10 / 10

009

「はぁっ、はぁ……ッ」  喉と心臓が痛い。  痛む体を引きずってお屋敷まで逃げ帰ってきた僕は乱れた呼吸を直すこともせず玄関へ飛び込んだ。  土間の上へ転がった瞬間に嗅ぎ慣れた煙草の香りがする。そうしたらぼんやりとしていた思考がすっきりとして――あの虚無僧に襲われる直前、買ってきた品物を全てどこかへ放り出してしまったことを思い出した。  顔から血の気が引いていくのを自覚すると同時に家の中から玄関へ向かってくる足音が二つ聞こえる。  まずい、どうしよう。  今更戻ったところで放り出してきた品々が無事かどうかもわからないし。  一体どう言い訳を、と考えているうちに足音の持ち主――奥方様が玄関までやってきてしまい、僕は青い顔のまま彼女を見上げる。 (……あれ?)  足音は聞こえた。  旦那様がお仕事で出ている今、この屋敷にいるのは奥方様と食事係をしている使用人、二人だけのはず。だからもう一つの足音はその食事係のおばちゃんのものだと思ったのだけど、奥方様の隣に立っていたのは何やら大袈裟な衣装に身を包んだ怪しげな男だった。  その男は怪訝そうな顔でこちらをじろりと睨むと、状況がつかめずにぽかんとしたままの僕を勢いよく指さす。 「奥様、この男が原因ですよ」  男がそう言うと奥方様は心底不愉快とでも言いたげに眉をひそめて、やっぱりね、と呟いた。 「あ、あの……奥方様、この方は……?」  おずおずと尋ねると奥方様は更に眉をひそめ、口元を覆う。 「気安く話しかけないで、この疫病神が」 「ええ……?」  訳がわからない。  疫病神って。そこまで言われるほど嫌われているのか、僕は。  一体僕が何をしたっていうんだ。 「この男に憑いている犬神がこのお家に悪いことを引き込んでいます」 「この間鏡が勝手に割れたのも、その犬神ってやつのせいなのね」 「ええ、恐らくそうでしょう」  ええと……。  当人を置いてけぼりで勝手に話を進めないでもらいたいのだけど。  僕が困惑していると奥方様はしっしっ、と僕を手で払うようなジェスチャーをする。 「ああ、気持ち悪い。おかしいと思ったのよ。ここ最近勝手に鏡が割れたり、風もないのに窓が開いたり、誰も居ないはずの廊下から足音が聞こえたり……! やっぱり拝み屋さんに来てもらってよかったわ。もううんざりよ、気味が悪い。アンタは今日で解雇! 二度とうちの敷居を跨がないで頂戴」 「か、解雇⁉ そんな、困ります! 旦那様はなんと……」 「うるさい! 今この家の主人は私なの! いいからさっさと出ておいき!」  必死の抵抗も虚しく僕は奥方様と怪しい男(奥方様の話では拝み屋らしい)の手によって一度逃げ帰った屋敷から再び放り出されてしまった。扉が壊れるんじゃないかと思うぐらいの勢いで僕を締め出し、錠を下ろす音がすると同時に屋敷の中からは怪しげな念仏が聞こえてくる。  ……ああ、めっちゃお祓いされてる。  っていうかあの怪しい男、見た目は兎も角僕が遭遇したばかりの犬神のことを言い当てたし、案外ちゃんとした拝み屋なのかもしれない。  いやいや、現実逃避をしている場合じゃなかった。  どうにかして解雇は撤回してもらわないと。……いや、あの様子だと無理だろうなぁ。 「おやおや、御前様。そんなところに座っていたら服が汚れてしまうぞ」  ひょこり、と。  視界に金色の瞳が滑り込んできた。  地面に座り込んだままの僕を覗き込んだそいつ――虚無僧は、愉快そうににんまりと笑みを浮かべる。 「……お前、屋敷の中の物を勝手に壊したりしたか? 勝手に窓を開けたり、足音を立てたりしたか?」  虚無僧の顔を見上げながらそう問いかけると彼は笑みを深めた。 「嗚呼、そんなこともしたかもなぁ。何処ぞの女狐が御前様に手出しをしようとするものだから、ちょいと構ってやったのだ。直接危害を加えたわけではないのだから可愛いものだろう?」 「お前なぁ……!」  思わず立ち上がって虚無僧の胸ぐらを掴む。 「お前のせいでこちとら職を失ったんだぞ! どうしてくれるんだよ! ああもう、最悪だ!」 「まあまあ、そう怒らずとも良いではないか」 「他人事だからって、こいつ……!」  自分よりも高い位置にある顔を睨みつけると虚無僧は僕の頬を両手で包み込んでゆっくりと目を瞑り、ちう、と音を立てながら僕の額に口先を押し付けた。  頬に熱が集中するのを自覚しながら僕は掴んでいた胸ぐらを放って一歩後ずさる。ああもう、どうしてこいつとの触れ合いがこんなにも嬉しいと感じるんだ。  まったく、冗談じゃない。 「な、何するんだよ! そんなんで誤魔化そうったってそうは問屋が……」 「ほれ」  僕の言葉を遮った虚無僧は目の前に手のひらを差し出す。僕のそれよりも大きな手のひらの上には小銭やら紙幣やらがいくつも転がっていた。 「――えっ?」  驚いている僕を尻目に彼は僕の胸ぐらを勝手に弄り、大事にしまってあった財布を取り出してそこへ手に持っていたお金を乱暴に突っ込む。財布の蓋を閉じて満足そうに、むふー、と息を吐いた彼は再び元あった場所へ財布を戻した。 「……いや、いやいや! 待て待て! なに、どういうこと⁉ なんでお前、こんなにお金持ってるんだよ⁉ 向こう数ヶ月は働かずに遊んで暮らせるぐらいあったぞ⁉」 「ふふん。吾は虚無僧なるぞ。質素な生活をしていれば喜捨で生きてゆけるのだ」  そう言って彼は自慢げに胸を張る。 「まあこの格好で歩いていたら時折人間が勝手に金をくれるというだけなのだが。全く人間というのは信心深くて便利なものよ。吾には睡眠も食事も必要ない故どうしたものかと思うていたのだが、これで御前様が吾と共に在る理由ができたな」 「待て待て、勝手に決めるな! 一緒になんかいるわけないだろ!」  職を失っただけに飽き足らず人ならざるものに養われるとかどんな人生だよ。  まっぴらごめんだ。  第一、僕には帰る場所がある。 「……僕は実家に帰る。お前とはここでさよならだ」  奉公に出たのは父に自立した自分の姿を見せたかったからだ。特段外で働きたい理由が他にあったわけじゃないし、これを機会に以前から打診されていた通り煙草屋を継ぐのも悪くないだろう。 「ふむ。であれば吾もいこう。御前様の在るところに吾も在り、だ」 「冗談じゃない! やめてくれ! ついてくるな!」 「そうは言われても御前様が宿主であることには何ら変わりないぞ。どれだけ遠ざけようと吾らは魂で繋がっておるのだ。いい加減観念したまえよ御前様」 「~~~っ! ああもう! いいか、絶対ついてくるなよ! もしついてきたらお前の額に御札を叩きつけてやるからな!」  そう言い捨てて僕はまたやつの目の前から逃げ出した。そのまま後ろも振り返らないまま走り続け、父と過ごした懐かしの家へと飛び込む。嗅ぎ慣れた匂いが鼻先を擦るとうるさかった心臓がようやく落ち着いてきた。  ふう、と小さく息を吐いて玄関へ上がろうとしたところで、食事中だったらしい父が米粒を口元につけたまんま玄関に顔を出して、ばちりと目が合う。 「あ……た、ただいま、父さん」 「みつ坊? どうしたんだ、突然帰ってきて。何かあったのか?」 「まあ、うん。色々と、ね」  とりあえず草履を脱いで玄関に上がり、居間にある座布団に腰を下ろした。  一体何から説明をするべきかわからなかったけれど、一先ずこれまであったことを話そうと口を開く。だけど一体何から説明するべきか、一体何を説明しないべきか、それがわからず口を開いたまま固まってしまった。  あ、だの、う、だの、えっと、だのと意味を成さないただの声を発していたこちらを見て父は小さく笑い、くしゃくしゃと僕の髪を撫でる。 「みつ坊、晩飯は食ったのか?」 「え? ……まだ、だけど」 「そうか。ならまずは飯にしようや。ちょっと待ってろよ」  ニッと笑った彼は立ち上がって台所へ向かった。数分後、戻ってきた父の手には御盆があり、炊いたご飯と味噌汁、焼き魚、漬物が載っている。 「ほら。詳しくは食ってから聞くからよ」 「……うん。いただきます」  両手を合わせて味噌汁を啜る。  懐かしい、父さんの味だ。 「美味いか?」  その言葉にこくりと頷くと、父は満足そうに笑って僕の向かいに腰を下ろし、食事を再開した。  こうして父と向かい合って食事をするのはいつぶりだろう。煙草のお使いのたびに顔を合わせてはいたが、腰を据えて話をするのは数年ぶりかもしれない。 「あのさ……僕、解雇されたんだ」  覚悟を決め、ぽつりとそう呟くと茶碗を見下ろしていた父は酷く驚いたような表情で僕の顔を見つめた。 「解雇だって? そんなはずは。旦那様がそういったのか?」 「ううん。今、旦那様はお仕事で屋敷に居なくて。奥方様に言われたんだ。なんでも僕に悪霊が憑いてるとかなんとかで、二度と屋敷に来るなって」 「ああ。そういうことか……」  眉を顰めた父は茶碗をちゃぶ台の上に戻して、目を細める。 「旦那様が戻ったら詳しい話をしに行こう。とりあえずそれまではうちに居るといい」 「うん。でも、この機会に煙草屋を継ぐのも良いかもしれないって思っててさ。どう思う、父さん?」 「そりゃ嬉しい申し出だけどよ。だがま、それを決めるのは旦那様と話をしてからでも遅くないんじゃねぇか? あの人が統の解雇に同意するたぁとても思えねぇからな」 「……わかった」  どうやら父は随分旦那様に信頼を置いているらしい。  だがそれを抜きにしても、彼が発する言葉の裏には僕の知らない含みのようなものが在るように感じた。……だけど、疲れていた僕はそれに言及することはせず、ただ久しぶりの父の味を堪能して、眠ってしまったのだ。  ――これが、彼と過ごす最後の時間だと知らないまま。

ともだちにシェアしよう!