1 / 26

第1話 ベータのマヤ

 肌から薄れていく熱を繋ぎ止めたくて、マヤはグレーのパーカーに袖を通した。  夜更けのホテルの一室。仄暗い室内を柔らかく照らすのは、ナイトチェストの上で金色に輝くルームランプと壁に点在する間接照明だけだった。  淡いグレーの壁と、それに合わせて設えられたシンプルな調度品が洗練された空間をつくりあげている。  部屋は薄暗いが、着替えるには十分な明るさだった。  お気に入りのオーバーサイズのパーカーは、張りのある生地ながらマヤの身体によく馴染んでいた。  パーカーを頭から被ったせいで乱れたのか、所々毛先が無造作に跳ねている。マヤが全体を梳くように手櫛を滑らせると、柔らかな黒髪は素直に落ち着いた。  額が出るように中央で分けられた艶のある黒髪は、頬にかかるくらいの長さに整えられている。  二十歳そこそこに見えるマヤは、手入れのされた眉とはっきりとした二重の瞼に意志の強そうな深い鳶色の瞳をしていた。瞼を縁取るまつ毛は男にしては長めで、鼻筋の通った精悍な顔立ちはまだうっすらと少年の面影を残している。血色の良い薄い唇は引き結ばれて、整った顔立ちに凛とした色香を添えていた。  黒い細身のパンツを纏うすらりと伸びた脚はしなやかで、服の下に隠されているのは細身の体躯だろうと想像できた。袖から覗く指はほっそりとしているが骨張った男のそれで、足元は流行り物のハイカットのスニーカー。身に纏うものからもマヤの若さが見て取れる。  身なりを整えながら、マヤは呼吸に混ざるくらい微かなため息をついた。  一九〇センチ近い背丈にモデルと言っても通じそうな体型と整った顔立ちは、照明の落とされた部屋でも目を引く。 「マヤくん、ほんとに帰っちゃうの?」  マヤは声の主にその鳶色の瞳を向けた。  視線の先、部屋の中央に鎮座するキングサイズのベッドには柔らかな金色の光が降り、そこに横たわる男を照らしている。  広いベッドの中央に裸で横たわるのは、事後の気怠さを漂わせる三十歳くらいの長身の青年だった。  涼しげな切れ長の目に、通った鼻筋と弾力のありそうな薄い唇。端正な顔立ちに清潔感のある短髪でどこか神経質そうな印象を受ける。 「うん」  マヤは小さく頷いた。 「そっか、寂しいな」 「ごめんね、明日バイトがあって」  マヤは形の良い眉を下げて苦笑いを返す。  着替えを終えたマヤの凛とした佇まいは、先程までベッドの上で甘く啼いていたことなど微塵も感じさせない。  清廉なマヤの姿を眺め、ベッドの上の青年は愉しげに目を細めた。 「マヤくん、よかったよ」  青年の社交辞令じみた言葉に、マヤは顔を上げ、端正な顔に薄い笑みを浮かべた。 「俺も」  そうは言ったが、満足したかと言われれば今夜のそれは満足とは程遠かった。  ベッドの上の彼は決してセックスが下手というわけではなかったが、マヤが得られる快感は期待していたほどではなかった。  気性はサディスト寄りなのか、言葉責めをしたがった。それは一向に構わなかったが、先日相手にした客も似た気質だったので食傷気味だった。  それだけならまだ良かったのだが、身体の芯から溶けるような、灼かれるような快感が欲しかったマヤに、彼がそれを与えてくれることはなかった。  興を削がれたマヤは、早く終わらないかなと考えながら行為の終わりを迎えたのだった。  そんなことはおくびにも出さず、マヤはその表情に柔らかな笑みを貼り付ける。  その笑みに気を良くした青年は満足げに目を細めた。 「またね」 「うん」  マヤは伸びてきた手に手を重ねて、引き寄せられるままに青年に腕の中に収まる。弾力のある青年の唇に、マヤの柔らかな唇が触れる。触れ合うだけの挨拶のようなものだった。余程嫌な客でない限りはこんな風にキスもする。  唇が離れると、青年はマヤの頬を撫でて笑った。まるで恋人にするような甘やかな彼の仕草に、冷めたはずのマヤの胸はときめきに似た疼きを覚える。快感を貪る行為の後の、こんなちょっとした触れ合いが好きだった。  僅かに蕩けたマヤの表情を見て、青年は何か思い出したようにマヤを腕から解放すると、ベッドサイドのソファに手を伸ばした。ソファの背凭れに放られたスーツのジャケットから財布を取り出すと、彼はそこから紙幣を数枚取り出しマヤに渡した。 「これ、タクシー代。そろそろ下に着いてるかな。俺の名前で呼んじゃったから、俺の名前を伝えて乗って」 「ありがとう、アキトさん」  マヤは頬に喜びを乗せて甘やかに笑う。マヤの手の上には一万円の紙幣が五枚乗っていた。本来ならこんなにタクシー代は要らない。アキトなりの気遣いだった。  アキトのようにタクシー代と称して現金を渡してくれる客は少なくない。  ありがたく紙幣を受け取ったマヤは先ほどよりも柔らかな笑みを浮かべ、ベッドの上のアキトに手を振ると、その身を翻して部屋を後にした。  深夜のホテルのエントランスは静かだった。普通なら誰もが寝静まった時間帯、出入りする客はほとんどいない。ホテルのロビーは落ち着いた雰囲気で、真夜中の静けさも相俟って荘厳さすらあった。  もう用もなくなったそこを足早に抜け、マヤは表へ出る。  吹き抜ける夜風がマヤの頬から熱を奪っていく。さっきまで身体を満たしていたはずの熱は、夜風に攫われてたちまち薄れていった。  季節は桜の開花にはまだ早い。僅かに冬の気配を残す夜風は冷たく、薄着で出てきてしまったマヤは華奢な身体を震わせた。アウターを羽織らずに出てきたことを後悔したが、後の祭りだった。  寒いのは惨めな気持ちがどこまでも大きくなっていく気がするので苦手だった。  本当はチェックアウトの時間まで温かなベッドにいたい。本来はいてもいいのだが、今日はそんな気分にはなれなかった。バイトがあると言ったのも嘘だ。どうにも不完全燃焼で、早く家に帰りたかった。  夜半を過ぎて終電はもうとうに終わっている時間だが、タクシー代を貰えたので今日はタクシーで帰れる。初めての相手だったが、タクシー代を払っても釣りが来るくらいの金額を弾んでくれたのでありがたかった。  マヤは視線を彷徨わせ、アキトが呼んでおいてくれたタクシーを探す。  入り口から少し離れたところに迎車の表示で止まっているタクシーを見つけた。  マヤが近付くとタクシーの後部座席のドアが開いたので、マヤは迷わずそれに乗り込んだ。 「アキト、です」 「お待ちしてました。どちらまで?」  マヤがアキトの名前を言うと運転手は特にそれ以上のことを聞いてこなかったので、アパートの住所を伝えた。  ドアが閉まると車内はすぐに暖かくなって、寒さで強張った身体が緩んでいく。高級セダンの座席は柔らかな弾力でマヤを優しく受け止めてくれた。  運転手がカーナビに住所を入れ終わると、タクシーは静かに走り出す。  いい人だったけど、相性も微妙だったし今回だけかな。マヤは車窓を流れていく夜の街をぼんやりと眺める。  マヤが先程まで会っていたのは、アルファの男だった。  この世には、男女という性の他に、バース性といわれるアルファ、ベータ、オメガという第二の性が存在する。  アルファは体格、外見、能力に優れた、所謂エリートが多い。ベータは一般的な人で、特筆するようなものはなく、人口に対する比率は一番多い。オメガはヒートという発情期のようなものがあり、男女問わず妊娠が可能だ。体躯は華奢で、中性的で愛らしい外見であることがほとんどだ。  というのが、一般的に言われているバース性の基本だ。  バース性への一般的な認知は進んでおり、各種の法や補助制度も整備されている。  そして、一定数の需要があるであろう性的なサービスも存在する。マヤが所属しているのも、そういったサービスの一つだった。  マヤが所属するアルファ向けの高級会員制デリバリーサービス『モン・プレシュー』は、キャストとして登録されたオメガやベータをホテルや自宅に呼ぶことができるもので、会員になれるのは地位と収入のあるアルファだけだった。入会には審査が必要なのだと聞いたことがあった。それでも一定数の会員がいるので、ニーズはあるのだろう。  マヤというのは客に会う『キャスト』としての名前だった。彼の名前は真山(まやま)(しん)。真山から取ってマヤだ。  真山は大学三年生で、バース性はアルファだ。  大学生の真山がこうやって男に抱かれているのは訳がある。とはいっても、借金などではない。彼が興味本位で目覚めさせてしまった性癖によるものだった。  真山は、アルファの男に抱かれたいアルファだった。元から男が好きなわけでも、アルファが好きなわけでもなかった。気が付いたらそうなっていた。  後悔はしていないが、自分でもどうしてこんな難儀な性癖を目覚めさせてしまったのかと時々思う。  ことの発端は高校時代。クラスの友人とケツが気持ちいいらしいとインターネットで聞き齧った話から盛り上がり、気持ちいいことへの探究心が人一番強い真山は興味本位でアナルの開発を始めてしまった。初めは指一本がやっとで、感じるのは快感よりも違和感の方が大きかった。それでも続けた真山はやがて呑み込む指が二本に増え、前立腺を弄ることを覚え、高校を卒業する頃にはすっかり後ろでないといけない体になっていた。大学に入ってからはアダルトグッズを使って自分で慰めていたものの、それは段々とエスカレートしていった。生身の人間に抱かれたいと思うようになっていた。なにより真山はアルファに抱かれたかった。  そんな真山だったが、抱いてくれる相手を探すのには苦心していた。ベータだと物足りない。オメガには相手にしてもらえない。さらに、アルファを抱こうというアルファはなかなかいない。オメガに比べたら体が大きいせいもあり、需要は多くなかった。  フェロモンの影響もあるが、オメガを抱きたいというのが世のアルファの一般的な嗜好だった。そこからはみ出した真山には、そうやって本能に組み込まれているんだと自分に言い聞かせて慰めることしかできなかった。  そんな中、どういう奇跡か仲の良かった大学の先輩がアルファ向けのデリバリーサービスをやっているという噂を耳にしたのが、大学三年になってすぐの頃だった。真山はその先輩に頼み込んでキャストとして登録させてもらった。  登録の際には一応面談があり、真山がベータとして登録したいと言ったところ、先輩は当然ながら反対した。 「それ、バレると営業停止くらうんだけど」 「絶対バレないようにするから!」  喫茶店の床に正座して手を合わせてまで頼み込んだのは忘れもしない。 「ほんと、やばそうだったらすぐ辞めさせるからな」 「うう、紳士なアルファ様とやりたい」 「はぁ、おまえ、ほんと……」  真山は先輩にも呆れられるくらいの享楽主義者だ。  アルファに抱かれたいアルファという、自分が世間的には少数派だというのもわかっている。  だからこそ、ベータだと偽ってでも抱かれたい。オメガだというには無理がある。ベータなら上手くやればいけるかもしれない。  真山は一縷の望みをかけて『抱かれたいベータの大学生、マヤ』としてキャスト登録した。  シンという名で登録しようとした真山に、源氏名は可愛い方がいいとアドバイスしたのもこの先輩だった。  背は高いものの、アルファと言うには少し細身の体躯をしているせいか、真山は初見ではベータだと言われることが多い。念のためアルファ用のフェロモン抑制剤も飲んでいる。バレない自信はあった。  体型の維持にも神経を尖らせていた。無理に筋トレしなくても筋肉がつきやすいのはアルファだからなのだろう。体が大きくならないよう、食事と運動には気を遣っていた。  そんな涙ぐましい努力を知らないながら、モデルみたいだと言ってくれる客も少なくない。  オメガに比べて、ベータに声がかかる率は低い。一夜限りの相手を求められることも多かったが、抱いてくれる相手がいれば真山はそれでよかった。それ以上を求めても、辛い思いをするのが目に見えていたからだ。  いつからかアルファと恋をしたいと思う気持ちが芽生えたが、真山はそれを押し殺した。  アルファの自分がアルファとつがいになれるわけもない。選ばれるのはいつだってオメガだ。それが世の常だった。  恋だってしたいが、どうせ叶わない。真山がするのは身体の快感先行の一夜限りの恋だ。それに一喜一憂するのは疲れる。だから、恋をするのは早々に諦めた。  マヤにはだいたい月に一度のペースで誰かしらの予約が入る。多ければ二度三度ということもあるが、そんなのは過去に一度しかなかった。  月に一度、予約が入るたびに叶わない恋をしている。そんなことを繰り返して、もうじき一年が経つ。刹那的な生き方をしている自覚はあった。気が済んだら辞めるつもりでいたが、まだそのときはやってこない。  次は来月かな。いい人がくるといいな。そんなことを思っていると、タクシーが静かに停まった。  気がつけば、外の景色は見慣れた自宅アパートの前になっていた。 「こちらでよろしいですか」 「あ、はい、大丈夫です」  真山はアキトに貰った紙幣を運転手に渡す。一万とかからずに帰ってこれた。残りは有意義に使わせてもらおうとほくそ笑む。  お釣りを受け取ってタクシーを降りた真山は、外の寒さに痩せた身体を震わせた。都市部から少し離れ、夜も更けたたせいか、気温が下がったような気がする。  早く部屋に帰ろうと、真山は静まり返ったアパートの階段を静かに駆け上がった。

ともだちにシェアしよう!