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003
「嗚呼もう。せっかく色男の元へ嫁ぐことが出来たと思ったのに、あっちが使い物にならないんじゃあ、つまらないったら。いっそどこかで男でも引っ掛けて……ん?」
「――あっ」
しまった、逃げ遅れた。
そう思ったときにはもう遅く、廊下の角で彼女……奥方様とばったり目が合ってしまう。しかも結構気まずい独り言をしっかりと聞いてしまった。
いやいや、僕は何も聞いていない。うん、そういうことにしよう。
「アンタは確か……」
「み、統、です。どうも、奥方様」
必死に笑顔を貼り付けて挨拶をすると奥方様は頬に手を宛てがいながら、ふぅん、と零した。それからまるで品定めでもするようにして僕を上から下まで眺める。
「旦那様、いまお暇かしら?」
「え……あ、いえ、お仕事を始めてらしたので、お暇ではないかと……」
僕がそう言うと奥方様は不満そうに眉を下げて、あらそう、と零した。
不機嫌な様子を隠そうともしないまま腕を組んだ彼女はじろりと流し目で僕を見る。
「旦那様って、結婚前もこんなだったの?」
「こんな、というのは?」
「朴念仁と言うか、据え膳喰わず、というか。こんなに艶めかしい食べ頃の女を嫁にもらったっていうのにあの人ったら私に触るどころか私の目を見ることすら殆どないのよ。酷いと思わない?」
「は、はぁ……」
旦那様。聞いていた話と違います。
このお方、全然理解して嫁いできてませんけど。
めちゃくちゃあなたと普通のご夫婦になるつもりでいらしてますけど。
「形だけの結婚だなんて口だけだと思ってたのに。あの人と来たら、つまらないったらないわ」
奥方様は深く溜息を零し、かと思ったらつい、と僕に視線を向けた。
「ねェ、アンタ。なんとかしてくれない?」
「な、なにをですか……?」
「すっとぼけちゃって。私ね、今とっても誰かに抱いてもらいたい気分なの。でも旦那様は相手をしてくれないし。……だから、アンタで良いわ」
熱く纏わりつくような視線に思わずゾッとして、数歩後ずさった僕の手首を奥方様が掴む。彼女はそのまま真っ赤な紅が塗られた長い爪で僕の手首をカリカリと掻いた。
「アンタ顔は良いし。ほら、こんな綺麗な女を抱けるなんて男冥利に尽きると思わない?」
「そんな……旦那様の奥方様と、そんなことできませんよ」
「あら、お硬いのね。でも大丈夫よ。だってこれは形だけの婚姻なんでしょう? それなら私が誰と寝ようが関係ないはずだもの」
「そうじゃなくて……っ」
そもそも貴方を抱きたくない、ということなのだけど流石にそれは言えずに僕は思わず口ごもる。
奥方様は確かに世間一般で言えば綺麗な方なのだろうけれど、だからといって抱きたいという感情がイコールで繋がってくるわけではない。男が皆女性に対して邪な意識を持っていると思われるのは心外だ。
「力を抜いて。大丈夫よ、私が気持ちよくしてあげるから。ね?」
僕の胸元にぴったりと頬を寄せた奥方様は器用に僕の襯衣 の釦 を外しながら自分が着ているワンピースのチャックを下げる。
開 けた服の間からちらりと見えた彼女の白い肌は、今まさに男を喰わんとする牙の如くぎらりと光った。
「う、あ……ッ、やめ、やだ……っ」
襟の中をまさぐられて僕は思わず口元を覆う。
不快感と不安に駆られて胃がひっくり返ってしまいそうだ。
怖い。気持ち悪い。
仮に僕が声を上げたら旦那様はすっ飛んできてくれるだろう。でも、ギラついた女性を前にしてただ怯えることしかできない自分を見られるのも情けないし、ただでさえ多忙な旦那様の手を煩わせるのも申し訳ない。そもそも、ちゃんと断りも出来ず第三者に助けを求めるなんて男として如何なものか。
しかし一体どうしたらこの状況を打破できるのかはわからない。もはや大人しく受け入れるしか無いのだろうか。
そうしてぐるぐると脳内で考えているうちにも時間は進む。
「――ッ、」
奥方様の指先が袴の隙間にぬるりと滑り込んできたその瞬間。
ぱりん、と派手な音を立てて、壁に飾られていた丸い鏡に亀裂が入った。
「えっ?」
誰も触れていないはずの鏡が、独りでに割れる。
この衝撃はあまりにも大きかったようで随分押し気味だった奥方様はサァッと顔を青くし、僕を置いてバタバタとどこかへ逃げていった。
「た、助かった……」
一方残された僕は深く息を零しながら力なく鏡に近づき、鏡面を眺める。確かに鏡が勝手に割れるなんて少し気味が悪く感じるけれども、古来鏡は悪いものを跳ね返す道具とされている。
鏡が割れた時は持ち主に及ぶ不幸を代わりに吸い取ってくれたという考えもあるそうだ。
もしかしたら僕の代わりに……なんて思ってしまって小さく笑いつつ、主人の配偶者を不幸呼ばわりしてしまったことに罪悪感が擡げる。
「早くお使いに行かなきゃ」
からからになった喉を撫でながら鏡を離れる瞬間、鏡の中を――正確には僕の背後を、何かが通り過ぎていったような気がした。
慌てて振り返ると廊下の奥にひっそりと佇んでいる暗闇と目が合う。
「……気の所為、だよね」
仮に本当に動いたんだとしてもきっとネズミか何かだ。そうして自分を納得させた僕はほんの少しだけひやりとする背中を意識しないようにしながら、足早に屋敷を出た。
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