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第77話 第二形態
「走れ」
前を向いていたはずの金緑の瞳がこちらを見ている? 振り向かれた。踊るような回転軌道。地面にへばりつくような体勢から一転。白い生物は攻撃態勢に移っていた。
(馬鹿な――ッ!)
いや焦るなと、鬼は自分に言い聞かせる。
この生物の武器は長い刀。こんな裏路地で振り回すには大きすぎる。壁にでもあたって振り切ることなど不可能。ならば、気にせずこのまま爪を突き立てるのみ!
鬼男の予想は的中していたが、外れてもいた。
爪が白い胸板を貫いたと確信した瞬間、鬼の顎下から何かが飛来した。
反応できたのはここまで。鬼は、顎どころか頭蓋骨が軋む力で殴られ、錐もみして飛んだ。
「「――っ」」
ニケとリーンが、口を開けてそれを見上げる。
下が石畳でもなんでもなく、地面で助かったと言いたいところだが、何度かバウンドしてはるか遠くまで殴り飛ばされてしまった。
頭の中でごうんごうんと鐘が鳴っている。鬼である自分が必死で意識を繋ぎとめているという事実に、呆然としながらも立ち上がる。
よろけはしたが、なんとか二本の足で歩き出そうとする。それとおまけのように身体が、痺れて震えている。質量を持った雷に殴られたような――。それほどの威力だった。
「その棒切れのような腕で、我を殴り飛ばすとはっ。やるではないか」
ニッと白い歯を見せて笑う鬼男。顎を殴られたのだ。構造上、脳も揺さぶられたであろうに、もう何事もなかったように歩いて戻ってくる。
フリーはわずかに悔しそうに片目を細める。
「あんまり痛くなさそうですね……。これを喰らって原形を留めている生き物は、そうそういないのですが」
フリーの腕は、呼雷針(こらいしん)と同じ色同じ模様の手甲に覆われていた。足には、鎧めいた具足までいつの間にか装着している。
――呼雷針、格闘戦モード。
と、フリーが名付けた呼雷針の第二形態。
刀を使えない場所で、相手を殴り、蹴り倒すのに最適な形。後ろで先輩が「なんだそれ。カッケーなぁ」とはしゃいでいるのがなんか嬉しかった。
鬼はぺっと、血の混じった唾を吐く。
「いや? 今のアッパー、結構効いたぞ? お嬢の膝蹴りに匹敵する威力だ。褒めてやろう」
あのお嬢さんが何者か、ますますわからなくなってくる。
「膝蹴りって……。あのお嬢さんにいじめられているんですか?」
鬼が目を見開く。口が滑ったのを自覚したような顔だった。
途端にきょどり出し、黙るように口の前で人差す指を立てる。
「ばっ! 何を言うのだ、口を慎め。お嬢は、その、ちょっと手が早いだけで。そ、そんなのではない! けっしてない!」
「……」
フリーは構えている腕を下げずに言う。
「あの、俺たちアキチカさんの神楽見たいので、先輩の耳は諦めてくれませんか?」
「何度も言うが、その小僧の夜宝剣に用がある。耳はどうでもいい。大人しく寄こせば、ここは素直に退いてやろう」
リーンは鬼に噛みつく。
「だから! 持ってないって言ってんだろ。夜宝剣はキ……っ、じゃなくてヒトに貸し出しているんだ」
「ほう? 誰にだ?」
「……教えたら、その方のことも襲うのか? それなら教えられない」
もしかしてキミカゲならどうにかできるかもしれないが、リーンはおじいちゃんの元にこんな鬼を差し向ける気はなかった。
どうでもよさそうに、鬼は鼻を鳴らす。
「構わん。力づくで聞き出すのは得意だ」
言って、拳と拳をぶつけ合わせる。岩と岩がぶつかったようなあり得ない音がした。
ヒスイを思い出したらしいニケの身体が、ぴくっと震える。
それを感じ取ったフリーは一歩下がるとぼそぼそと呟いた。
「ニケ。先輩を連れて離れてくれ」
「僕は、邪魔か?」
悔しそうな声に、フリーは心外な顔で首を振る。
「へ? この第二形態、使い慣れてなくて雷が周囲に迸るから、近くにいたら危険なんだ。ありがとう。心配してくれて」
「そう……」
普段何気ないときは「フリーが僕を守るのは当然」と思っているのに、こういう場面になると、なぜか「一緒に戦えたらなぁ」なんて思いが横切る。この思いはなんなのだろうか。
と、ここで我に返る。
「はっ! ふ、ふんっ、別にお前さんの心配なんてしていないし! ま、ここは従ってやろう」
なんか言いたげなリーンを抱えると、素早く下駄も拾いニケはすたこらさっさと走り去っていく。
「え? こんなにあっさり退くの?」と言いたげにリーンが取り残されたフリーを指差す。
「お、おい! ニケさん。あいつ一人にしていいのかよ」
「いいんじゃないですか?」
「いいんじゃないですか⁉」
非戦闘員の声が遠ざかる。それを待たずに恐るべき爪と手甲に覆われた拳が衝突した。
ある程度まで離れると、ニケはそっとリーンを下ろす。
「つい、くすりばこ方面へ走ったけど……翁は神社にいるんでしたね」
明かりのついていない建物の前でやっちまったと舌打ちをこぼす。
リーンは下駄を袖の中へしまうと、怪我なんてなかったように立ち上がった。
「ど、どうすんだ、ニケさん! モヤシ一人残してきちまって。ど、どうしよう。治安維持隊に連絡した方が……」
言葉がしぼんでいく。リーンも分かっているのだ。あの鬼が、この街の治安維持隊程度ではどうしようもないことを。
ニケも唸りながら腕を組む。
(さすがにもう、レナさんはこの街にいないか? 渦大蛇(うずしお)の被害が消えたと思ったらこれか。……はあぁ、もう。山中に引きこもりたい)
やれやれと腕組みを解き、リーンを見上げる。
「ひとまず、神社に行ってキミカゲ翁を呼んできましょう。フリーが怪我していたら、死んでいない限り治してもらえますし」
「うっ、でも。キミカゲ様を巻き込むのは心苦しいんだが……」
目を逸らし胸元を握りしめる彼に、ニケはきょとんと首を傾げる。
「リーンさんには、フリーより大事なものがありますか?」
リーンは即答した。
「あるよ? ディドールさんとかディドールさんとか俺とか!」
ひゆううぅぅ……
この季節特有の生ぬるい風が、足元を通り過ぎていく。
「そうですか。僕には今、フリーしかいないんです」
それは、どういう意味だろうか。
自分を見上げる、何の感情も籠らない赤い瞳。
「……」
それを見たリーンは痛々しそうに、意識せず下唇を噛んでいた。
察してしまう。だってこの子も自分と同じだ。
家族がいない者の目。
ディドールになにかあれば、誰を犠牲にしようと、リーンはなにがなんでも救うだろう。
(ニケさんにとって、あいつはそんな存在だったのか……)
一度静かに瞬きすると、リーンは腹を括ったように腰に手を当てた。
「世話のかかる後輩だぜ。しっかたねぇなぁ。俺様が助けてやんねぇとな」
そう言って駆け出す。神社の方角に。
一瞬遅れてニケもついていく。
「足大丈夫ですか?」
「平気平気。ニケさんはキミカゲ様を。俺はある人物を。引きずってでも連れてくるってことで」
「? ある人物とは?」
リーンは強気に笑う。
「なに。強力な助っ人だ。ニケさんは気にせずキミカゲ様を探してくれ」
二つの影が、並んで神社に向かう。
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