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六、

「兄貴さぁ、携帯買うか電話繋ぐかしなよ。連絡取れないの不便だから」  滝辰は開口一番にそう言って、有無を言わせぬといったふうに口をへの字に結んだ。  前回彼と臣辰が訪ねてきてからまだそう何日も経っていない日の夕方、今度は滝辰と義父がやって来た。康辰がドアを開けた瞬間に挨拶よりも先に文句が飛び込んできて、康辰はあからさまに嫌な顔をした。そんなことはお構いなしに、久しぶりに対面した義父がにこやかに喋り出す。その顔は、以前よりも少しやつれている気がした。 「康辰、ちゃんと生活できてるのか? 随分痩せたんじゃないか? 父さんに言ってくれれば、いつでも焼肉に連れてってやるからな」 「いや、皆何で小分けで来んの。まとめて来ればいいのに」  康辰が言うと、 「いや、今回はまた別の知らせがあって」と滝辰がにんまりと笑った。一瞬、奥光のことで何かあったのかと肝が冷えたが、すぐに全くの見当違いだとわかる。 「臣辰が、彼女と同棲するんだって」 「……は!?」  康辰が驚愕の声をあげると共に、背後で奥光も「は!?」と康辰と同様に驚嘆した。まだその言葉の意味を上手く咀嚼できていない康辰に、滝辰は平然と説明を始める。 「なーんか二年前くらいから、中学の同級生とずーっと付き合ってたんだって、僕たちに隠れて」 「それで、近々一緒に住むことにしたらしい。結婚を前提に同棲するって言っててね」  滝辰はどことなく羨ましさを滲ませる口振りだが、義父は嬉しそうに説明する。奥光が「何だその漫画みてえな話!」と悔しそうに喚いた。 「いや、それにしたって、あいつまだ卒業まで二年ぐらいあるでしょ。何も今すぐしなくたって……」 「大学に通いながら仕事するみたいで、もう就職先も決めてきたんだよ。問題なければ卒業後はそこで正式に働くんだって」 「何だ、その行動力……。長期休みずっと家に閉じこもってた男とは思えない……」 「何か思うところがあったみたいよ。変なところで思い切りがいいのは遺伝なのかね」  滝辰はそうぼやいて、「ま、家が広くなるからどうでもいいけど」と鼻をならした。義父は「強がってまぁ」と四男を茶化し、 「それで、彼女が一応家に挨拶に来るみたいだから、再来週の日曜康辰も帰ってこいって連絡」 「はぁ、わかった。っていうか、何でこの前来た時直接言わなかったのあいつ」 「恥ずかしかったみたいよ」  そう言う滝辰の顔は、呆れつつもどこか嬉しそうだ。しかし、ふと表情を曇らせて「それに……」と言葉を詰まらせる。 「奥光がまだ戻ってきてないのにって、悩んでたらしい」  義父は困ったような笑顔を浮かべて「俺にもそうだけど、康辰には特に言いづらかったんだと思う」と言った。それもそうだろう、と康辰は納得する。長男の失踪を機に明らかに余所余所しくなり突然家を出た弟に吉報を届けるのは、相当に気が重かったことだろう。 「先延ばしにしようってなってたらしくてな、俺がもう今すぐにでも呼べって言ったんだよ。だってほら、あいつのことだから、そんな特大イベントが発生したらすっ飛んで帰ってくるかもしれないし」  義父が「あいつは、仲間外れにされるのが我慢ならないタチだから」と笑った。彼が康辰らに気を遣わせないように務めて明るく振る舞っていることは、康辰にでもわかった。奥光は茶々を入れることなく黙っている。康辰は、大きな手に心臓をゆるく握られているような息苦しさを覚える。 「……そうだね」 「そんなわけで、再来週ちゃんと開けとけよ」 「わかった。臣辰に次会ったらボコボコにするって言っといて」 「物騒だなぁ」 「じゃあ、また再来週に。康辰」  義父が「たまには母さんの料理食いに戻って来いよ」と言って引き返そうとするので、康辰は咄嗟に「え、もう帰んの。上がってけば」と引き留めた。つい先日も全く同じやり取りをした気がする。しかし二人は即座にその誘いを否定した。 「いや、いいよ。だってお前の部屋相変わらず何にもなさそうだし」 「うん。それに狭くて古くて不衛生そうだし、父さんそういうの無理だから」 「父さんは帰りに薬局でオブラートを買っていった方がいいよ」  義父は「お小遣いが少ないから、無駄なものは買わない主義なんだよ」と真面目な顔で言い、じゃあなと手を振った。滝辰も「じゃあ再来週ね。詳しい時間が決まったらまた連絡するから」と言い残し、彼に続いて康辰のアパートを後にする。康辰は、手を小さく振りながら、二人の背中を目で追う。  オレンジに染まった空に弟と義父の姿が溶け込んでいくのを、ぼんやりと見送った。日は伸びてきたが、外はまだ冷える。ポケットに手を突っ込んで、冷えた指先を温める。  死体は見つからない限り、奥光はずっと行方不明扱いだ。康辰は臣辰の顔を思い浮かべた。失踪した人間が死亡扱いになるのは、行方をくらませてから何十年後だったか。それまできっと葬式をあげることもなく、奥光の死は宙ぶらりんなまま、皆がありもしない希望に縋ったり否定したりを繰り返しながら生きていくのだろう。  義父の寂しげな笑顔が脳裏に蘇る。康辰は静かにドアを閉めた。そして、その場にうずくまる。  皆もう、薄々気づいているのではないか。奥光がもうこの世に存在しないことに。自分がしたことは、皆から確実な絶望も希望も奪い真綿で首を絞め続けつような、一番残酷な行為だったのではないか。  悔恨の念が胸の中に渦を巻き、康辰はきつく目を瞑った。まぶたの裏に、土に埋もれた奥光の死に顔が浮かび上がる。 「康辰、どうした?」 「ああ……。何でもない、ちょっと立ちくらみ」 「マジ、大丈夫?」  いつの間にか、奥光が側に来ていたようだった。康辰はドアに凭れ掛かりながら、ゆっくりと目を開けて奥光の顔を見上げた。きっと、生きていたら手を差し出してきたことだろう。何年も前に、同級生にリンチを受けた際に彼に引っ張り起こされた記憶が思い出される。康辰はノブに手をかけて、なんとか身体を持ち上げた。 「大丈夫、治った。っていうかさ」 「臣辰な! 何だよあいつ、抜け駆けかよ」  康辰が振ると、奥光は食い気味に文句を言い始める。 「しかも中学の同級生って! 純愛って感じで羨ましい。むかつく〜」  そうは言いつつも、嬉しそうな表情を全く隠せていない。頬はゆるみっぱなしで、声にも喜びが滲み出ている。 「再来週かー。康辰、なんか技かけてきてよ」 「バックドロップ?」 「んー、パイルドライバーは?」 「いや、死んじゃう死んじゃう」  奥光は悪戯を考える子供のように、心底楽しそうにあれこれと提案していく。それでも彼はもう、臣辰に揶揄いの言葉も祝いの言葉も伝える術を持たない。その揺るぎない事実が、康辰の心臓をぎゅうぎゅうと締め付けた、奥光の声がいつになく明るくて嬉しげであればあるほど、康辰はどうしようもなく哀しくなった。  催事に向けて、最低でも二週間はまともな生活を送らなければならなくなった。が、そう思った翌日にまず、電気が止まった。さてどうしたものかと考えて求人誌を漁った結果、工場での日雇いアルバイトを見つけてさっそく応募し、現地に向かったのが今日の夕方。しかし数時間後、康辰は指に包帯を巻き、帰りのバスに揺られていた。 「すっげえよな。まさか機械が爆発するとは思わなかった」  工場まで付いて来て一部始終を見ていた奥光がしみじみと言った。康辰は周囲の席に人が座っているのにももはや構いもせず、「俺、呪われてんのかな」と呟く。なんとか仕事にありついたと思ったら、始業一時間も経たずに康辰が担当していたラインの操作板が煙を上げ始め、やがて爆発した。康辰と奥光は、赤い炎が燃え盛る様子を呆然と眺めることしかできなかった。その間に何かの破片が康辰の方へと飛んできて、指を傷つけたのだった。  幸い死者は出なかったが怪我人の数が多く、現場は大混乱に陥っていたため、疲弊し切った康辰は手当てのみを受けて帰宅することにして、今に至る。 「家帰っても電気止まってんだけどね」 「どうすっか〜。蝋燭でも買ってく?」 「蝋燭買う金が惜しいよね。まぁシャワー浴びて寝るだけだし、灯りがなくてもいいよ」  バスを降りて、家までの長い道のりをとぼとぼと歩いた。電車賃もろくにないため、二駅分歩かねばならなかった。早く身体の汗だの煤だのの汚れを洗い流して、温まりたい。そして綺麗になった身で布団に潜り込んで、そのまま朝まで眠りたい。その一心で疲れ切った足に鞭を打ち、数十分歩き続けてやっと家に着いた。  月明かりのみが頼りの薄暗い部屋に荷物を放り投げ、康辰はユニットバスへと直行する。室内の温度はほとんど外と変わらないほどに冷え切っていて、康辰は震えながら服を脱いだ。もう熱湯でも何でもいいから早く湯に触れたいと思い、カランを捻ったがしかし、いくら待てども、散水板からは皮膚に突き刺さるような冷水しか出てこない。  まさか、と思い、ドアポストに溜まっている葉書類を引ったくって部屋に戻る。 「うわ、何。全裸でどした」  奥光の声を一旦聞き流し、窓際で月の灯りに照らして葉書を一枚一枚確認していくと、その中にガス会社からの葉書を見つけた。目を通すと、思っていた通りの内容が書かれている。 「ガス、止められたみたい」 「マジ? 電気の次はガスか……」  康辰は薄暗く空気の冷え切った部屋で、素裸のまま立ち尽くした。ガスが止まったこと自体はさほどショックではなかった。ただ、温かい湯を浴びることだけを考えてやっとの思いで帰って来たのに、それが不可能だとわかって心がぽきりと折れたのだ。 「康辰、とにかく服着れば? 風邪ひくよお前」 「…………うん」  奥光に催促され、康辰はほとんど放心しながらそこらに散乱している服を適当に拾って袖を通した。服を身にまとったところで、一度下がった体温は上がる気配を見せない。ぶるぶると身体を震わせながら、ユニットバスの前で脱ぎ散らかしたジャンパーを回収して羽織る。電気が通らないかぎり、とにかく厚着をして凌ぐ他ない。奥光は康辰のそんなありさまを気の毒そうに目で追っていたが、不意に口を開いた。 「あのさ、康辰。もう家帰ろう」 「え」  康辰は呆気にとられて奥光の顔を見る。しかし、闇に包まれた部屋の中では彼がどんな表情を浮かべているのかわからない。康辰の脳は少しの遅れを取りつつも、やっと奥光の言葉の意味を受け止め始めた。つまり奥光は、この二人だけの暮らしを終わらせようと言っているのだ。 「何で、急に。別に大丈夫だよ」  言いつつも、康辰は自分がこれっぽっちも大丈夫ではないことを痛いほど理解していた。指は痛いし、身体は疲労と寒さにやられてどうにかなりそうだ。  家族のいるあの家に戻れば、今すぐにでも温かい風呂に入れて、炬燵で暖を取りながら当たり前に食事にありつける。あの生活が全く恋しくないと言えば、嘘になる。だが、康辰の中にはもう、その選択肢は存在していなかった。軽トラックに奥光を乗せて家を出た時に──あるいは、奥光を冷たい土の下に埋めた時には既に──康辰はそれまでの生活を手放したのだ。あの家に戻る資格を、康辰はとっくに失効している。何よりも、あの家でただ空気のように存在する奥光を、ふとした瞬間に憂いを見せる奥光を、もう見ていたくはなかった。  だが、その奥光自身がこの生活の終わりを切り出したのだ。 「いいよ、もう。このままだとさ、康辰が……」  「大丈夫だって、心配しなくていいから。何とかするから」  動揺を隠しきれず、具体性など一つもない言葉を捻出していると、奥光が康辰の元へと近づいてきた。そして、康辰の悴んだ手に自分の手を重ねる。 「だって俺、康辰が辛そうなのに何もできないでただ見てんの、もう嫌だよ」  子供が駄々を捏ねているような、そんな声音だった。康辰は言葉をなくして奥光の顔を見た。康辰の目に映ったのは、もう見たくないと思っていた憂いに満ちた表情そのものだった。  駄々を捏ねているのは、俺の方だ。康辰は、この二人暮らしがもうほとんど破綻していることを、この生活が奥光をも苦しめていることを、やっと自覚した。 「俺もう、じゅうぶん楽しかったからさ」  奥光が眉を下げたまま笑う。 「何で、そんなこと言うの」  呆れるほどに子供じみた言葉が、勝手に口から溢れる。康辰はどうしてもまだ終わらせたくなかった。いつか自分で閉めた蓋を、まだ開けたくはなかった。 「またちゃんとバイト探すし、そうしたら……大丈夫になるから。絶対」 だから、そんなことを言わないでくれ。康辰の弱々しい声が、薄闇が蔓延した寒々しい部屋に反響した。その言い訳じみた台詞は奥光に向けられたものなのか、自分に言い聞かせたものなのか、それ以外か、康辰自身にもわかりはしなかった。

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