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第74話 騒動の予感

「!」  襟首を掴まれたリーンは、吸い込まれるように路地裏の闇へと消えていく。  彼が消えたことに気づく通行人はいない。人々の視線の動きまで見切った一瞬の早業。  そのまま、ゴミが散らばる地面に引き倒される。 「うっ」  突然こんなことが起きたらわけがわからず困惑でいっぱいになるだろう。リーンも頭が真っ白になったが、瞬き一つで冷静を取り戻した。地面に手をつき、すぐさま跳ね起きる。  これには、彼を路地に引き込んだ側が驚いた。 「えっ――?」 「っらぁ!」  怯んだらしい相手の足を狙い、流れる動きで低い蹴りを放つ。 「ふおっ?」  足を刈られた相手は、見事にひっくり返った。受け身を取れなかったらしく、苦しそうに呻いている。  リーンの動きは明らかに、「こういった事態」に慣れている者のそれだった。  しかし――リーンが動けたのはここまでだった。 「おうおう。やるじゃん。兄ちゃん」 「え――?」  悪意から距離を取ったはずなのに、聞こえた声は自分のすぐ耳の後ろからだった。  反射的に振り向くより速く、リーンは地面に叩きつけられる。殴られたのだとすぐには分からなかった。頭をぶつけたのか、衝撃で目が回っている。  今の攻撃も普段のリーンならなんとか回避できる速さだったが、慣れない下駄を履いているせいで身体がついてこなかった。最近首が変に痛くて、原因を考えると見上げないといけない後輩兼友人が出来たからだと思い知る。首のために下駄を買ったのだ。ちょっとでも距離が近くなると思って。 「ぐう……っ」  動きが止まったのを見計らい、二人の男がリーンを即座に取り押さえる。 「はな、せっ。なんだお前ら!」  気丈に怒鳴りながら身を捩るも、拘束する腕を振りほどけない。そうこうしている間に、布で口を塞がれる。 「おーい。大丈夫か?」  リーンをぶん殴った人物が、足を刈られひっくり返ったまま動かない男の脇腹を蹴る。男はのたのたと起き上がった。 「だ、大丈夫っす。頭(かしら)」 「こんなやせっぱちな兄ちゃんの蹴りごときで、転がるなよなー」  せっかく起きた男を「なっさけねぇなー」と言いながらぼこんと殴り、再び地面に転がしてしまう。仲間の扱いが雑である。 「さて、と」  手を払うと、リーンに視線を向けた。  頭(かしら)と呼ばれた男を見て、リーンはギリッと奥歯を噛みしめる。  肌の所々に張り付いている漆黒の鱗。瞳孔は爬虫類のような縦長で、見つめられただけでゾッとする粘着質な視線。唇からチロチロと覗く舌は先が二股になっており、桜色の淡い着物に身を包んでいる。 (蛇乳(じゃにゅう)族……か?)  ツチノコを祖とする――噂だが――種族である。全体的に数が少なく、めったに出くわさない。  季節外れな色の羽織をマントのように翻し、リーンに手を伸ばす。  枯れ枝めいた指に顎を掴まれ、上を向かされる。うっすらと光って見える蜂蜜色の瞳と目が合い、寒気がした。 「ん。間違いない。星影族だな」 「着物みりゃ、一発ですけどね」  リーンを捕まえている男の一人が鼻で笑うように言う。それが気に障ったのかなんなのか、頭はそいつをノーモーションで張り倒した。ただのビンタだろうに、腕が霞んで見えた。 「へべっ?」  地面を擦りながら飛んで行く。 「頭……。あんまりボカボカ殴らんといてください。頭のせいで半壊してますよ私たち」  リーンを押さえているもう一人が叫ぶ。頭は拗ねたように眉根を寄せた。 「こいつらが悪いんだろー?」 「頭も悪いですよ……?」  軽口に飽きたのか、頭が倒れた二人の胸ぐらを掴む。  長身とはいえ大の男を二人、軽々と持ち上げている。  仲間其の一と其の二を慮ることなくがくがくと揺さぶった。 「いつまで寝てるの? しっかりその兄ちゃん捕まえててよ。逃がしたらお前ら……アレだぞ? えーっと。あの、アレだぞ?」  罰を決めていないようで言い淀んでいる。  そんな間抜けな様子に、其の一其の二は嘲笑を――することなく震え上がった。 「す、すいやせん。頭」 「ばっちり捕まえておきます!」    青ざめ、リーンに纏わりつく。相当怯えているようで、汗のにおいにリーンは顔をしかめる。  少年ひとりに三人も必要ないと判断したのか、頭に「殴らないで」と注意した男が手を離す。よく見ればその男も、蛇乳族のようであった。頭(かしら)と同じ黒い髪を三つ編みにし、背に流している。  頭は教師のようにぱんぱんと手を叩く。 「はいはい。じゃ、ちゃっちゃとその兄ちゃん、運んじゃってー」 「「へい!」」 「んんっ」  声も出せないリーンは抵抗むなしく連れ去られてしまう。手際からして誘拐のプロであろう彼らの犯行は、誰にも気づかれなかった。  ……はずだった。 「止まるがいい」  大太鼓のように腹に堪える声。  ばっと頭領と仲間の男たちが反応する。  狭い路地裏に詰まるように、大男が立っていた。  その表情は、見えない。  相手の顔が判別できない歪な暗さと中途半端な明るさの時間。思わずすれ違った人に「誰そ彼」と尋ねる頃合い。夕焼けの名残の赤い光を背に、その人物はこちらを見ていた。  黒い肌に炎色の髪。朱色の華美な着物に、頭部から伸びる禍々しい角。 「……鬼、族?」  呆然と呟く頭の声に、仲間たちはギョッとする。  リーンも目を見開いた。見間違おうはずがない。昨日、ニケに突っかかってきて翼族のお嬢さんにぶん殴られていた、あの大男ではないか。  なぜこんなところに――  頭の男もそう思ったが口には出さず、薄ら笑いを浮かべながら前に出る。 「なんか用?」  鬼は肩で両壁を擦りながら近づいてくる。 「貴様に用はない。そちらの小僧に用がある。貴様らは疾く失せよ」  と言って、リーンを指差す。 (え? 俺?)  昨日の祭り時に、目を付けられたのだろうか。  派手な鬼は目の前で立ち止まり頭(かしら)をぎろりと睨む。背は蛇乳族の方が高かったが、発せられる圧に頭は冷や汗を流す。

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