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「わぷっ!?」  ふう、と息を吐く音がしたと思ったら目の前が白く霞んで、同時に嗅ぎ慣れた煙草の匂いがした。途端、僕の腕を掴んでいた虚無僧は手で煙を払いながら煩わしそうに離れていく。  握られていた腕がじんじんと熱を持って、止まっていた血が流れていくような感覚がした。  ふと横を見ると口に煙草を咥えた僕の主人――織田家当主である、(にしき)様が気怠そうに立っている。 「……旦那様」  射抜くような切れ長の目に、緩く弧を描いた口元。  殆ど四六時中吸っているせいか彼からはいつも煙草の匂いがする。勿論、今も。 「手の内ご無用。悪いがうちにゃ、僧に恵んでやれるような善人はいねぇんだ」  小さく笑った旦那様の口元から煙が漏れて僕の周囲を漂った。煙草には珍しく、胸焼けしそうになるぐらい甘い匂いがする。  不安と恐怖で騒ぐ心臓を必死に落ち着かせているとふいに旦那様が僕を背中に隠すようにして虚無僧の前に立った。 「欲しい物があるんなら他を当たんな。悪いがこいつは、大事なやつから預かってるんでね」  ……? 何の話だろう。  僕が旦那様の言葉の意味に首を傾げている間に、暫くその場に留まっていた虚無僧はやがてくるりと踵を返してどこかへと姿を消してしまった。  それを見送った僕はやっと息をちゃんと吸えるようになった気がして、深く安堵の息を吐く。するとそんな僕を見下ろして、旦那様がくつくつと笑った。 「お前は相変わらず鈍臭ェな」 「す、すみません」 「別に怒ってるわけじゃねェよ。……ん?」  ふと僕の顔を覗き込んだ旦那様が怪訝そうに眉をひそめる。 「おい、腕見せてみろ」 「え?」  彼に言われるまま腕を持ち上げると、虚無僧の腕が巻き付いていた部分の着物が破け、そこから覗く肌が浅黒く変色し痣のようになっていた。それだけではなく所々ついた引っかき傷からまん丸い血液がぷっくりと浮き上がっている。 「こりゃいけねぇな。手当すんぞ、来い」 「は、はい」  ゆるゆると手招きをした旦那様に続いて屋敷へ戻り、導かれるまま屋敷の廊下を歩いていると曲がり角から女性がひょっこりと顔を出した。 「あら、旦那様。相変わらず良い男ね」  その女性は二年と数ヶ月ほど前、織田家に嫁いできた女性で――旦那様と婚姻関係にある。つまるところが、この屋敷の奥方様だ。  奥方様は、旦那様の腕にぴったりと抱きついては誘うようにしてその身をくねらせる。  一方旦那様は面倒くさそうに顔をしかめて奥方様を振り払った。 「……お前は相変わらず姦しい女だな。今は忙しいんだ、どこかへ行っていろ。行くぞ、統」 「えっ、あ……」  大きな溜息を零した旦那様は僕の手を引いてずんずんと歩き出す。  ぽつんと残された奥方様は不満そうにぷくりと頬を膨らませて腕を組みながら僕たちを見送った。 「あの、旦那様。いいんですか……?」 「あの女のことを言っているんなら心配しなくて良い。端っから形だけの婚姻だ。あいつもそれを承知で嫁いてきたはずだからな」  僕がこの家に仕えるようになってから数年の間、旦那様はずっと独り身で結婚するつもりもないとご自身で仰っていた。  しかし、立派な屋敷を建てられるぐらいに商いを成功させている結婚適齢期の見目麗しい男性と来れば世の女性たちは放っておかないもので、織田家の家業が発展すればするほどに旦那様との関係を求めて屋敷を訪れる女性が跡を絶たなかったのだ。  旦那様はそれを面倒に思ったらしく、ある日、実家が太くてお金に困っていないであろう女性を嫁にもらうことにしたと僕に教えてくれて――それからすぐに今の奥方様と籍を入れた。  奥方様を迎え入れたことで確かに朝晩問わず女性が旦那様を訪ねてくることは減ったけれど、その代わりに毎晩奥方様が旦那様の部屋の扉を叩くようになったから、彼の思惑は成功とは言えないけれど。 「ほら、着いたぞ。入れ」  奥方様も殆ど入ったことのない旦那様の私室に一介の雑用係が入ってしまうことを申し訳なく思いつつ招かれるまま恐る恐る旦那様の部屋へ足を踏み入れる。  彼はそのまますたすたと壁際に設置されている棚に近付いていくと、木製の箱を取り出した。上面に十字のマークが印刷されているその箱から消毒液と包帯を手に取った旦那様は僕の腕の手当を始める。 「消毒するから少し沁みるぞ。我慢しろ」 「はい……」  煙草を咥えながら黙々と手当をしてくれる旦那様の様子をじいと見つつ、ふと、数分前に旦那様がぽつりと零した言葉が脳裏に浮かんだ。 「あの、旦那様」 「なんだ」 「大切な人から預かっているって、一体何の話ですか?」  あの虚無僧に向かって放った、彼の言葉が引っかかる。  僕がこの屋敷で働いている理由は簡単だ。  六年前、齢二桁になってすぐの頃、旦那様が「うちで働かないか」と僕を誘ったからだ。  成長するに連れて――世の不条理やら理やらを理解していくに連れて、僕はきっと両親もしくは近しい誰かの手によって路地裏に捨てられたのだろうとそう思っていたけれど、もし先程旦那様が零した「預かっている」という言葉が真実ならば……僕は何か理由があってここにいるのかもしれないし、六つより小さい頃の記憶がすっぽりと抜け落ちている理由も、その抜け落ちた記憶の中で僕がどういう人生を送っていたのかも分かるかもしれない。  そう思い、僕はできる限り真剣な面持ちをして旦那様を見上げる。  一方旦那様はと言うと、いつも通り気怠そうな表情を浮かべたままこちらをついと見やり――咥えていた煙草を指で摘むと、ふう、と息を吐いた。 「んぅ⁉」  彼の吐き出した煙は寸分の狂いもなくこちらへ向かってきて、それをしっかりと吸い込んでしまった僕は思いっきり噎せる。 「げほっ、けほっ。な、何するんですか!」  思わず抗議すると旦那様は悪戯っぽく喉の奥でクツクツと笑った。かと思ったら僕の頭を優しく数度撫でて、気怠げな足取りで仕事用のデスクにどっかりと座り、何も言うことなく仕事を始める。  ……教えてくれない、か。  こうなってしまったら旦那様は何も言ってくれないと長年の付き合いで理解していた僕は大人しく彼の部屋を出ていくことにした。  いや、そもそもあの言葉さえ僕の聞き間違いだったのかもしれないし。 「おい、統」 「はい? ――おわっ」  部屋のドアノブに手をかける直前に名前を呼ばれ、素直に振り向いた瞬間、目の前に四角い物体が飛んでくる。  なんとか飛んできた物体を受け止めて手のひらを覗き込むとそこには旦那様がいつも吸っている煙草の箱があった。一方、僕に煙草の空箱を投げて寄越した旦那様はというと、本当に鈍臭ェな、と笑って、つい先程までこの箱に入っていたであろう最後の一本に火を点ける。  彼はそのままもくりと煙を燻らせて襯衣(シャツ)(ボタン)を煩わしそうに二つ三つ外しつつ、こちらをちらりと見た。 「新しいやつ、買ってきてくれ」 「わ、わかりました」  本当にマイペースで謎なお方だ。  ……根が優しいことだけは確かなんだけど。  ぼんやりとそんなことを思いつつ僕は改めて旦那様の部屋を出て、お使いをするべく玄関へと続く廊下を進んだ。

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