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第2話 犬耳幼子と白い青年 ②

 山の比較的平らな場所に、黄色い屋根がある。  小さな宿屋でニドルケの父の父、つまり祖父が始めたものだった。祖父が亡くなった後も父が存命の間はそれなりに賑わってはいたのだが。  父の死後、姉とニドルケのふたりきりとなった。ニドルケも幼いながら出来る限り手伝ったが、儲かるどころか常に閑古鳥が鳴くようになる。  ――宿屋やめて、もう別荘にしようかな。  布団に頭から突っ込み、宿を守り続けたいのにと、しくしく泣いている姉になんと声をかけたものか。  泣き虫で抜けているところもあったが、弟に優しく母親代わりだった姉。  何度畳もうとしても、この山を拠点にしている狩人がここを避難所扱いにしているようで、たまにやってきては「この宿があって助かったよ」と満面笑顔で帰っていくので、畳むに畳めなかった。 (姉ちゃんは優しすぎんだよ)  やれやれと首を掻くとその自慢の湯に、持って帰ってきた「鬼かもしれない」を投げ込んだ。  ざぱぁーんと水(湯)しぶきが上がり、入った分だけ溢れたお湯が流れていく。  飛んできた飛沫を、首を動かすだけで躱し、ううんと背伸びした。  やる事は多い。  まずは摘んできた木の実を倉庫で並べて日陰干し。飯を炊いている間に洗濯。休み多め営業とはいえ、清潔さは保たなくてはならない。掃除は気合を入れてやる必要がある。  私室に戻り、衣類箱である葛籠のふたを開ける。  ニドルケは帯を背中に回すと、無駄にふりふりの付いた割烹着に袖を通した。 「……くっ」  昔は何も思わなかったが、この歳でこの割烹着はツラい。姉が「可愛いでしょ?」と選んでくれたものだが、そろそろふりふりの付いていない素っ気ないものに買い替えたい。切実に買い替えたい。  羞恥にぷるぷると震えながらも、頭に三角巾を巻きつける。獣耳がぺたんと倒れてしまうが、埃をかぶるよりマシである。  三角巾にも姉お手製のお花の刺繍がしてあり、なんかもう泣きそうになった。 (あああああああああっ! もう! 今すぐ燃やしたいけど、姉ちゃんの笑顔がちらつく……っ)  顔を両手で覆って、古い畳の上を転がる。  二分後。我に返ったニドルケは、ぐったりした様子で倉庫へ向かうのだった。 ♢  呼吸が出来ない。  目覚めるといきなり酸素がなく、青年は重い手足を盛大にばたつかせた。 「~~~っっっ?」  水の、中? くぐもった自分の吐く息がごぼごぼいう音しか聞こえないし、なんだか熱い気がする。  上下左右も分からずもがいていると、以外と浅いことに気がつけた。足に力が入らなかったが、そんなことを言っている場合ではない。血管が切れそうなほど力を込めて足を底に付けると、上半身がようやく水から出た。 「っぶはあっ! ごほげほっ……ごほごほ! ……はあ、はあっ!」  口に入った水を吐き出す。なんだか味のする水に、ますます困惑する。 「げほ! はあっ、はあ……」  訳が分からず周囲を見回すと、つるりと足が滑り、背中から再び水中へ倒れ込んだ。 「ごっghじb@m♯……」  なんだ? やけに滑るし、掴まるところが……  暴れまくっていると、右手がついに縁を掴んだようで、身体を持ち上げることができた。そのまま死にもの狂いで縁にしがみつき、呼吸が整うまで項垂れた。 「なん、なんだっ、ゲホゲホッ」  どれほどそうしていただろうか。  自分の呼吸がゆっくりになってくる。落ち着いてきた証だ。  改めて顔を上げ、周囲確認をする。  どうやら建物の中のようだった。それほど広くはない室内いっぱいに湯気が立ち込め、視界は白く霞んでいる。天井付近は良く見えない。 「……?」  目線を下げると、どうやら自分は木で造られた箱のようなものの中にいるのだと分かる。木箱は大人二人が寝そべることが出来るくらいの大きさで、座ればちょうど肩が水面から出るくらいの高さだ。  ここは一体何なのだ。お湯を蓄える場所……なのだろうか。壁から突き出た木筒のようなものから、自分が入っている木箱にこんこんと耐えることなくお湯が注がれている。 「……熱いな」  とりあえず入っているとどんどん頭がぼーっとしてくるので、湯からあがる。  ――ここはどこなのだろう。  建物ということは、住んでいる者や管理している者がいるはずだ。  よろりと立ち上がる。酷く億劫で恐ろしく力を必要としたが、なんとか二本の足で身体を支えることが出来た。  誰でもいい。とにかく話を聞きたい。何が起きてどうして自分は水没していたのかを聞きたかった。

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