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四、

 エプロンを外してロッカーに放り込み、白無地の靴から履き潰したスニーカーに履き替える。作業中の年配女性がお疲れ様と笑いかけてくるので、お先ですと軽く頭を下げて従業員通用口の扉を押して外に出ると、奥光が駐車場のポールに腰をかけていた。 「おつかれー」 「マジに疲れた……」  幾度めかの勤務を終えた康辰は、周囲に人がいないかの確認もせずに弱々しい声で返答する。奥光がポールから離れて康辰の隣に並び、二人はのろのろと歩き始めた。 「一日八時間労働、気が狂ってる。無職に慣れきった身体には拷問だよ」 「そうだなぁ。好きな時間に起きて毎日遊び歩いてた頃が懐かしいね」 「いやいや、奥光は今もそんな感じでしょうが」  奥光は今日もいつもと同じように、康辰が家を出る時間になっても布団から半身をはみ出しつつ、ぐうぐうといびきをかいて寝ていやがったのだ。しかし奥光はそれを聞き流して 「なんか申し訳ねえや。俺も働けたら良かったんだけどね」と難しい顔をして見せる。 「思ってねえだろお前……」 「バレた?」 「バレバレ」  あはは、と無邪気に笑うこの男は、たとえ生きてたとしても何かと理由をつけて(あるいは、理由を考えることすらせずに)労働を拒否するのだろう。康辰は彼を小突いてやりたくなったが、触れられはしないため諦める。 「っていうかその持ってんの何?」 「弁当の廃棄貰えた。これで食費が浮く」 「おー、ナイス康辰、節約家! 俺食えねえけど」  人通りの少ない道を選んで帰路に着く。まだ十八時過ぎのはずだが、冬の空はすっかり日が落ちて真っ黒くなっていて、まばらに立っている街灯のみが夜道を照らしていた。奥光の顔にも、街灯の光が落ちている。家で待っていても好きな所へ出かけていてもいいと伝えてあるのに、毎度わざわざ迎えに来るので、意外と律儀な奴だなと思う。  ものの数分で自宅に着き、鍵を差し込んでノブを回した。もう頼りきりとなっている暖房の電源をつけて、相変わらずに殺風景な部屋の真ん中で卓を囲む。 「今日、競馬で予想大当たりしたんだよ俺。もし馬券買えてたら、今頃叙々苑で焼肉食えてたな」 「コタツもテレビも買えてたね」 「なんならもっといい家に引っ越せたのにな。あー、悔しい」 「っていうか奥光って馬券買うと外れるけど、買わないと予想当たるよね。なんなのそれ」 「俺は神様に嫌われてんのかもなぁ」  電子レンジで温めた弁当をつつきながら、奥光のその日の出来事を聞く。康辰がバイトのあった日の夜は、この流れがお決まりだ。家に時間を潰せる娯楽がないため、彼は大抵の場合外を出歩いて暇を潰しているようだった。 「康辰次の休みいつ? 新台出てたから打ちに行こ〜」 「いいねぇ。確か明後日」  小型冷蔵庫からボトルを取り出して、水出しした麦茶をグラスに注ぐ。味が少し薄い。薄っぺらい肉に箸を伸ばして咀嚼する。奥光はその様子を、頬杖をついて眺めている。 「ずっと見られてると食べにくいんだけど」  言うと、奥光はあははと笑う。  夕食を平らげた康辰は、普段は洗い場として使っている浴槽に湯を張った。奥光を呼び、一足先に湯船に浸かる。 「風呂入ったら、流石にあったかいとかあるんじゃないの」 「えー、どうだか。てか狭っ! これ二人入れる?」  服を脱いだ奥光は、そう言いつつも遠慮なく湯に足を突っ込んだ。水面はひとつも揺らぐことなく、湯気を立ち上らせている。奥光の全身が湯船に収まった。康辰は、彼の裸を随分と久しく見ていなかったことを思い出していた。 「どう?」 「なんっも感じない。無」 「ですよねー」 「っていうかすぐ目の前に便器あるの結構地獄じゃない?」 「うん。もうお湯張るのはこれっきりにしよう」  奥光の身体は濡れてすらいなかった。康辰はほんの少しだけ落胆する。  狭苦しい浴槽の中にぎちぎちに収まっている二人は、正面の便器を眺めていた。可笑しな絵面だとは思いつつも、向かい合わせになるのも決まりが悪い。康辰が横目で奥光の様子を伺っていると、彼は頬をゆるませて言う。 「でもちょっとガキの頃思い出すな〜、これ」 「誰彼構わず風呂にぶち込まれた時とかあったよね。泥だらけになりすぎて」 「あったあった! 容赦ないよな母さん」 「一回風呂の中で奥光と臣辰が喧嘩したことあったじゃん。ガチの」 「あった。あいつ変なとこで急にキレるんだよ」 「そんで意外に強いしね。俺は喧嘩したことあんまないけど」 「あいつ俺にだけ当たり強いよな。お前らには甘い」 「それはお前が自分勝手だからだよ」  風呂の中で思い出話に花が咲き、気づいた時には浴槽の湯はぬるくなっていた。身体の冷え切った康辰は急いでシャワーを浴びようとするが、またも温度の調節に手間取り、冷水をかぶったかと思えば熱湯が出てくるなど二つのハンドルと格闘する。さっさと服を着た奥光は、四苦八苦する康辰を見て手を叩いて笑っていて、康辰は憎たらしさを覚えた。  やっと風呂から上がった康辰は敷きっぱなしの布団に潜り込み、自分の体温で布団の中を温める。それから枕元に積んである古本屋で買い漁った漫画に手を伸ばし、読み途中だったページを開いた。奥光も布団の左半分に寝そべって、漫画に目を落とす。普段は外に散歩に行くこともあるが、今日は湯冷めしそうなので無しだ。  時折感嘆の声を上げたり感想を零したりしつつ、区切りの良いところまで読み進めたら漫画を閉じ、電気を落としてぽつぽつと喋りながら眠りに落ちる。いつも康辰の方が先に寝るが、翌日も早いため奥光は特に文句を言わない。そんな低刺激な一日を、二人は淡々と繰り返す。働いていると一日はあっという間に何事もなく終わるのだと、康辰はこの生活を始めてから知った。  その晩は、やけに空気が冷え込んでいた。電気を消して布団に入ってしばらく経っても寒さで寝付けず、康辰は羊でも数えようかと思っていた。奥光が口を開いたのは、康辰が脳内に羊が飛び越えるための木の囲いを用意し始めた時だった。 「俺たちはさ、つまり、好き合っているわけだろ」  唐突だった。奥光は真っ直ぐに天井を見上げていた。 「え……まぁ、うん。そうなんじゃない」  康辰はそうはっきり言われるとなんだか恥ずかしく、曖昧に答える。 「好き合っている二人が、同じ布団の上にいるわけだろ」 「はぁ」 「そしたらもう、エロいことをするんじゃないの」  康辰は度肝を抜かれて、呆然と兄の顔を見た。彼は康辰に向き直って、真剣な顔で言う。 「いや、ずっと思ってたけどさ、すっげえヤりたいんだけど。いや、具体的にどうするとかは俺は童貞だし、そもそも男同士だからそういうのよくわかんないけど。ヤってみたい的なのがあるんだけどさ。え、康辰ヤりたくないの」  康辰は表情一つ変えずに「馬鹿かお前」と呆れたように言って、 「ヤりたいに決まってんだろ」と続けた。 「だよなぁ!? 俺だけかと思ったぁ」 「めっちゃくちゃにヤりたいに決まってんだろうが」  そりゃあ、もう。自分の気持ちを自覚した時からずっと、そういう性的な触れ合いがしたいとは思っていた。  長年憧れたり恨んだりを繰り返して、やっと好きだという気持ちを受け入れたのだ。そんな彼と、幾度となく見たフィクション上の男女の行いを、とまでは行かなくとも、触れたり、肌を重ねてみたり、そういう普通の恋人たちが行う行為をしたいと思うのは当然だ。 「でも」と康辰は言って、それから口を閉じる。  触れられないのだから、仕方がない。性的な行為以前に、手を握ることさえ出来ないのだ。康辰がその言葉を飲み込むと、奥光が身体を起こして手を伸ばしてくる。康辰はそれに触れようとするが、重なったそこはやはり感触は疎か暖かさも冷たさもなく、ただ空気に触れているだけだった。 「康辰、ちょっと脱いでみて」 「え、どうすんの……」 「いいから」と言って、奥光がもぞもぞとジーパンを脱ぎ始めた。康辰もそれに倣い、戸惑いがちに寝巻きのジャージを膝まで下ろす。 「何だっけ。あの、白雪姫みたいなノリで、愛の力でなんとかなるとかあるんじゃね」 「愛の力ってか、これ完全に性欲の力でしょ」  下だけ衣類を取っ払った奥光が、康辰に跨ろうとした。しかし、当然重みも温度も感じられず、奥光の身体は康辰をすり抜ける。康辰が夢心地でその様子を見上げていると、ふと、最後に触れた奥光の温度が幻影のごとく蘇ってきた。早朝に家を出て行こうとする奥光の腕を掴んだ、あの時。康辰の指が、奥光の腕に食い込むあの感覚。それと同時に、冷たくなった彼の重さと鉄臭い匂いも思い出されて、血の気が引いた。 「やっぱダメか〜」  奥光が床に寝転がって嘆いた。康辰はその声で我に返り、いそいそとジャージをずり上げる。恐ろしい記憶を頭から無理やり追い出して、勝手に収縮し出した心臓を落ち着かせるようにゆっくり呼吸をして言う。 「出来ないもんは仕方ないよ」 「ごめんね、康辰」  奥光は下も履かずに大の字になったまま、脱力した声で言った。 「いや、生殺しなのはお互い様でしょ」 「そうなんだけど」 「それより早く下履いてくんない。見苦しいから」 「おい、どういう意味だそれ」  沈んだ様子の奥光だったが、途端にわあわあ言い出した。それから服を着直して定位置に戻ってくる。その頃には康辰の心音も落ち着きを取り戻していた。 「康辰、一生このまま誰ともセックスできないのかな。可哀想に」 「童貞のまま死んだ人に言われたくないんですけど」 「いいの、俺は。逆にね!」  何が逆なんだ、と思っていると、彼は小さい声で再び「ごめんね」と言う。奥光は死んでからというもの、よく謝るようになった。  二人で暮らし始めて、もう一ヶ月以上が経過していた。  バイト先とスーパーと自宅とを往復する日々を送り、なんとか家賃も光熱費も払えていて、食費も給料日前は苦しい思いを強いられるがどうにか足りている。数日前に家に電話を入れた時、弟に「全員負けたから、結果プラマイゼロ」と賭けの末路を聞かされ、ざまぁみろと勝利宣言をしたところだった。  入居当初は、しばらく二人で暮らしていたら奥光は満足して消えてしまうのではないかと少し不安に思っていたが、今のところ奥光が消える様子はない。  全てが順調に進んでいた。このままこの生活を続けていれば問題は何もなく、奥光との共同生活が破綻することはない。それはつまり、この生活にこの先変化も終わりも存在しないということだった。  その事実は当初、安心として康辰の中にあったはずだった。しかし日が経つにつれ、それは不安要素として波紋を広げ、康辰の心を蝕み始めた。 「なんか最近、あんま元気なくない?」  奥光に言われ、そんなことはないと誤魔化してはみたものの、幾重にも輪を広げる不安は日に日に大きく重たくなっていく。慣れない生活や人生で初めての仕事に挑むとなって、康辰は気を張っていた。気持ちを強く持たなければ、自分の中の弱さに飲み込まれてしまうと自覚していたのだ。そのために、康辰の心はずっと張り詰めていた。それが、一ヶ月が経ち、ある程度アルバイトにも生活にも慣れてきてふと心が緩んだ瞬間、恐れていたことが起こった。ある朝、康辰はついに自分を取り巻く全てが恐ろしく、全ての義務から逃れたいという思考に囚われたのだ。  いつまで経っても目覚まし時計のアラームを止めようとしない康辰に、寝ぼけ眼の奥光が声をかける。 「康辰〜、鳴ってるよ。バイトは?」 「行きたくない」  康辰は消え入りそうな声で言った。行かなくてはならない。ただでさえ人手が足りていないため、突然休んだら迷惑をかけることになる。何より、自分が働かなければこの平穏な生活は守れないのだ。この家だけが、奥光と康辰が血と泥に塗れた罪の記憶を忘れて自由に暮らせる二人の最後の砦なのだ。  しかしそう思えば思うほどに、康辰の胸は苦しくなり、身体を動かすことすらもひどく苦痛になっていく。 「いいよ、休んじゃおうよ」  奥光が言う。何も良くはなかった。何を無責任なことを、と思った。だが康辰はその言葉に異常なほどに安心し、やっと目覚ましを止めて再び布団の中に潜り込み、膝を抱えて丸くなった。奥光も、再び寝息を立て始める。  やがて始業時間が近づいてくると、康辰は近所の公衆電話に十円玉を押し込んで、バイト先に欠勤の連絡を入れた。  翌日、昼前に目を覚ますと部屋に奥光の姿がなかった。昨日塞ぎ込んでいた康辰は彼に何を言われても取り合わなかったため、臍を曲げたのかもしれない。戻って来たらとりあえず謝ろうと思いつつ、布団から這い出す。昨日ほど気分は悪くないが、とにかく腹が減っていた。冷蔵庫を一応確認したが想像通りすっからかんだったため、康辰は財布をポケットにつっこみ、上着を羽織ってスーパーへと向かう。眠りすぎたせいか、頭がずきずきと痛む。  道中のゴミ捨て場に丁寧に束ねられた古紙が並んでいて、康辰はふと視線を落とした。新聞の束が視界に映った時、ひゅ、と息を飲んだ。黒地に白抜きで「身元不明の男、刺殺死体で発見」との見出しがある。しゃがみ込んで本文を目で追うと、やはりあの男の死体が発見されたという内容だった。日付はちょうど康辰達が引越しを済ませた頃だと記されている。  康辰は、きつく縛ってあるビニール紐を力任せに引き伸ばし、目当ての新聞を引っ張り出す。現場には男の死体のみが残されていたが別人の血痕が残っており、その人物を容疑者と見て捜査を進めていると書かれていた。男は職業どころか本名や年齢も不明。アパートの住人の証言として「よく若い男の声がしたから、親子で住んでいるのだと思っていた」とある。  康辰はすぐにあの古ぼけた木造アパートまで走った。もう一ヶ月も前にことが露見しているのだから、行ったところで意味はないと理解してはいたが、居ても立っても居られなかった。  錆びた階段を上り、あの夜、康辰が兄の死体を運び出した部屋の前に立つ。当然施錠されていてドアは開かず、窓から中を覗いてももうもぬけの殻だった。捜査は打ち切られたのだろうか。康辰のところに警察がやって来ていないどころか実家から連絡すら来ないことを考えるに、部屋に残された血痕が奥光のものという目星もついていないようだ。  康辰が状況を整理しひとまず安心していると、 「もうその部屋、片付けられちゃったよ」  女の声が聞こえ、康辰は飛び上がりそうになる。声のする方を見れば、隣の部屋の玄関から同じ歳くらいの女が顔を覗かせていた。 「記者の人?」  女はあからさまに迷惑そうな顔をして、「やっと落ち着いたと思ったのに」とこぼした。康辰は高速で脳味噌を回転させる。本当のことを話すわけにはいかない。上手い嘘をつかなければ。少しでも多く話を聞き出すためには、どういう立場の人間に成り切るのが良いか。 「僕は、あの人の……競馬友達だったんです」  必死に考えた結果、出て来た嘘がそれだった。少し、いやだいぶ苦しいかと思ったが、女は少しだけ警戒を緩めたように見えた。 「最近見ないなと思ってたら、亡くなってたって知って。それで、思わず来ちゃったというか」 「そうなんだ……」  女は顔に哀れみを浮かべて外に出て来た。康辰は内心、上手く行ったとガッツポーズをする。  「一ヶ月くらい前かな、見つかったの。もう死後何週間か経ってたみたいなんだけど、このアパート家空ける人が多いから気づかなかったんだよね。かく言う私も」 「そうなんですか……。あの、犯人ってまだ見つかってないんですよね」 「みたいね。よく出入りしてた男が容疑者って話だけど、どこの誰か全然わかってないらしいし。迷宮入りってヤツじゃないかな」  康辰は、ほっと胸を撫で下ろした。この様子ならば、奥光の存在が浮上することはなさそうだ。だがせっかくの好機なので、もう少し安心できる要素を増やしたい。 「容疑者って、新聞で息子じゃないかって言われてた人のことですか」 「うん」 「その人のこと、見たことありますか? 僕は子供がいるなんて聞いてなかったんで……」 「あー、うん、ちゃんと見たことはないけど、声は聞いたことあるなぁ」  女は言って、「でも」と言葉を選んでいる様子を見せる。康辰が訝しげに見ていると、女は「私の主観だけどね」と前置きをして続けた。 「多分、あれは親子とかじゃないと思うよ」  周りに誰がいるわけでもないのに、女は声を顰めている。 「どうして、そう思うんですか」 「親子って雰囲気じゃ、全然なかったもん。あの人達は、なんていうかな……恋人とか、そういう関係だったんじゃないかな」  その可能性を、まったく考えていないわけではなかった。でも、奥光の口からついに説明されることがなかったから、考えすぎだと思うようにしていたのだ。 「プリンが原因って、あれ嘘でしょ」  夕方、帰ってきた奥光に開口一番にそう言うと、彼は目を丸くして康辰を見た。暫くの間沈黙したのち、「うん」と短く答える。  奥光は突っ立ったまま言う。 「怒ってる? 康辰」 「怒ってない」  実際のところ、康辰は自分が怒っているのかわからなかった。さっきまでは悔しくて苦しくて悲しくて、それらが原型も留めずに混ざり合い、激しい怒りとなって存在していた。しかし、奥光の姿を見たら、ただただ虚しい気持ちになった。  奥光とあの男の最期を聞いて、出来の悪い心中みたいだと康辰は言った。しかしあれは、心中「みたい」ではなく、心中そのものだったのだ。  それなのにどうして、彼は死後康辰の前に現れたのか。生前好き合っていた人物と命を絶ったというのに、何故康辰への好意を口にしたのか。康辰に語った好意が嘘だったのか、もしくは、あの男と過ごしていた時間こそが偽りだったのか。問い正したい気持ちはあったが、すぐに無意味だと気がついた。きっと、どちらも本当だ。全く理解は出来ないが、奥光がそういう人間だということは誰よりもよく知っている。 「でも、喧嘩んなって刺されたのはほんと。俺別に乗り気で死んだわけじゃないかんね」 「ああ、そう」 「あ。だから元気なかったの? 康辰」 「別にそういうわけじゃないけど」 「顔色すげえ悪いよ。ちゃんと飯食った?」  奥光が顔を覗き込んでくる。康辰には、目の前の男の呑気な振る舞いが本物なのか能天気を装った偽物なのか判断がつかなかった。  不意に殴りかかりたい衝動が起こったが、空を切るだけで終わることはわかりきっていたし、考えるだけで惨めなのでやめにする。  奥光と男は、あの古びた畳の部屋で何を話して過ごしたのだろう。何をして、どんな終わりを目指していたのだろう。奥光は、彼と居る時も康辰のことを考えたりしたのだろうか。今、康辰と暮らしていても、彼のことを考える瞬間があるのだろうか。 「例えばさ、死んですぐにあいつと再会できてたとしたら、奥光はそれでも俺のとこに来た?」 「うーん。来たんじゃね?」  言い切らないところがなんとも彼らしいと思ったが、その曖昧さにふつふつと怒りが湧いてくる。それは、奥光が死ぬ数日前に康辰の中で燃え盛っていた感情と同じ温度だった。嫉妬だ、と康辰は思う。自分は、既にこの世には存在しないあの男に嫉妬しているのだ。康辰がこの先どう足掻いても、奥光と肌を合わせることも共に命を絶つこともできない。それらを果たした男に、康辰はどうしようもなく嫉妬していた。 「あの男の、何がそんなに気に入ってたわけ」  絶望的な悔しさを堪えて康辰がそう聞くと、兄は少し考えてから 「あの人は……、お前らにとっての俺みたいな感じだったのかな」と言って、優しい顔をした。

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