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第68話 心配

 頭に浮かぶのは、しゃれこうべが刺さる錫杖を持った赤袈裟の男。  レナは龍虎退治のために凍光山(とうこうざん)へ訪れたのだと、入院中にニケから聞いた。龍虎を村にけしかけたのも、おそらくはヒスイだということも。  その村にも魔九来来(まくらら)使いがいたのだろうか。はたまた、別の理由か。  渦大蛇も、ヒスイか彼の仲間かの仕業だと思うと、酷く心がざわつく。ニケが心配だった。ヒトの多い街中とはいえ、こうしている間にもヒスイが迫っているかもしれない。 「あ! おい」  走り出した白い背中に手を伸ばす。  獣並みの反射神経を駆使し、リーンの手は着物を掴むも、フリーの足は止まらない。 「うおおおぉ? ちょ、ちょっと止まれって! 止まっ」  引きずられないよう足を動かすが、この時のフリーの脚力は馬のようだった。到底並走できるものではなく、リーンは鯉のぼりのように宙を泳ぐ。雷の魔九来来による身体強化は使っていない。火事場のなんとやらだ。 「ふ、フリー? 止まれっておい」  どうして今までその可能性を、考えが至らなかったんだ。ニケを一人にするなんて。いくら借金があろうとも、ヒスイをなんとかして安全を確保してから、こうして働くべきだろうに。  大怪我をして頭が回らなかったから? 環境が変わったから? 言い訳にもならない。  心は周囲が見えないほど急いていたが、それはそうと真後ろからリーンの声がするので、素直に足を止めた。 「はい?」 「ふぎゃ」  自分を引っ張る力が働かなくなり、リーンは白い背中に顔をぶつけ、地面にべちゃっと落ちる。  片膝を立て、鼻頭を押さえて起き上がる。 「いでで……。どうしたんだお前は、急に」 「だ、だって! ニケが。魔物がっその」 「……?」  なんだかうまく舌が回らず言葉にならなかったが、察したらしいリーンは「あーはいはい」と手を振る。 「分かったから深呼吸しろ。ったく、仕事をほっぽりだすんじゃねぇ! どんだけドールさんに迷惑……心配かけりゃ気が済むんだお前は! お前を雇って「くれている」ことを忘れるな」  厳しくも厳しいだけではない言葉に、フリーの顔色が変わる。どうしようもなく肩を落とす後輩に、リーンはガシガシと片手で頭を掻く。 「あのな……」  言いかけ、背後から「ちょっと~」と声がする。振り向くと、ディドールが目を回しながら追いかけてきた。ばたばた走るせいで、彼女を彩るハッサク色の花びらが舞い散る。 「ど、どうしたの? はぁはぁ……。駄目よ、人ごみで走っちゃ」  運動が苦手なのか、大げさなほど息を乱している。リーンは親指でフリーを差す。 「すみません。俺が魔物の話なんてしたから、怖くなったみたいで」 「に、ニケのところに戻らないと……と思って。ごめんなさい……」 「あらあら。まあまあまあ」  ぱっと顔を上げると、家出しちゃった少年を見つけたように、ディドールはふわりとフリーを抱きしめた。 「え?」  彼女の髪で揺れる花が、顎のすぐ下にくる。さわやかな夏花の香りが脳天を駆け抜けた。思わずフリーは大きく息を吸い込み、リーンは能面のような顔になった。  往来での抱擁に、視線が集まる。  ディドールは優しく背中を撫でる。 「よしよし。怖かったね。でも大丈夫だよ。この街に、魔物や魔獣は入ってこれないから」 「ディ、ド、ドールさん?」  かすかに頬が赤くなった。歓喜とも羞恥とも呼べそうな感情が湧き上がってくる。かつてない己の心情に戸惑う。  彼女はフリーを見上げ、にこりと笑う。 「この街には結界が張ってあるからね」 「結界……?」  外と内側の境にある柵のようなもので、魔のものは入ってこられないのだという。  彼女は身体を離す。 「魔除けの結界を、アキチカ様が張ってくださっているのよ。念のため」 「念のため? なんですか?」  困惑気味に首を傾げるフリーに、ディドールは得意げに人差し指を立てる。 「魔物魔獣は神の気配……神気を嫌うでしょ? アキチカ様がいるだけですでに十分な魔除けになっていんだけど。でもあのお方、おっちょこちょいだから」  ふふっと上品にほほ笑む。 「よく体調を崩されるの。アキチカ様が弱ると神気も弱まっちゃうから、念のため結界を張っているの」  もちろん結界を張る体力もなくなるわけだが、常に結界を張ることで「この街にはどうせ入れない」と、魔物に思わせる。何度トライしてもうまくいかないなら、野生動物ですら諦める。動物より知能の高い魔物ならなおさらだ。 「普通に歩いていたら転んで、真冬の川に顔からはまって風邪を引かれたこともあるっていうし。そういうとフリーちゃんみたいよね。ドジなところが兄弟みたい」 「……ん」  なんだか不名誉なことを言われた気がするが、それを聞いてもフリーはそわそわしていた。魔物は入れなくとも、ヒスイは魔物ではないので素通り出来てしまう。並の魔物よりあの変質者の方が危険だと、フリーの勘が告げている。  すると、リーンが励ますように肩を叩いてきた。……それはいいのだが、何故か足を思いっきり踏んでくる。リーンは体重軽い方だが今日に限って下駄を履いているので痛い。 「あ、あの、先輩?」 「ニケさんが心配なんだろ? 安心しろって、赤犬族ってお前が思ってるよりずっと――」  言いかけ、祭りの帰り道での言葉を思い出す。――たとえ先輩が宇宙一強くても。リーンは言葉を飲み込んで、違うことを言った。 「あー。キミカゲ様がおられるから大丈夫だって。俺と違って街のヒトから好かれているし、領主からも一目置かれてる。みんなが味方になってくれるさ」  強いから安心しろ、ではなく、皆がいるから安心しろと言う。彼の気持ちは嬉しいが、どれだけの人に迷惑をかけようと、仕事をほっぽり出してニケに叱られようと、ニケの側に戻りたい。自分がいれば安全なんて言うつもりはないが、不安で心配でたまらない。 「先輩……」  どうしたらいい? とすがるような目線を彼に向けるが、リーンの表情はぴくりとも変化しなかった。  ガンガン。 「だから仕事に戻らんかいアホンダラ」 「あの。な、なんで蹴るんですか?」  金青の目は細められ、笑みの形を作っているのに脛をガンガン蹴ってくる。痛い痛い。  リーンは白い着物を引っ掴んで川へと戻る。 「ほらっ。というわけだから、仕事に戻るぞ。あんま仕事舐めんなよテメェ。ドールさん。このボケ、一回減給してやりましょう」  背中を押してフリーを運ぶのを手伝いながらも、ドールは妙ににっこにこだ。 「何言ってるの。初めてのお使いで失敗しても、怒る親はいないわよ」  この発言に、リーンとフリーは一瞬動きが止まる。  都会ではめっきり見なくなったが、田舎では三歳になる前に子どもを一人でお使いに行かせ、村人全員で見守り成長を願うという風習がある。子どもがミスをしたところでいちいち怒る大人はいない。怒るより前に何がいけなかったのかを教えてやるべきだろう。……と、いうことを彼女は言いたかったようだが、かなり子ども扱いされているようだ。  つまり――ディドールのなかでフリーは三歳児くらいらしい。 「ふぶ……っ」  片手で顔を隠すが、肩が震えているので全然笑いを隠せていない先輩をジトッと見つめる。確かに何の言い訳もできないぐらい初日でぶっ倒れたり色々やらかしたが、一桁扱いは勘弁願いたい。 「うう~」  情けなく両手をばたつかせるも、フリーは引きずられていった。

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