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第1話 犬耳幼子と白い青年 ①

 植物の蔓で編んだ籠を背負い、吹雪を浴びながら帰路につく。歩幅は狭いが速度はある。けれど、未踏雪は決して音を立てない。この暗く、寒さに適応した木々が茂る陰鬱とした山が、ニドルケの住処だった。  月の光さえ凍てつくと言われるこの凍光山(とうこうざん)は常に冬に閉ざされ、雪の降らない日などほとんどない。まれに青空が顔を見せても、天井のように広がった木々の枝葉で、顔を上げてもため息しか出ないという有り様だ。陽の光など、まず射し込まない。  樹上に積もった雪が、時折シャワーのように舞い落ちる。  そんな山中を、幼子はひとりで歩いていた。  笠から覗く髪は黒で、その上には三角の耳が笠の穴から突き出している。髪と同じ色の体毛に覆われた耳はこんな寒い地域に住んでいるというのに冬毛ではなく、夏の薄い毛に覆われていた。  もちもちしてそうな頬は寒さからか真っ赤に染まり、林檎のように愛らしい。身につけているのは赤地に黒い花が咲いた着物と呼ばれる民族衣装。背丈と変わらない籠を背負いやすいために腹側で結ばれた帯が、歩くたびに蝶の羽ように揺れる。  薬の材料となる木の実の群生地から、籠半分くらい頂戴してきたところである。山の恵みを分けてもらうのだから、採り尽くすような真似はせず、半分から三割は残すようにしている。とはいえ今月は厳しいので、できればもう少し欲しかったところだ。 (……まあ、いっか。欲をかいて良いことがあった試しがない)  はぁと白いため息をこぼし、ズレてきた籠を背負いなおす。  低い背丈ながら、黒い雪下駄は力強く大地を踏みしめていく。新たに積もった雪を蹴散らす横殴りの強風が吹こうとも、小さな身体は小揺るぎもしない。暗い山道を迷いなく進んでいく。  と、そこでニドルケの耳がぴくぴくと動いた。 「――……?」  なにか、声のようなものを聴いた気がしたのだ。  山に吹く風はたまに気味の悪い声に聞こえるときがある。だが今この耳が捉えたのは、そんな「聞き慣れた」音ではなかった。  足を止めて、周囲を見回す。  ここは危険な生物も普通に生息している山だ。というか山自体が危険地帯でもあるので、気のせいで済ませるのは命を無駄にする行為である。  視界は真っ白で、物探しに目は役に立たない。そっと瞼を下ろし、耳に神経を集中させる。聞こえるのは鼓膜がマヒしそうな風の音。かすかに混ざる自身の呼吸音。そして―― 「あっちか」  視界を広げるように笠を親指で押し上げる。 意外に近い。  好奇心に従って近寄って肉食獣だったら笑えない。だが、声の主を確かめもせずにこの場を去るには、無邪気に過ぎるというものだろう。 (せめて声の主がなんなのかくらい、把握しておかねば……)  引けまくる腰を叱咤し、息を殺す。  低い背をさらに低め、雪に伏せるようにして近寄っていけば、見えてきたのは雪に埋もれた白い手首だった。 「つっ!」  鞠のように跳ねまくる心臓を着物の上から撫でてなだめ、音もなく立ち上がる。  誰もいないことを確認し、抜き足差し足忍び足で近づいていく。もし同族ならば、助けようと思ったのだ。 「……」  つんつんとつま先で白い手を突く。瞬時に飛び退き、木の陰に隠れるが、白い手はぴくりともしない。死んでいるのだろうか。 「ふむ」  ならば身ぐるみを剥いだ後、丁寧に埋葬してやろうと思い、手をおもむろに掴むと大根のように引き抜いた。これで出てきたのが腕だけだったら、肩透かしもいいところだ。まあ、こんなところで暮らしていればそういう時もあるっちゃ、ある。  ずるずる……。  「最後」まで引き抜けたので、ホッとし、腕を掴んだままそれをまじまじと見つめる。  雪の中から出てきたのは、雪のように白い生物だった。  身につけているのは服ともいえない襤褸切れ。周囲に溶け込むような白い髪。瞼が閉じているため瞳の色は分からず、白いまつ毛は凍りついている。薄い唇も肌も赤みが全くなく、凍死体のそれだった。 「うん? なんの種族だ?」  ニドルケは首を傾げる。どささっと積もっていた雪が落ちる。  とにかくデカい。というより、ひょろ長い。ニドルケの倍はあろう巨人だが、種族の特徴が見当たらないのだ。頭部に獣の耳があるわけでもないし尻尾もない。角もなければ牙も鋭い爪もない。肌は滑らかで、鱗に覆われてもおらず、ニドルケの頭上には疑問符が飛び交う。 「うーん? わからん。鬼だろうか?」  こんなところで倒れていたということは、何かに襲われた線が濃厚だ。その際に角が折れたと考えれば、まあ。 「鬼に良い思い出はないが……。急げば息を吹き返すかもしれんな」  しぶとさや生命力という点では、鬼族は他の生物を圧倒している。湯にぶち込めばいいだろう。もし助からなくても埋めてやるから安心してあの世に行くがいい。  同族以外にはこの程度の情しかないが、それでも助けようとしただけ、ニドルケは優しかったのだろう。  欠伸を噛み殺しながら凍死体もどきを引きずっていった。

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