ近くで奥光が寝息を立てている。  康辰は、自らの選択は正しかったのだと満足し、疑いもしなかった。

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