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006

 その三日後、旦那様は朝早く屋敷を出かけていった。  何やら重要な仕事があるとかで数日帰らないらしい。  僕はと言うと先日彼から告げられた「家から出るな」という言いつけを守って朝からずっと屋敷に引き篭もり、他にすることもないのでとりあえず掃除を進めている。 「屋敷から出るな、かぁ」  旦那様からそう命じられることは過去にも何度かあった。昔はその言われるたび彼に理由を聞いたけれど、今日(こんにち)まで僕を家に隠すようにするその理由を教えてもらえたことはない。  旦那様のことだから何か考えあってのことなんだろうけど、その理由を頑なに隠されてしまうと寂しく感じる部分もある。 「……ん?」  掃除の手を止めてつい考え込んでしまっていたその時、屋敷の庭に植えてある藪のなかで何かがキラリと光った。  その光るは柔らかな朝日を浴びながら藪の中をくねくねと動いている。貴金属でも落ちているのかと思ったが違う……あの動きは、間違いなく生き物だろう。 「首輪をつけた犬でも迷い込んでるのかな」   もしそうだとしたら元の場所へ返してやらなきゃ。  そう思った僕は手に持っていた箒をその辺に立て掛けて、今も小さく揺れ続けている藪をそうっと掻き分けた。だけどそこにいたのは予想した犬でも、ましてや野良猫でもなく――。 「百足(むかで)……?」  真っ赤な身体に人間の手と同じくらいの長い胴体という部分だけを見れば少し大きな虫ぐらいに思っただろう。  しかしその生き物は全身に鱗を纏っていて、鱗の隙間からは木漏れ日のように金剛色が輝いていた。そして特徴的なのはちょこんとくっついた四本の腕と、顔の横からぴんと伸びた耳のような部分。  時折しゅうしゅうと音を出しながら地を這うように動くそれは、虫というより蛇の要素が強いように見えた。  でも、普通の蛇にはないはずの腕と耳があることを考えると蛇とも断言し難い。非現実的なことを言うのなら"小さな龍"という呼び方が一番しっくり来るような見た目だ。  どうやらこの世にはまだ自分の知らない生き物が沢山いるらしい。 「ははっ。お前、格好いいなぁ」  思わずそう零すと、見つかったことに驚いたのかあたふたとあちこちを行ったり来たりしていたその蛇はピタリと動きを止めて、こちらをじいと見上げる。  くいと首を傾げては舌を出し入れするその様子は、なんだかとても可愛らしい。 「お前が噛まないって言うなら、屋敷の外まで連れて行ってあげるよ。約束できるかい?」  そう尋ねたら蛇は目を細めて顔を数回縦に振った。  言葉が通じた? ……いや、まさか。  動物と心を通じ合わせるなんて無論不可能に決まっている。  同じ種族の人間同士でさえ相手のことなど数ミリも理解らないのに、共通の言語を持たない生き物との意思疎通なんて出来るはずがないのだ。  ……だけど。 「ほら、おいで」  なんだか気持ちが通じてしまったような気がした僕は、ゆっくりとその蛇に向かって手を差し出していた。  もしこの蛇が人間を殺すことが出来る毒蛇だったらどうするつもりなのか、と自分で自分に問いかけつつも一度差し出してしまった手前、引っ込めることも出来ないまま蛇の動向を伺う。  動物相手にすら気を遣ってしまうなんて我ながら難儀な性格だ。 「ちょっと、アンタ」  おずおずとした様子で蛇が僕の手に向かって進んだその瞬間、背後からそんな声を掛けられた。振り向くと不満そうに眉をひそめ、腕を組んで仁王立ちをした奥方様と目が合う。 「え、あ、はい。どうしましたか、奥方様」  すると彼女は僕を睨みつけるようにすると紙のようなものを僕に向かって押し付けた。受け取って紙面を見ると何やら品物がずらりと書き連ねられている。  食品や日用品だけではなく、装飾品や酒などの嗜好品まで様々だ。 「それ、買ってきて頂戴」 「えっ? こ、これを全部ですか……?」  思わず僕がそう尋ねると奥方様は更に眉を鋭く顰めて、こちらをぎろりと睨む。 「なに? 文句あるの?」 「あ、いえ、その……」  この紙に書かれている品物を全て集めるにはかなりの数の店を梯子しなければいけない。今はまだ商店が開店したばかりの時間帯だがこれを全部集めるとなると、終わる頃にはすっかりお天道様が西側に傾いてしまっているだろう。 「僕、今日は旦那様から屋敷から出ないように申し使っておりまして……」 「そんなの関係ないわ。旦那様が留守で居ない間、この屋敷の主人は私だもの。良いから早く行って」  この間迫ってきた時とはかなり違う冷たい態度になんとなく察した。どうやら僕は彼女から嫌われてしまったようである、と。  ――結局。  僕は今、庭を掃除するための箒を手放し、品物が書き連ねられている紙を手に銀座の街をあちこち駆け回っていた。  彼女の言う通り旦那様が不在の間、あの屋敷で一番高い位に鎮座しているのは奥方様だ。一介の使用人である僕に、彼女へ意見するだけの力はない。 「はあ……」  深いため息と共にもはや何件目かもわからない店に足を踏み入れようとした瞬間、ねじり鉢巻を巻いて勇ましく腕捲くりをし、斧やら鍬やらを持った集団が店の脇をドタバタと駆け抜けていった。  あまりにも切羽詰まった様子だったので思わずその集団を凝視してしまう。すると鬼の形相をしたその人達はふと目が合った僕にずいと詰め寄ってきた。 「おい、アンタ! 怪しい虚無僧、見なかったか?」  彼らが言っているのは数日前、僕を襲ったあの不気味な虚無僧のことだろう。  あれが銀座の街に現れてからというものその噂は瞬く間に広がり、今やあの虚無僧は退治すべき人ならざるものと掲げられている。見ての通りこうして自警団まで立ち上がり、人々は虚無僧が退治されるのを心待ちにしているような状態だ。  街往く人々の噂話を盗み聞きしただけの情報ではあるが、どうやら僕だけではなくあの虚無僧に襲われた人間は複数存在するらしい。その被害はどれも虚無僧に引っ掻かれただの蹴られただのばかりで僕のように卑猥な意味で襲われた人間はいないようだけれど。 「え、あ、いえ。見てませんが」 「そうか。この辺はよく出没するらしいからな。気をつけろよ!」  そう言って自警団たちは爽やかな笑顔と共に去っていった。  あんな屈強な男たちに追われて、あの虚無僧、可哀想だな……。  思わずぼんやりとそう考えてしまい僕はハッとして首を振る。あんな可笑しなやつに肩入れする必要はないはずだ。  なんなら僕も被害者の一人なわけだし、あの自警団を応援するべき立場なんだから。 「……早く買い物して帰らなきゃ」  考えを振り払い、改めて店に足を踏み入れた僕は品物が羅列している紙とにらめっこしながら必要な商品を手に取る。  またあの虚無僧に遭遇して襲われでもしたら敵わない。さっさと用事を終わらせて旦那様の言いつけの通り屋敷に戻らないと。  だって。  ……だってもし再びあれと遭遇して、前回は味わうことができなかったその先を知ってしまったら、僕はもう――。 「お客さん、顔が赤いけど大丈夫かい?」  ふと店の主人がそう言いながら僕の顔を覗き込む。  店主に、大丈夫です、と震える声で返した僕は必要なものを購入してそそくさと店を出るのだった。

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