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 僕の中に残っている最古の記憶は、裏路地の天井から覗く青い空を、訳もわからないままぼうっと見上げていたところから始まる。この当時の僕が覚えていることといえば自分の名前と六歳という自分の年齢だけ。  どうしてこんなところにいるのかも、今までどうやって生きてきたのかも、これからどうしたらいいのかもわからないまま、ただただぼうっとそこに在ることしかできずにいた。 「どうしたんだい、こんなところで」  そんな声が耳に響いて。  なんとなく声のした方へ視線を向けると、そこには随分人の良さそうな男が心配そうな表情を浮かべてこちらを見下ろしている。男はそのままあたふたと裏路地に入ってくると優しい手付きで僕のことを抱き上げた。  ふわり、と。少し苦い大人の匂いが鼻を撫でる。 「こんなに汚れちまって。……それに、この赤い染みは――」  服についた埃を払った男は、眉を顰めながら僕の服や頬を撫でた。その目にはどこか懐かしさのようなものが滲んでいたようにも思う。 「お前さん、行く宛がないなら俺と住むかい?」  どうしてこの時、殆ど悩むこともなく彼の言葉に頷いたのかはよく覚えていないけれど、幼い自分のこの決断を僕は今でも有り難く感じている。  当時の僕が頷いてくれたお陰で、僕には今があるのだから。  ◇ ◆ ◇ ◆  少し乾いた秋の風が屋敷の前の掃除に明け暮れている僕の前髪を弄ぶ。  首筋をしゅるりと空っ風に撫でられるたびにほんの少しだけ背中が震えた。思わず二の腕を擦りながら、そろそろ衣替えの時期かな、なんて考えつつ箒で葉を集める。 「最近随分と涼しくなってきたなぁ」  時は大正初期。  侍は消えて軍が生まれ、戦う男は刀を捨ててサーベルと銃を持ち、(まげ)は切り落とされて散切りになり、女は着物ではなくドレスやらワンピースやらなものを身に纏いながら家庭を飛び出し、社会の一員となり始めた頃。  僕、篠木(しのぎ)(みつる)は、東京に居を構える士族、織田(おだ)家に六年前から使用人として仕えていた。  士族――それは江戸時代に存在した旧武士階級をもつ者が(たまわ)ることのできる階級だ。僕が仕えているお家も例に漏れず、先祖は結構な領地を手にした有名な武将だったとか。  とはいえ、戦に生きるという生業を失った武士たちにとって士族という呼び名は殆ど自尊心を満たすためのものでしかなく、階級を持つことによる特権はない。そのため平民とそう変わらない日々を送る者も多いが、織田家の当主は自らの力で別の生業を見事に確立させた成功者だ。  それ故に織田家に対する世間一般的の認識は士族というよりも商家の方がしっくり来るだろう。織田家の現当主は、現代で成功者とされる華族にも負けず劣らないほどに裕福で立派なお屋敷に住まわれている。もちろん、住み込みの使用人である僕も。  まあそういう感じのお家に置いてもらえてるということもあり、それなりのお給金を頂きながら概ね満足のいく生活を送っているというのが今のところの僕の人生の大半だ。  六歳よりも前の記憶が殆ど何も残っていないことだけが未だに気がかりだけれど――まあ、そこまで大きな問題ではない。 「よし、こんなもんでいいかな。塵取、塵取っと」  そう言って振り向いた瞬間、空っ風がぶわりと拭いて、せっかく集めた落ち葉を舞い上げる。それどころか風が何処からか新しい落ち葉を連れてきたせいで、お屋敷の門前は掃除を始める前よりも激しく散らかった。 「……はぁ」  溜息を零しつつ今度はうっかり散らかされないよう塵取に葉を押し込みながら再び門前の掃除を開始すると、少し遠くからざりざりと草履が砂を蹴る音がした。音の方へ視線をやると黒い人影が視界の端でぐらりと揺らめく。  その人影は黒装束と灰色の袈裟(けさ)を身に纏い、頭には深編笠を被っていて、見た目の特徴だけを見て判断するのなら、いわゆる虚無僧(こむそう)というやつだった。  先に説明した通り織田家の屋敷は誰がどう見たって裕福だとわかるほどに立派で大きい。だからこそ、こうして僧が喜捨(きしゃ)を請いに来ることは特段珍しいことではないし、これと似たような光景などこのお屋敷に仕え続けた六年間で何度も見たことがある。  ただ――その虚無僧はどこか様子がおかしかった。  ふらふらとおぼつかない足取りと獣にでも噛み千切られたかのようにボロボロな裾。虚無僧の象徴である尺八ではなく真っ赤な扇子を持っていることがその存在の異質さを際立たせている。 「あの、お屋敷になにかご用ですか?」  僧が家屋を尋ねる用事など喜捨目的以外には考えられないだろうにと自分で思いつつ、恐る恐る近づいてそう声をかけた。  一方声を掛けられた虚無僧は肩をびくりと震わせた後、動かなくなる。  聞こえなかったのかな。  でも声をかけた時に肩が動いていたし。  なんて首を傾げつつ考えていたら深編笠が突然ぐるりとこちらを向いて、力強く腕を掴まれた。 「え――?」  ゆっくりと迫りくる笠越しに荒い息遣いが聞こえて二の腕に鋭い爪が食い込む。突き刺すような痛みに思わず視線を掴まれている腕に落とした瞬間、僕は息を呑んだ。  僕の腕に巻き付いていたのは、まるで獣のような、灰色の毛を纏った腕。その指先から伸びる鋭く長い爪は光を反射しないほどの漆黒を孕んでいる。   (なんだ、は)  目の前にいるのは、本当に人間なのか?  一体コイツはなのかなんて疑問が些末に思えるほど目の前に居るその存在は異質で、生きた人間であると飲み込むにはあまりに化け物じみている。  笠の向こうで繰り返される浅く激しい呼吸音は人間よりも犬の息遣いを彷彿とさせた。 「みつけた……ようやく見つけた」  辛うじて人語を喋っていることが救いかもしれない。小さく"見つけた"と繰り返すその真意はさっぱりわからないけれど、言語が通じるのならまだ対話が可能だろうから。  ともかく話し合いをしよう。仮に和解ができなかったとしても何かしら現状を突破する糸口が掴めるかも。  そう思い僕は深編笠を見上げるが、隙間から僕を見下ろすようにしている黄金色の瞳と視線がかち合った瞬間に心臓がどくりと高鳴って、なんとか吐き出そうとした二の句が喉の入口あたりでぎゅっと詰まった。  ……ダメだ。  本能が告げている。  は話が通じるような相手ではないと。 (逃げ、なきゃ)  得体の知れない虚無僧に拘束されている理由も、こいつの目的も、先程からブツブツと呟いている"見つけた"という言葉にどんな意味が込められているのかも皆目見当がつかない。  疑問がぐるぐると脳裏で渦巻く一方で、一体これからどうなってしまうのかが分からなくて、予想もできなくて、ただ不安と恐怖だけがじわりじわりと足元から登ってきた。  そもそも対話ができる相手だったのなら最初から対話が成立しているはずだ。大した声かけもなくいきなり人の腕を掴んで拘束するような相手は人間だろうがそれ以外のなにかだろうが危険に決まっているだろうに。取り返しのつかない状況になってからそれに気がつくなんてどれだけ平和ボケしているんだ、僕は。  逃げろと警告する本能に従ってなんとか虚無僧と距離を取ろうとするも、僕の腕を掴んでいる指先はぴくりとも動かない。  どうしよう。  一体どうしたら――?  浅い呼吸を繰り返す僕は只、まとまらない脳裏でぐるぐると考え事をしながら隙間から覗く金色の瞳に目を奪われていた。

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