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五、
知りたく無かったことを知ってしまったためか、ただ単に襤褸が出ただけなのか、その両方が作用したのか……康辰はアルバイトを休むことが増えていった。元々怠惰な人間だったことに加え、そのくせ人一倍に人の目を気にする性格が職場に向かう気力を削り取っていった。突発的にアルバイトを休めば休むほど、職場の人たちからは冷たい目を向けられる。その原因を作っているのは康辰自身なのだが、康辰はいちいちそれに傷つき、自己嫌悪に陥っていた。それは一種の自己陶酔と言えた。
そんな状況が一ヶ月も続いたある日、康辰はついに店長から解雇を言い渡された。
それはそうだろうと納得しつつ、今までのお礼と謝罪とを伝えて、公衆電話の受話器を戻す。電話ボックスから出て部屋に戻ると、ドアの開閉音で目を覚ましたのか、布団からほとんどはみ出て仰向けになっている奥光が康辰の方を見た。
「クビんなっちゃった」
「マジで? お疲れ」
奥光は、ヘラヘラと笑いながら言う。パチンコで負けたとかゲームのクエストに失敗したとかを聞いた時のような反応だった。康辰はよろよろと布団に横たわる。身体が重たい。一体自分は何をしているんだという後悔や不甲斐なさに襲われるが、それと同時に久しく感じていなかった開放感に包まれ、そんな自分に対して余計に嫌悪感が湧く。
「給料まともに入んないし、どうしよう……金……」
「まぁ、そのうちまた次探せばいいじゃん」
「俺みたいなダメな奴雇ってくれるようなところ、もう見つかんないよ」
「そんなことねえだろ〜」
そう言う奥光の声も、顔も、何故か少し嬉しそうに見えた。
「暫く休めばいいじゃん。あんな続いただけ偉いって」
「……てきとうなことばっかり言いやがって」
「てきとうじゃねえっての。ほんとに、偉いね康辰。頑張ったね」
青い顔をしている康辰に、笑みを浮かべた奥光が顔を近づけて言った。康辰は無性に彼に触れたくなって、しかし、手のひらをぎゅっと握った。鼻の奥がじーんと痛くなる。
「奥光って駄目人間なだけじゃなくて、人を駄目にする才能もあるよね」
「それ褒めてんの、貶してんの?」
「褒めてるよ」
奥光は不服そうな顔をした。それから、何か思い出したように立ち上がって、小型冷蔵庫の前にしゃがみ込む。
「クビになった記念に、ビールでも飲めば? 残ってたっしょ」
「まだ朝なんですけど……」
「たまにはいいんじゃね? 嫌なことはさぁ、全部飲んで忘れるに限る。って、父さんがよく言ってたぜ」
そういうところが、駄目だと言うのだ。しかし康辰はのそりと起き上がって、冷蔵庫の扉を開ける。中には水と酒の缶が数本並んでいる。
ずっと酒を控えていた康辰だが、ここ一週間ほどでまた飲むようになっていた。ろくに働いておらず金は足りていないというのに、缶酎ハイや発泡酒をほとんど毎日開けている。これじゃあ典型的な駄目人間じゃないかと思ったが、そもそも、自分は元々駄目な人間の部類だったはずだ。大した葛藤もなく、康辰は発泡酒のプルタブを開ける。奥光は近頃、酒の缶を傾ける康辰を羨ましげに見ることはあっても、文句を言うことはなくなっていた。
ごくごくと喉を鳴らして、缶の中身を空っぽの腹に流し込む。安物のカーテンの隙間から、柔らかな日差しが差し込んでいる。康辰は飲み干した酒の缶を握りしめたまま、床に寝そべった。
「寝んの? 布団戻れば」という奥光の言葉を聞き流して、目を閉じる。
やがて意識がぼんやりと溶けていき、康辰は浅く気怠い眠りについた。そして目を覚ますまでの間、ずっと陰鬱で物悲しい夢を見ていたが、意識が覚醒すると夢の内容をすっかり忘れていて、康辰の中にはただ漠然とした恐ろしさと寂しさだけが残っていた。
「奥光」
無意識にそう口に出すと、頭上から「起きた?」と柔らかな声が降ってきた。顔を上げると、奥光がこちらを見下ろしていた。部屋は薄暗く、もう日が落ちかかっているらしい。
「ずっとそこにいたの」
「ううん、外ぶらぶらしてた。さっき帰ってきたとこ」
お前よく寝るね。と、奥光は愉快そうに笑う。その顔を見つめながら、康辰の脳裏に断片的に夢の内容が蘇る。
「奥光が居なくて、俺すごい焦った」
「え、さっき?」
「違う。夢の話」
「あー、夢ね。何かと思った」
「なんか、すごい探すんだけど、全然見つかんないし。俺この家に一人だし。金とかも全然ないし、奥光は全然帰ってこないし……」
「いや、夢でしょ。ほら康辰、俺はここに居るし、どこも行かないから」
奥光が子供をあやすように、茶化すように言った。そうだ。夢とは違い、奥光は今確かに康辰の目の前に存在している。しかし、今の彼は、果たして「居る」と言えるのだろうか。言えるとして、一体いつまで「居る」ことができるのだろうか。このまま食事も出来ず、人と触れ合うことも康辰以外と会話することもできず、何年も、何十年も、今の奥光の姿形のまま、ここに在り続けるのだろうか。それは、まるで……。
そこまで考えて、康辰は慌てて思考を停止させた。これ以上、考えたくはない。考えるべきではない。康辰は硬い床の上で寝返りを打ち、床に突っ伏した。全身が冷えているし、関節もあちこちが痛い。
「康辰?」
何も言わぬ康辰に、奥光が不思議そうな声をかける。
このまま、凍死でもなんでもしてしまいたいと、康辰は投げやりに思った。そうしたらもう、難しいことを考えなくていいし、苦しい思いをすることもない。奥光がいつ消えるかに怯えて悪夢を見たり、己の出来の悪さを自覚し自己嫌悪に苛まれることもない。
「なぁ、どしたの」
「しんどい」
康辰は床に頬をくっつけながら、ぽつりとそう吐き出す。横目で、奥光が康辰の頭に手を伸ばそうとするのが見えた。しかし彼はすぐにその手を引っ込める。
こんなにも近くにいるのに奥光に触れられないのが、苦しい。もう、あの朝に触れた腕の温もりを思い出せないのが、酷く悲しい。こんな思いをし続けるくらいならばいっそのこと、奥光と同じになってしまいたい。
「もう、死にたい」
康辰の言葉を聞いても、奥光は何も言わない。が、彼が起き上がった気配を感じ、康辰は首を捻った。途端に奥光の手が康辰の首元に伸ばされ、その指が康辰の首に回された……ようだった。もちろん感触はなく、康辰の呼吸はつつがなく行われている。
「ごめんな、俺もう康辰のこと殺してもやれないよ」
奥光が困ったように言った。薄闇の中、奥光が悲しげな顔をしているのが見える。
自分達はもう、共に命を断つことすらできない。康辰が後を追ったとしても、死後、奥光と会うことはきっと二度とない。それは、あの男の死が既に証明しているのだ。死んで一緒になることすらできやしない。奥光と心中する権利は、永久に剥奪されてしまっていた。康辰の中で、男と折り重なって目を閉じている奥光の血に塗れた姿が思い出される。あまりにも不条理だ。自分が、一体何をしたというんだ。康辰は遣り切れなくなって唇を噛む。
しかしすぐに、違う、と思った。何もしなかったことこそが、自分の罪だ。もっと、この馬鹿な男を引き止めておくべきだったのだ。例えどれだけ馬鹿にされ、揶揄われたとしても、そうするべきだったのだ。
康辰はごろりと身体を反転させて奥光に向き直る。
「奥光、なんで死んじゃったの……」
言葉にすると、胸が潰れそうになった。奥光は一瞬の間を置き、「え! 今さら!」と驚いたように言って、それから少し笑った。
翌日、ドアチャイムが鳴る音で康辰は目を覚ました。来客なんてほとんどないため、その音が自分の家のチャイムだと理解するまでに多少の遅れがあった。大方新聞屋か宗教勧誘か衛星放送の集金だろうと無視を決め込もうとするも、ドアをドンドンと叩く音まで聞こえて来て渋々起き上がる。卓上に放置してあるカップ麺の容器と倒れた酒の缶を一瞥し、寝巻きのままドアを開けると、久方ぶりに目にする顔が二つ並んでいた。
「康辰、久しぶり。っていうかおはよう?」
「相変わらず夜更かしばっかりしてるのか? ダメだぞ、朝日を浴びないと。健康に悪い」
弟の滝辰と兄の臣辰が、ほとんど同時に喋り出す。康辰は「うるさいうるさい」と、二日酔いなのか眠り過ぎのためなのかズキズキと痛むこめかみを抑えて言った。
「ごめん、休みだった?」
「あぁ、うん」
バイトをクビになって無職だけど飲んだくれて昼過ぎまで寝てました、とは言えない。康辰は当然のように嘘をついて、「どうしたの、急に」と彼らの来訪の理由を尋ねた。
「お前がどんな暮らしぶりをしているか確認してこいとのお達しが出たんだよ」
「どんなって……、たまに電話入れてたでしょ。普通に生きてるし」
「最近あんまかかって来なかったから、死んでんじゃないかって母さんがさ」
滝辰が面倒くさそうに言う。確かに、ここのところはもう連絡をする余力もなくてかけていなかった。たとえ電話口でも、平静を装う自信が無かったというのも理由の一つだ。特に、母の前で何事もないフリをするのはほとんど不可能に思えた。
「生きてるから、全然普通に。まぁ家はボロくて寒いけど」
康辰が室内を振り返ると、二人も部屋の中に目を向けた。真正面に奥光が寝そべっていてぐうぐうといびきをかいているが、当然彼らには見えてはいない。それでも康辰は、変にそわそわした気持ちになる。
「なんというか……必要最低限という感じだな」
「テレビもゲームも何もないじゃん、つまんないなぁ。康辰、毎日何してんの?」
奥光と話しているか、近所をうろついているか、たまに野良猫や野良犬に餌をやるか……最近はもっぱら寝ているだけだ。つまりは、実家にいる時とほとんど同じだった。しかし馬鹿正直にそう答えるわけにはいかないので、
「働いたり遊んだり家事をしたりで忙しいからね、俺は。実家でぬくぬくしてるお前らとは違って」と嘲笑を交えつつ答える。二人はその発言にダメージを受けたらしく、大袈裟に絶望的な顔をして「康辰にだけはそんなこと言われたくなかった」「お前はもう、俺を追い越したんだな」と非難めいた視線を向けてきた。実際は電気代の支払いもままならず支払いの催促が来ているのだが、康辰はそれらを悟られまいとふんぞり返って見せる。
ふと、滝辰が思い出したように玄関脇に置かれた段ボール箱を持ち上げた。ガムテープで封をされたそれを、康辰に差し出してくる。
「そんなお兄ちゃんにプレゼントで〜す」
「何これ」
「調理道具一式。弁当とかカップ麺だけだと身体にガタが来るからやめとけって」
「母さんからだ。食材も入っているぞ」
ガムテープを剥がして蓋を開けると、中にはまな板やら鍋やら新聞紙に包まれた包丁やら、それからじゃが芋や人参などが所狭しと詰め込まれていた。康辰はちゃぶ台の上のカップ麺に視線を送り、それから兄弟に視線を戻す。二人は何故か得意げな顔をしていた。
「他にも必要なものがあったら言えって。家にあるのなら持っていって良いからって、母さんが」
「わかった。ありがとう」
「じゃあ、そろそろ帰りますか、臣辰」
「ああ、そうだな」
目的を終えた二人があっさりと帰ろうとするので、康辰は拍子抜けした。
「え、あがってけば?」
わざわざ荷物を持って来てくれたというのに、玄関先で話をしただけで帰すのも気が引ける。康辰が彼らを招き入れようとすると、臣辰は「いや」と手をあげてそれを制した。
「父さんにな、俺が長居して世話を焼くと康辰が機嫌を悪くする可能性があるからやめろと再三注意されたんだ。だから今回のところはやめておこう」
「俺が言うのもなんだけど、父さんってオブラートってもんを知らないよね」
「じゃ、康辰、また来るね」
「うん、俺もそのうち顔出すわ」
「そうして。母さんも多分、心配してるから」
弟はそう言うと、軽く手を上げて歩き始める。
「体調管理には十分気をつけるんだぞ、康辰。昼夜逆転は体に毒だからな」
「はいはい」
滝辰に続いて踵を返した臣辰だが、「そうだ」と再び康辰の方を向き直った。その顔からは先程までの兄貴ぶった鼻につく笑みが消えていて、康辰は少しだけ身構える。
「奥光のことだが……。少し前に、捜索願を出したらしい」
「……あ、そう」
いつの間にか目を覚ましていた奥光が「ついに!」と声をあげ、康辰は思わず振り返りそうになったが、なんとか堪えた。そうだ、彼らの中ではまだ奥光は行方をくらませたままなのだ。何か言葉を続けようとしたが、何を言っても白々しく思われそうな気がして黙った。すると臣辰は「なぁ、康辰」と、真っ直ぐに康辰を見て言う。
「お前、奥光のこと、何も知らないんだよな」
康辰は、全身にドッと冷や汗をかくのを感じた。しかし、動揺を悟られないように兄の瞳を見つめ返す。
「何で。知るわけないでしょ」
「……そうだな。悪い」
言って、臣辰は目を伏せた。それから顔を上げ、いつも通りの笑顔を浮かべる。
「餓死する前に帰ってくるんだぞ」
「縁起でもねえこと言うな、とっとと帰れブラコン」
臣辰は何か非難的な言葉を発したが、それを最後まで聞かずにさっさと扉を閉める。ドアに額を押し付け、臣辰の「たまには連絡を入れるんだぞ」の声を無視し、少しの間静止してからドアスコープを覗いて二人が帰ったのを確認した。康辰はやっと体の力を抜いて、深く息を吐き出す。
「臣辰、お前のこと超心配してんじゃん」
「奥光のこともね」
いつの間にか奥光が背後に立っていた。二人は顔を見合わせて笑う。部屋の澱みきった空気が、騒がしい来訪者の気に当てられて少し軽くなった気がした。
「母さん何くれたの?」
「なんか……色々。野菜とか入ってたけど」
「うわ、ほんとだ。めちゃくちゃ入ってる。でもこの芋ちょっと芽が出てんだけど」
「こっちのかぼちゃも微妙に痛んでる気が……」
「これ確実に余り物押しつけられてるよな」
「押しつけられてるね」
キッチンの前に移動し、段ボールの中身を広げていく。使い古しの器具や賞味期限が迫っているであろう食材の他、ホワイトシチューの素まで同封されていた。底に一枚の紙が張り付いていて、「肉は自分で買いなさい。母」と走り書きがされてる。康辰は億劫さを飲み込んで、越して来てからほとんど初めてキッチンの前に立つことにした。服の袖を捲ると、奥光は「え」と驚きの声をあげる。
「やす、料理すんの」
「まぁ、洗って切って鍋に入れるだけだしね。腐らせるのももったいないでしょ」
「肉は!?」
「いい。金ないし」
「肉抜き!? 信じらんねえ、買いに行こうよ」
「俺が食べるんだからいいんだよ」
玩具のように小さいキッチンにはまな板を置くスペースもなく、ちゃぶ台の上で具材を切ってから火にかけた鍋に入れるという手間が発生した。何往復かしてやっと全てを鍋に投入し終え、康辰は刻んだ芋や人参が焦げないようにぼうっと鍋を見張る。野菜の焼ける匂いを嗅いだのは、随分と久しい気がした。途端に腹が減って来て、もう半日ほど何も食べていないことを思い出す。
「康辰、俺今気づいたんだけどさぁ、こっちに鍋持って来て全部入れてから火つければよかったんじゃない」
「……たしかに」
ちゃぶ台で頬杖をついている奥光に指摘され、康辰は小さな衝撃を受けた。しかし、今さらそれに気づいたところでもう手遅れだ。無駄な手間を思い返し、自分に対する呆れの感情が湧いてくる。
「もしかすると俺たちって、とんでもない馬鹿なのかな」
「うーん、そうかも」
鍋の中からじゅうじゅうと音が聞こえて来た。火にかけすぎたかと、急いで水道水をカップに注いでいると、背後から「あっ」と奥光の声が飛んでくる。康辰は振り返らずに、鍋の中に水を継ぎ足しながら「どうしたの」と問う。
「指切った」
「は?」
「包丁で、切った……」
奥光が、独り言みたいにそう呟いた。心配の言葉をかける前に、康辰の脳はその異常さを理解した。そんなはずがない。奥光が包丁で指を切るなんて、ありえない。今の奥光が物に触れて怪我をするなんて、そんなことが現実に起こるはずがなかった。しかし、駆け寄った彼の指からは確かに、赤い血が流れていた。
「大丈夫……っていうか、待って、なんで……」
「わっかんねえけど、血だ……。血がすげえ出てんだけど!」
奥光は指先を濡らしている赤い血を恐る恐るといった調子で見ている。比にならない量の血に塗れて死んでいたというのに、と康辰は頭の片隅で冷ややかに考えた。
奥光の指に触れようとする康辰だが、やはり接触は不可能だった。試しに、奥光に包丁の柄を握らせようとするが、それもできない。奥光が触れるのは、包丁の刃先だけだった。
「何これ、何でだろ。意味わかんねー、こえー」
「……もしかしてだけど、奥光の死因と関係してるんじゃない」
康辰が言うと、奥光は「どういうこと」とピンときていない様子で康辰を見た。
「奥光って、刺されて死んだんだよね。包丁で。だから……」
「俺の魂的なのが、死んだ原因の刃物にだけ反応するみたいな?」
「わかんないけど、多分……」
原理はわからないが、とにかく奥光の身体に唯一反応する物体が、彼を死に至らしめた凶器に関係する物であることは間違いなかった。今、この世界で、唯一奥光を傷つける物。それは、奥光がそれを他に向けることは許さないらしい。康辰の中で、再び小さな不安が頭を擡げ始める。
「じゃあ俺が、包丁でもっかい刺されたりしたら……」
「刺されないから、大丈夫でしょ」
奥光の発言を遮るように、康辰が声を被せた。
「まぁそうなんだけど」
「手、痛い? 大丈夫?」
「これ? へーきへーき」
舐めとけば治ると、奥光は指先を口に含む。久しぶりに感じられた味が血の味だということに文句をつけており、康辰は彼の舌が指を伝った血を舐めとる動作に目を奪われた。奥光はすぐに指から口を離した。そこにはもう赤い液体はなく、指の腹は唾液で濡れているだけだ。康辰は鍋に火をかけっぱなしだったことを思い出して、包丁を手にコンロの方へ戻った。
「奥光もう台所に近づかないでね。一応、危ないから」
「へいよー」
元々キッチンに近づく用事もない奥光は二つ返事で了承した。康辰は、シンクにその凶器をそっと置く。何の変哲もないただの料理用の刃物が、酷く恐ろしい物体に見える。康辰は流し台から目を背けて、煮えたぎっている鍋の中に白いシチューの素を投げ入れた。
必要もないのに延々と鍋をかき混ぜ続け、具材が崩れ始めてからやっと火を止める。埃を被っていた皿を軽く洗って、鍋の中身を移し、卓上へと運ぶ。奥光は自分が食べるわけでもないのにやけに嬉しそうな顔をして、康辰がシチューを食らう様子を見ていた。
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