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 せっかく立派な栞を貰ったんだし、次の休みには実家へ帰る道中で新しい本を買いに行こう。それから父へのお土産も。そんなことを考えながらいつも通り、屋敷へ戻るための近道である路地裏に潜り込んだその瞬間だった。 「みィつけたァ」 「――?!」  そんな声が聞こえて。  かと思ったら視界がぐるりと廻る。  背中にはひんやりとした地面の温度が触れて、目の前には逆光を浴びる深編笠があった。笠の向こうからは聞き覚えのある荒い呼吸音が聞こえてくる。 「お、お前は……」  虚無僧は馬乗りになったまま僕の両手首をがっしりと掴み、笠を被った顔を僕に近づけた。そのまま荒い呼吸を繰り返しつつ僕の身体を上から下まで舐めるように顔を擦り付ける。  ……どうやら匂いを嗅がれているらしい。 「な、なにするんだ! 離せっ!」  本当に犬みたいだなと思いつつ、なんとか拘束から抜け出そうと藻掻くけれど相変わらず力が強すぎてびくともしない。それどころか暴れたら暴れただけ手首に巻き付く力は強くなった。 「嗚呼。ようやっと二人きりで逢えたなァ、御前様(おまえさま)」  笠の向こうからじゅるり、と唾液を啜るような音がする。  そういえば先程会った時も"見つけた"と言っていたような。 「お前……やっぱり僕を探して……? 何のために――ッ⁉」  腰が浮くような感覚が背中から脳髄までを駆け上がって、びくり、と腰が跳ねる。  なにかと思い視線を下げると虚無僧は僕の上に跨りながら、自分の下腹部を僕自身にずりずりと擦りつけているようだった。 「やっと。やっとだ。嗚呼、どれだけこの時を待ち望んだことか。さァ、さァ。早う(われ)に触れてくれ。さァ、早く」 「待っ、やめろ! 離しっ、あッ、んぅ……っ!」  何が起こっているのかわからない。  どうして僕は突然路地裏で得体の知れない虚無僧に、下半身を擦りつけられているのか。  一体なんなんだ今日は。  奥方様に襲われかけたと思ったら今度は得体の知れない虚無僧か。厄日にも程があるだろう。  脳みそはぐるぐると混乱して心臓は恐怖で早鐘を打つのに、身体は正直なもので虚無僧の熱く硬いそれが僕自身を擦るたびに腰やら背中やらが跳ねる。感情がぐちゃぐちゃで頭が弾け飛んでしまいそうだ。 「嗚呼、今生の御前様は酷く初いのう。それもまた良いのだが。何も知らぬ御前様に吾が手取り足取り、たっぷり心地よいことを教えてやろう」 「何を言って……っん、うぐッ」  喉から甘い声が出そうになり、必死に唇を噛む。  怖い、逃げ出したい。だけど同時に、時折全身を駆け回る甘い痺れに溺れてしまいそうになる。 「やっ、やだ……ッ、やめ、ろぉ……っ」  ダメだ。――これ以上は。  戻ってこられなくなってしまう。  どうにか、しないと。 「みつ坊!」  意識が飛びそうになった瞬間に路地の向こう側から聞き慣れた声がして、身体にのし掛かっていた重さがフッとなくなった。 「おい、みつ坊! しっかりしろ! 大丈夫か⁉」  力なく地面に突っ伏した僕の顔を慌てて駆け寄ってきた夜方さんが覗き込む。視界の端っこであの虚無僧がひらりと軽い足取りで建物の屋根の上に消えていくのが見えた。 「とう……さん……?」 「ったく、言った先から事件に巻き込まれやがって! 心臓が止まるかと思ったぞ!」  そう言う彼の手には恐らく近場で拾ったのであろう角材が握られている。父の顔を見ているうちに段々と意識がはっきりしてきた。  ぼんやりとした視界と考えを振り払うように何度か首を振ってから深く息を吐く。 「えと……ありがとう、父さん……助かったよ」 「そりゃ良かったけどよ。ただでさえ老い先短いオッサンの寿命をこれ以上削らないでくれ」 「あはは、ごめんごめん」  そう言って笑うとようやく父は安心したように少しだけ微笑んだ。差し出されたその手を借りながらふらつきつつ立ち上がる。 「さっきのはもしかして、噂になってる虚無僧か……? みつ坊、どっか怪我したりしてねぇか?」  心配そうに僕の周りをぐるぐる回って傷がないかを確認する父。その視線がなんだか少しだけ擽ったくて、僕は笑いながら小さく首を振った。 「平気だよ。倒された時にちょっと背中を打ったくらい」 「そうか? ……それならいいけどよ」  目視で確認した限りは怪我が増えていないことに安堵したらしい父は、やっと肩の力を抜いて、ふう、と深く息を吐く。 「ところで父さん、何でこんなところに? 店は?」 「ああ……小腹が空いたんでちょっくら飯でも食おうと思って歩いてたんだよ。そしたら路地裏から揉めるような声が聞こえて、覗いたらみつ坊が怪しいやつに襲われてるのが見えたってわけだ。そっからは無我夢中でよ。反撃されなくて助かったぜ」  本当に助かったのはこちらだ。  もし彼が通りかかっていなかったら。  誰にも助けてもらえず、あのまま襲われ続けていたら。  そう考えるだけでゾッとする。 「また襲われたら敵わねぇからな。屋敷まで送ってやるぜ、みつ坊」 「え? でも、」 「良いから良いから。ほら行くぞ。最近落ち着いて話す機会もなかったろ。もうちょっとぐらい息子と一緒にいたい親心わかってくれや」 「……はいはい」  正直願ってもない申し出だった。  を有り難く思いつつ二人並んで夕暮れの街を歩く。  普段ならば美しいと感じるその景色も今日ばかりは薄気味悪く、かつ不安定に感じた。次いつあの虚無僧に襲われるかわからないという不安を夕日がじりじりと逆撫でする。 「それにしてもあの虚無僧はなんでみつ坊を襲ったんだろうな。たまたま無差別的に狙ったのか、それとも何か意図があったのか。なあ、あいつ、なにか言ってたか?」 「え? ええと……」  逃げ出そうとするのに必死であまり内容は覚えてないけど……確かにあいつは僕を探していたらしいことを言っていた。  思えば最初に会ったときも似たようなことを零していたし。 「言っていることの意味は大半わからなかったけど、口ぶりからして多分、僕を探してたみたい。見つけた、って言ってたし」 「そうか……あいつに見覚えあるのか? 仕事の関係で会ったとか、お使いの途中で話をしたとか」 「あんな危ない知り合いは居ないよ……」 「まあ、そうだよな」  ううむ、と顎に手を添えて考え込んだ父はそれから数秒後、あ、と声を上げる。が、何も言わないまま黙り込んでしまった。 「なに、父さん? なにか思いついた?」 「ああいや。もしかしたらお前が六つより若い頃の関係者かもしれねぇと思ってな。お前、まだガキん時の記憶戻ってないんだろ?」 「……そっか。その可能性もあるのか」  小さい頃の記憶なんて大人になればなるほど薄れていくものだ。全くないというのは多少特殊かもしれないけれど、普通の人でも殆ど覚えていないのはそこまで不思議なことではないだろう。だからこそ今まで僕は記憶がないからと言って何か不自由を感じることもなく至って普通に過ごしてきた。  故に、その可能性を考えることはなかったのだ。 「だとしても結局あいつが誰なのかは分からずじまいだよ。記憶がないんだから」 「そりゃそうだけどよ。ちょっとでも記憶が戻れば襲われた理由がわかって、何かしら対策ができると思ったんだがな。難しいか……」  難しい顔をしながら父が腕組をしたところで屋敷の門が視界に入ってきた。門の前に誰も居ないことを確認した僕は、ほっと胸を撫で下ろす。 「よし着いたな。もしまた次街に出る時は十分気をつけて歩けよ。なんなら俺が迎えに来てやるからよ」 「流石に過保護過ぎだって。ちゃんと気をつけるから大丈夫だよ。ありがとう、父さん。またね」  豪快に手を振りながら帰っていく父を見送った僕は未だ少し不安で煩くする心臓を抱えながら屋敷の玄関を潜った。するとちょうど玄関前を通り過ぎようとしていた旦那様と目が合う。 「旦那様。ただいま戻りました」 「ん。おかえり、統」  彼はそう言いながら手のひらをこちらに差し出した。  ……?  この差し出された手には一体どう反応したら良いんだろう。そう一瞬悩んだけれどすぐにピンときた僕は、彼の手のひらの上に買ってきた煙草の箱を置く。 「はい、どうぞ。お待たせしました」 「……おう」  あれ? 表情がどこか不満そうに見えるような。違ったかな。  いや、気の所為か。 「じゃあ僕、仕事に戻りますね」  さてと、もう夕方だしあとは庭の掃除をして湯浴みの用意をして……他にやること何かあったかな。なんて考え事をしながら廊下に上がって旦那様の横を通り抜けようとすると彼は、おい、と僕を呼び止める。 「こっち向け」 「ん? どうしました、旦那様……わぶっ⁉」  振り向いた瞬間、視界がもやりと霞んだ。  いつもの甘い匂いがして彼の煙草の匂いが気管の奥にこびりつく。甘い匂いを感じたというだけで甘味を食べたような気になるのが人間の不思議なところだ。 「ん、ぅ……な、なにするんですか、旦那様」 「んー。厄除け」  そう言って笑った旦那様は僕の前髪を指先でさらりと弄って、目を細める。 「統。明日から一週間、屋敷から出るんじゃねェぞ」 「え? ど、どうしてです?」 「良いから。とにかく出るな。何があってもだ。わかったか」 「わ、わかりました」  わけも分からず頷いた僕を見て旦那様は満足そうに頷き、廊下を歩いていった。  一方残された僕はと言うと。 「甘い……」  じわりと残された甘い香りを吸い込みながら一人勝手にごちるのだった。

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