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007

「えっと次の店は……」  今は仕事に集中しよう。そうしたら考える必要もないはずだ。  そう思いつつ奥方様から預かった紙を手に曲がり角を曲がったその瞬間。  きゃいん、と犬の悲鳴のようなものが聞こえた。 「……?」  どこからか聞こえてきた悲鳴に心臓がきゅっと縮む。  まるでこの世で一番大切なものを傷つけられたかのような痛みに僕は思わず首を傾げた。どうしてこんなに苦しく感じるのか分からず混乱していると再び、きゅん、とか細い悲鳴が聞こえる。  またしても心臓が縮まって、僕は手に持っていた品物を放り出しわけもわからないままその悲鳴を探して駆け出した。  そうして探すこと数分後。  数日前、僕が虚無僧に襲われたあの裏路地で、今度は虚無僧が屈強な男たちに囲まれて地面に膝混付(ひざまづ)いているのを発見する。 「バケモノが! この街から出ていけ!」  一人の男がそう言って角材を虚無僧に振り下ろした。ばし、と痛そうな音と一緒に喉の奥から絞り出すような悲鳴が深編笠の向こうから滲み出る。  虚無僧は数度うめき声をあげた後、小さく震えながら壁際にずりずりと後ずさった。  その姿はあまりにも弱々しくて儚い。今にでも消えてしまいそうなぐらいに。  一方、虚無僧を取り囲んでいる自警団たちは今にでも斧やら鎌やら鍬やらを振り下ろさんと目をぎらぎらさせていた。  あのまま放っておいたら、虚無僧の死が明日の朝刊の目玉を飾ることだろう。それはきっと被害者である僕にとっても喜ばしいことであるはずだ。――それなのに。 (心臓が痛い)  あの虚無僧の死に様を想像するだけで心臓が喚いて、心が痛みを訴えている。怖い思いをしたはずなのに心の何処かであの虚無僧に情を感じている。  ……そんなはず、ないのに。  あいつが殺されようと僕には関係ないはずなのに。 「誰か助けてくれ! 殺される!」  何を思ったのか僕は気がついたら物陰に隠れて震える声でそう叫んでいた。  すると思惑通り正義感の強い自警団員たちは一斉にくるりと振り向いてその声がどこから発されたのかを探すように周囲を見渡す。瞬間、壁際に追い詰められていた虚無僧はすっくと立ち上がって、数日前と同じように軽やかな身のこなしで屋根の上に逃げていった。 「あ、待て! くそ、とりあえず声の主を探して助けに行くぞ!」  僕が作り上げた架空の困り人を探すべく自警団はバタバタと路地裏を出ていき――それを見送った僕は物陰からするりと路地裏へ移動し、屋根の上を見上げる。 「いるんだろ。出て来いよ」  一人残された路地でそう呟くと、屋根の上からひょこりと深編笠が顔を出した。彼はそのままふわりと裾を靡かせながら僕の前に降りてくる。  元からぼろぼろだった着物は更に薄汚れて、破れた袈裟の隙間から見える毛がびっしりと生えた皮膚からはじわりと血が滲んでいた。 「……お前は何なんだ。一体、何が目的でここに居るんだ」  虚無僧はゆらゆらと所在なさげに揺れながらじいと僕を見つめる。  逃げるべきなのに。  相手をしない方がいいはずなのに。 「どうして僕は……お前を、見捨てられないんだ」  虚無僧を前にした僕は謎の高揚感と好奇心に駆られるままそう尋ねていた。一方虚無僧は僕の問いに暫し沈黙を返した後、ゆっくりと深編笠を脱ぐ。 「――!」  笠の奥に居たのは、二足歩行の獣だった。  大きくぴんと立った耳。  灰色の毛で覆われた身体と顔。  長い鼻先と鋭い牙。  漆黒の中にぼんやりと浮かぶ金色の瞳。  その姿はまさに人々が思い描くような人ならざるもの……モノノ怪そのものであった。 「吾は犬神。人に憑き、その生命を糧に存在するもの」  そう言うと虚無僧は時折ぴくぴくと耳先を動かしながら安堵したように口元を緩ませた。 「いぬ、がみ……」  聞いたことはある。  犬神というのは人ならざるもの、つまり怪異で、それに憑かれた家はどんどん没落していき終いには一族を滅ぼすという。蠱毒などと同じく呪術の一種のはずだ。 「そして御前様は、吾の宿主だ」 「……え?」  ぐい、と腕を引かれて。  ぬるりと生ぬるい温度が唇を這う。  背中に回った手がまるで愛おしい人の感触を確かめるかのように腰を優しく撫でた。 「――んッ⁉」  腰を撫でていた手はそのまま伝うように下へ降りていって、着物越しに僕自身に優しく触れる。身じろぎをするも、しっかりと身体を抱きしめられていて逃げるのは叶わなかった。 「んう、っは、あぐ……ッ」  舌を(ねぶ)られる感触と自身を柔く扱かれる快感に目の前がちかちかする。  怖くて、恐ろしくて、本来ならば全力で暴れて逃げるべきなのに身体は彼の体温を求めてびくびくと跳ねた。 「嗚呼、良かった。本当に。御前様は、御前様なのだな。ちゃんとこの奥に御前様が残っているのだな」  彼はそう言いながら僕の左胸のあたりを優しく撫でる。 「な、何を言って……」 「御前様。好きだ。ずっとこうしたかった。吾を受け入れてくれ」  どうして否と言えない?  彼に求められていることが酷く嬉しくて、心地よくて。  混じり合って一つになってしまいたいと思うほどその存在が愛おしくてたまらない。  だって今も身体は抵抗を諦めて、口吸いの余韻に溺れながらゆっくりと地面に押し倒されることを是としている。 (僕の身に何が起こっている?)  まるで自分の中に知らないもう一人の自分がいるようだ。  自分の気持ちがわからない。  どうしてこんなにも目の前の存在を欲しているのか、わからない。 「っは、あッ。御前様が欲しい。吾に、挿れてくれ。御前様の全てをおくれ」  頬を上気させた彼は僕の唇を貪りながらぐいと袴をずりおろして、僕自身に秘部を擦り寄せた。  くちくちと厭らしい水音が鼓膜を撫でるたびに自身が快楽を求めて脈打つ。  嫌だ。こんなの。  ――嫌だ?  本当に?  だってこんなにも……僕は彼を欲しがっているのに。  突き飛ばして逃げることだって出来るはずだ。  抵抗はいくらでもできるはずだ。  それなのに、僕は彼との繋がりを――数日前を食らったその先を、喉が渇くほど求めている。 「御前様」  そう呼ばれる度に心臓が跳ねて、心地よさが背中を駆け上がった。  欲しい。  彼が欲しい。  早く、早く。  僕の意識は少しずつ、寄せては返す欲の波に吸い込まれていった――。

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