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記憶と引退2
車が病院に着くと、気が急いてつい廊下を小走りに走ってしまい、看護師さんに怒られてしまった。
「廊下は走らないでください」
注意をされ、走ることをやめたけれど、それでも早歩きになってしまうのは止められなかった。だって、颯矢さんが俺のことを思い出したかもしれないんだ。そんなの走りたいに決まってる。
病室のドアをノックし、中から声が聞こえてくる前に開けてしまう。
ベッドには颯矢さん、ベッド脇には社長がいるだけだ。俺がほんの少し怖がっていた香織さんはいなかった。そんなにいつもいるわけではないようだ。
飛び込むように病室へ入ると、颯矢さんが優しい笑顔を浮かべていた。
「柊真。お疲れ様」
こんなに優しい颯矢さんの笑顔を見たのはいつぶりだろうか。以前はよく見ていたけれど、俺が颯矢さんに壁を作るようになってから見ることはなかった。その笑顔を見て俺は泣きそうになる。
「颯矢さん、俺が誰だかわかるの?」
「柊真だろ。俺がマネージメントしてる城崎柊真だ」
「思い出したの? 俺のことを新しく記憶したんじゃなくて、過去のこと思い出したの?」
「覚えたんじゃないよ。思い出したんだよ」
「じゃあ。なんで怪我をしたかも思い出したの?」
「ああ。柊真の引退を引き止めるためにレストランを予約して、行くところだった。お前がなんともなくて良かったよ」
その一言で俺の涙は決壊した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。俺のせいで」
大きく頭を下げる俺の肩を抱いて、社長が俺を座らせてくれる。
「お前が謝る必要はないよ。俺がしたかったからした。それだけだ。仮に、お前が頭を打って入院なんてしたら俺は自分を許せないだろうな」
「でも……」
「壱岐くん。柊真はね、壱岐くんが柊真のことだけ忘れたから、壱岐くんに嫌われてたと思ったんだよ」
「俺が柊真を嫌う? そんなことあるはずないのに。柊真は俺の自慢なんだから」
俺の自慢……。
さっき氏原さんが言ってた。颯矢さんが俺のことを自慢してるって。それはほんとだったの?
「壱岐くんは、社長の僕にも柊真の自慢してたからね。だから言ったでしょう。柊真のことを嫌ってるわけじゃないって」
社長の言葉に頷く。
「まぁ、お前のことだけ記憶をなくしてたらそう思ってしまうのも無理はないか。悪かったな」
そんなことはない。そう伝えるために俺は首を横に振る。
記憶を失くしたのは颯矢さんのせいじゃない。頭を強く打ってしまったからだ。
それに、記憶を失くしたのがたまたま俺だっただけだ、きっと。
でも、社長が、ストレスで記憶をなくすことがあるって言ってたけど、そのストレスってなんだったんだろう。
きっと、それは俺が知ることのない、私生活の部分なのかもしれない。
「撮影は終わったか?」
「今日。さっきクランクアップした」
「そうか。最後まで気抜かなかったか?」
そう言われて、先日NG続きになったことは言えない。でも、黙り込んだ俺を見て、答えを悟ってしまったらしい。
「お母さんが亡くなっても集中してたのに。仕事には支障はきたすな」
「ごめんなさい……」
「城崎さんは壱岐さんのことが心配で仕方がなかったんですよ」
いつの間にか氏原さんも病室に来ていて、俺のことを庇ってくれる。
「そうか。それは悪かったな。でも、もう大丈夫だから心配するな」
「マネージャー、颯矢さんに戻るの?」
「明後日に退院だから、退院したらマネージャーに戻って貰うよ。氏原くんは、今までありがとうね。急だったから大変だっただろう。申し訳なかったね」
「いえ。自分はいい経験になりました」
そっか。マネージャーは颯矢さんに戻るんだ。
「明明後日からの柊真のスケジュールを組んでたんだよ」
「ドラマのクランクアップ後は、テレビでの番宣ラッシュだ。局内の番組を総なめする感じで、三方さんや監督と一緒だ」
「わかった」
「これで柊真も安心して仕事ができるね」
社長が少し意味深に言う。そうだ。俺の引退話は宙ぶらりんのままだ。そのことはまた時間を改めて社長と話さないといけない。
でも、今は颯矢さんが記憶を戻したことが嬉しいから、そのことは一旦考えることをやめよう。せめて今だけは。
そうやって4人で仕事のことをわいわいと話していると、病室のドアが軽くノックされてから静かに開けられた。ドアを開けたのは香織さんだった。
それまで颯矢さんが記憶を取り戻したことが嬉しくて、久しぶりに颯矢さんとも話していたのに一気に現実を突きつけられた気がした。
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