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 屋敷を出て少し歩くと、次第に人々のざわめきと一緒に電車の走る音が聞こえてくる。  時は大正――東京は銀座。  僕が暮らしているこの場所は日本の中心、ど真ん中だ。  煉瓦で作られた建物、黒煙を燻らせながら走る自動車、上空に張り巡らされた蜘蛛の糸のようなケーブルを頼りにガタゴトと歌いながら走る路面電車。  街往く人々はみな着物やら洋服やら、それらを合わせたものやら、思い思いの服に身を包み、軽やかな足取りで銀座の街を闊歩している。  路面電車に轢かれないよう注意しつつ舗装された道を進み、電車通りを抜けて商店街へ入ると一番手前に古びた煙草屋の看板が見えてきた。僕はそのまま煙草屋の前で足を止め、少し高めのカウンターをこんこん、と指で叩く。  するとカウンターに背を向けて食い入るように新聞を眺めていた煙草屋の店主がゆったりとした動きでこちらに振り向いた。  かと思ったら店主はにかりと人のいい笑顔を浮かべる。 「よう、みつ坊。奉公は頑張ってるか?」 「ぼちぼちかな。今日はお使いに来たんだ。いつもの銘柄ちょうだい――父さん」  旦那様から預かった煙草の箱を見せると彼はようやっと立ち上がって、老眼鏡をかけながらじいと箱を見つめたあと、背後の棚に所狭しと並べられている煙草を端から端まで眺めて同じ銘柄のものを探し始めた。  僕には、父と呼べる人が二人いる。  一人は記憶にない、恐らく僕を路地裏へ捨てたであろう血の繋がった父。もう一人は――十年前、路地裏で僕を拾って育ててくれた煙草屋の店主、夜方(やがた)正義(まさよし)だ。 「ちょっとだけ待ってろよ。この飴ちゃんでも食いながらな」  そう言ってカウンターにキヤラメル(キャラメル)を置いた店主――父さんは笑いジワが残る目元を緩く細める。 「父さん、僕もう子供じゃないんだよ。いい加減、来るたびにお菓子を寄越すのやめてってば」 「なに言ってんだ。俺にとっちゃいつまでも可愛い小さな息子のまんまだよ」  見慣れた笑顔を少し気恥ずかしく思いつつもキヤラメル(キャラメル)を銀紙から取り出して口に放り込む。じゅわりと少し油こい甘みが口の中に広がった。 「ん、美味しい」 「そうかい。そりゃ良かった」  舌の上でころころとキヤラメル(キャラメル)を転がしながら頬杖をついて父さんの背中を眺める。  ――僕を救ってくれた恩人の背中は、十年前と変わらず大きくて。思わず笑みが溢れた。 「ねえ、父さん。いい加減、仕送り受け取ってよ。僕これでも結構お給金貰ってるんだよ?」 「馬鹿言え。どこの世界に子供から金を受け取る親が居るってんだ。俺ァ食い扶持を自分で稼ぐようになってもう三十年以上経つんだよ。お前みたいなガキんちょに援助してもらうほど情けない人生は送ってねぇっつーの」 「援助なんて……。僕は父さんに恩返しがしたいだけなのに。そのために奉公してるんだよ」  今から六年前。父と二人でひっそりと暮らしていた僕の元へ旦那様が訪ねてきて、あまり感情の読み取れない顔で、僕に織田家へ住み込みで奉公に来るよう言った。  当時の織田家はまだ今の場所へ越してきたばかりな上に、使用人はずっと昔から努めている年配女性のみだったため人手を探して父の元を訪ねてきたらしい。なんでも織田家はずっと昔から父の店で決まった銘柄の煙草を仕入れているらしく旧知の仲なんだとか。 「自分で言うのもなんだがうちは結構裕福でな。そのせいで色んな人間が群がってくる。内部に裏切り者が出ないよう使用人は出来るだけ信用できる人間で固めるようにしてンだ。……長年取引をしている煙草屋の息子なら、信用できるんでね。アンタの息子、俺に預けちゃくれねェか」  最初父は反対していたが、その後も何日かに分けて旦那様に説得され、更には僕が自分から奉公に行きたいと言い出したのがきっかけで渋々ながらも僕のことを送り出してくれて、現在に至るというわけだ。 「親に恩返しがしたいってんなら、自分で稼いだ金は自分のために使いな。子供が幸せに、元気で暮らしてくれんのが親にとっちゃ一番の恩返しなんだよ」 「父さん……」  父には血の繋がった息子さんと愛する奥さんが居たらしい。  らしい、という言い方になってしまうのは、僕は写真越しにしか彼らと会ったことがないからだ。  僕を拾う十年前の冬、実の息子さんと奥さんは里帰りのため列車に乗って出掛け――そのまま列車事故に巻き込まれて、帰らぬ人となった。店番をするため一人留守番をしていた彼にその報せが届いた頃にはもう列車は業火に包まれて殆どが焼け落ちており、結局亡骸と対面することすら叶わなかったという。  僕が奉公にいくと決まったその日の夜に父がぽつぽつと話してくれたその話も、泣き出しそうな顔で話す父の顔も、未だに忘れられない。 「それから、たまの休みには帰ってこいよ。実家で羽根を伸ばすのも良いもんだぜ」 「うん、わかってるよ」  父は煙草を探している間こうして世間話をしたがるから、注文した煙草が出てくるまでに数分かかるなんてこともざらだ。電車すら急いでいるこの大正という時代の中では、そのマイペースなのんびりとした雰囲気はどうやら民衆の期待にはそぐわないようで自分以外の誰かがこの店で買い物しているのをあまり見たことがない。  ……が、煙草屋の稼ぎだけで自分をここまで何不自由なく育ててくれたことを考えると、織田家のように他にも得意先がいくつもあってちゃんと利益は発生しているのだろう。 「ところで、その右腕どうしたんだ? 怪我か?」 「あ……うん、仕事中に引っ掛けちゃって」 「そうか、気をつけろよ。お前は昔っからおっちょこちょいだからなぁ。覚えてるか? ガキん時、木の上に登ろうとして頭っから落ちてきてよぉ。あの時は本当に焦ったぜ」 「もう。いつの話してるのさ、父さん」  父に不満を込めた視線を向けるが彼は、かかか、と笑うだけだ。  このままではまた昔話が始まってしまうかもと思った僕はつい先程まで父が読んでいた新聞に人差し指を向ける。 「そういえば、それ、なにか面白い記事あった?」 「ん? ああ、新聞か。まあ、大して変わり映えしねぇ内容ばっかだな。今日の目玉は動物園で象の赤ん坊が生まれたって記事だったよ」  平和でいいわな、と続けた彼は何かを思い出したかのように、そうそう、と零しこちらに少しだけ振り向いた。 「新聞には載ってないが奇妙な噂なら知ってるぜ。どうやら最近怪しい虚無僧がこの辺を彷徨(うろつ)いてるらしい。なんでも虚無僧のくせに尺八じゃなくて真っ赤な扇子を持ってて、ずぅっと何かを探してるみたいにふらふら街を歩いてるんだと」 「……!」  その言葉に思わず固まった。  脳裏に浮かぶのは、つい数時間前に遭遇したばかりの、あの気味の悪い虚無僧。僕が右腕に包帯を巻くことになった原因そのもの。ぶり返してきた恐怖に負けないよう心臓のあたりをぎゅうと掴むとタイミング良くこちらに振り向いた父が訝しげに眉をひそめる。 「みつ坊、どうした? ……もしかして、遭ったのか? その虚無僧に」 「ああ、いや。そういうんじゃないけど。ただなんか、寒気がして。風邪でも引いちゃったかな」  つい咄嗟に誤魔化してしまった。  だけど父を心配させたくはないし、今更訂正する気にはならない。 「そうか……いや、何もないなら良いんだ。なにやら最近物騒な事件が多いらしいから、みつ坊も気をつけろよ」  はいよ、と言って父が煙草の箱を差し出す。一つは僕が持ってきた空っぽの箱、もう一つはラベルに包まれた未開封の箱。朱と金で装飾された高級そうな箱がカウンターの上に二つ並んだ。  そういえばこの煙草、他の煙草屋では見たことないな。  どこかから特注で仕入れているものなのだろうか。 「ああ、気をつけるよ。それじゃあ」 「おっとそうだ。ちょいと待ちな、みつ坊」  箱を二つ受け取って立ち去ろうとした僕を呼び止めた父はどこからか取り出した小さな包みを僕に差し出す。 「十六歳の誕生日おめでとう。統」 「え?」  突然のことに思わずぽかんとしていると、父が大口を開けて笑った。かと思ったら少し眉を下げながら店の中にかけてあるカレンダーをとんとんと指で叩く。  それを見てやっと、なるほど確かに、そういえば今日は誕生日だったと思い出した。まあその日付は正確に言えば僕の誕生日ではなく、彼が僕を拾ってくれた日なのだけど。僕は自分の誕生日すら覚えていなかったから。 「……すっかり忘れてたよ」 「だと思った。仕事に夢中なのはいいが、働きすぎは体に毒だぜ」  父から包みを受け取って開くと、そこには梟がデザインされた金属製の栞が入っていた。ずっしりとして高級感のある立派な作りだ。 「俺ァな、この日になるといつも神様ってやつに感謝するんだ。十六年前まではまさか、また子供の誕生日を祝えるようになるなんて思ってもみなかったからな」  そう言って父は目を細める。  彼の脳裏には、亡くなった家族が浮かんでいるのかもしれない。   「さ、そろそろ行きな。あんまり遅くなると旦那様に怒られちまうんじゃないか?」 「旦那様がそんなことで怒らないって父さんが一番良く知ってるくせに、もう。……じゃあ、またね、父さん。次のまとまった休みには帰るよ」 「おう。気をつけて帰るんだぞ」  親指を立ててニカリと笑った父に見送られつつ、僕は煙草屋を後にするのだった。

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