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第2話 アルファのソウイチ

 アキトと会ってから一週間が経とうとしていた。大学は春休み期間で真山はしばらく暇だった。バイトはしていない。モン・プレシューでの収入があれば仕送りと合わせればなんとかなってしまうからだ。  夕方、すっかり習慣になったランニングを終え、シャワーを済ませた真山は部屋の中央のラグの上で軽くストレッチをする。  真山がここまでアルファだとバレずにやってこれたのはこれのおかげだ。  下着とTシャツだけ身につけた姿で、真山はゆっくりと呼吸しながらしなやかな肢体を伸ばしていく。深く息を吐くと、ランニングの疲れが少し和らぐ。呼吸を意識しながら自分と向き合うこの時間は好きだった。  真山が小さく息を吐くと、不意にベッドに放っていたスマートフォンが震えた。  なんだろうと手を伸ばして取り上げたスマートフォンの画面を見ると、新しい予約の通知が届いていた。  こんなに短い間隔で予約が入るのは珍しい。  真山はいつも通り一夜限りの相手だろうと通知からアプリを立ち上げる。  予約の詳細がスマートフォンの画面に表示された。  予約が入ると相手の簡単なプロフィールが一緒に送られてくる。  予約者の名前はソウイチ。続いてプロフィールが書かれていた。  会社役員、二十八歳。身長一七五センチ。  その後には指定の時刻と場所が続く。  三日後、金曜の夜十時。末尾にはホテルの名前と場所が添えられていた。ターミナル駅近くの、行ったことはないが、名前は聞いたことのある、有名な外資系のラグジュアリーホテルだ。  特に予定もなかったし、行ったことのないホテルだったので真山は予約を受けることにした。先週が消化不良だったため、ちょうど良かった。  今度は良い相手だといいなと思いながら、真山は承認ボタンを押した。画面が切り替わったのを確認してスマートフォンをシーツの上に伏せた。  真山は立ち上がると、クローゼットを漁った。着ていく服を決めないといけない。いつも身なりには気をつけているが、行き先はそうそう泊まることのない高級ホテルだ。安っぽい格好で行くわけにはいかない。カジュアルでも上品な格好にしないといけないだろうと、クローゼットの中身と睨み合いながら真山は頭を捻った。  一夜限りだとわかっていても、その胸には三日後の約束へのささやかな期待と高揚感があった。 「まじか……」  ため息のようにこぼれた低く張りのある声は、春の柔らかな夜風に攫われていった。  声の主である真山の頬を風が撫で、絹糸のような黒髪を音もなく揺らす。夜風には冬の気配が色濃く残っているが、羽織ったジャケットのおかげで寒さはない。  真山の澄んだ鳶色の瞳に映るのは、深いブラウンをベースにした上品さのある建物のエントランスだ。落ち着いた雰囲気の外観は館内から溢れる柔らかな金色の光に彩られ、張りのある白い頬にも柔らかな光が降る。  言葉を失い呆然と立ち尽くす真山の傍ら、自動ドアが開き、すぐ横をスーツ姿の外国人の男性が颯爽と通り過ぎていく。  そこは外資系のラグジュアリーホテルのエントランスだった。ターミナル駅近くのせいか、夜の十時になろうという時間なのに行き交う人は絶えない。  出入りするのは外国人やビジネスマンが多いようだ。  きらびやかさに圧倒され立ち尽くす真山は、自分がここにいることが場違いだと理解していた。  行き交う人々の姿を見て、真山はジャケットを羽織ってきてよかったと内心で胸を撫で下ろす。大学生であることは隠せないにしても、幾らかはましだろう。  真山の出立ちは黒のテーラードジャケットに張りのある生地の白いカットソー、黒い細身のパンツに革靴と、背中には黒のリュックを背負っている。  モデルと言っても通じそうな細身の体型と綺麗な顔立ちは、時折その姿を振り返るものがあるほどだった。  綺麗めな格好をしてきたとはいえ、大学生風情が彷徨いて悪目立ちしていないか心配で、真山はリュックのショルダーストラップを握った。  いつまでもここに突っ立っているわけにもいかず、真山はまとわりつく不安を振り切るように足早に館内へと足を踏み入れた。  落ち着いた照明に彩られた華やかな雰囲気の館内は、花の匂いがした。  ロビーに入った真山は忙しなく視線を彷徨わせ、受付カウンターを探す。  ソファの並ぶフロアの奥にフロントのカウンターを見つけた真山は、足早にカウンターへと向かった。柔らかなカーペットのフロアは足音を立てることもなく、柔らかく靴を受け止めてくれた。  カウンターにいたスタッフに部屋番号を伝えると、スタッフからカードキーが渡された。  真山は受け取ったカードキーを持ってフロアの奥に向かうと、見計らったように到着したエレベーターに乗り込んだ。カードキーに書かれた番号から察するに、どうやら部屋は上層階にあるようだった。  真山は硬い表情のまま慣れないカードキーに視線を落とした。  初対面の相手はいつも少し緊張する。真山が知らされているのは、ソウイチという名前と、アルファであること、それから会社役員という肩書きと身長などの簡単なプロフィールだけだった。  マヤとしてアルファに会うたび、真山は叶わない消化不良の恋をしていた。これを恋と呼んでいいのかもわからない。  もちろん、アルファとはつがいになれるのはオメガだけだとわかっている。それでも、求めることは止められなかった。きっとどこかに恋ができる相手がいるはずだと、諦めきれないささやかな希望を抱いていた。 「そーいちさん、ね」  真山は骨張った指先でカードキーを弄ぶ。  容姿もわからないソウイチというアルファは、真山を楽しませてくれるのか。あるいは、真山を愛してくれるアルファなのか。  真山はうっすらと胸に湧く期待に、かすかに口の端を持ち上げた。  刹那的な生き方をしている自覚はある。気が済んだら辞めるつもりでいたが、その時はまだやってこないままだ。  エレベーターの到着を告げる軽やかな電子音が響いた。  視線を持ち上げた真山の目に映ったのは、明るくなった目的の階の数字だった。  エレベーターを降りた真山は部屋を見つけるとカードキーで鍵を開け、部屋に入った。  広くて綺麗な部屋だった。少し照明の落とされた部屋には落ち着いた空気が流れている。入り口の正面には壁一面の大きな窓があり、音もなくきらめく都会の夜景が見える。  部屋に置かれた調度品はどれも高そうで、広さから察するにどうやらスイートルームのようだった。  真山は視線を彷徨わせながら、おそるおそる部屋の中を進む。柔らかなカーペットフロアは、意識して足音を殺さなくとも真山の足を優しく受け止めてくれた。  今日の相手は、リビングの窓辺のテーブルセットにいた。  ソファに深く身体を預けた、スーツ姿の青年だった。  頭の丸みを活かしたシルエットに整えられた髪は柔らかな茶色で、毛先が少しうねってランダムに跳ねている。見たところ、若そうだった。  真山に気付いて青年が立ち上がる。  自分より背の低い相手は初めてだった。アルファだよな、と真山は青年をまじまじを見る。アルファの背丈はたいてい真山と同じくらいか、それ以上で体格も良い。  しかしながら、彼の背丈は真山よりも十五センチほど低かった。  真山が目の前まで来ると、青年は真山に向き直った。  厚めに作られた前髪は眉が隠れるくらいの長さになっている。  そこから覗くのは二重瞼の意志の強そうな目で、灰色がかった薄い茶色の瞳が真山を見上げていた。瞼を縁取るまつ毛までしっかり見える。真っ直ぐ通った鼻筋に、柔らかそうな厚めの唇。アルファにしては小柄で綺麗な顔をしていた。  色白で色素も薄くて、そこから醸し出される可憐な雰囲気にオメガじゃないのかと疑いたくなる。  彼が纏うのは仕立ての良い深いネイビーのスリーピーススーツにサックスブルーのシャツとシルバーのネクタイ。細身の身体の線が綺麗に見えるのは彼の身体に合わせて作られたからだろう。革靴も綺麗に磨かれていて隙がない。  正直なところ、相手に困っているようには見えなかった。 「モン・プレシューのマヤです。ソウイチさん?」  ソウイチからはオメガのフェロモンは感じないし、発せられるオーラは間違いなくアルファのものだった。しかもそれは、エリートのアルファのものだ。所謂良家のアルファ。官僚やら経営者やら、トップに立つ人間を輩出する家系特有の強いアルファのオーラに、真山に緊張が走る。こうして間近で会うのは初めてのことだった。肌で感じる強い気配に思わず生唾を飲んだ。 「ああ」  短く答えるソウイチの反応は静かなものだった。真山を見て喜ぶ様子もなく、笑うでもなく、少しだけ目を見開いてぼんやりと真山を見ていた。  こんな反応をされる時はだいたいキャンセルをくらう時だった。  予約当日のキャンセルは会員にペナルティが課せられる。当日キャンセルになったとしてもキャストは賃金が保証されるため痛手は少ないが、今日はどちらかと言うと乗り気で、なんとかキャンセルは避けたかった。いつものことだが、はじめての相手だ。相性が良ければいいなと期待していた。  そんな真山の耳に届いたのは、呆けたように感情の薄い声だった。低く澄んだ響きの、抑揚の少ないソウイチの声だった。 「君は、アルファなのか」  明るい茶色の前髪の下から覗く薄茶色の瞳は、感情のかけらもなく、ただ真っ直ぐに真山を見上げていた。 「は」  真山の口からは掠れた声が漏れていた。  呟くような静かな声に真山は目を見開いた。ソウイチの色素の薄い瞳に、感情は窺えない。  ソウイチの言葉に、真山の背が凍りついたように冷たくなる。そんな言葉を言われるのは初めてだった。  そして、その言葉を何よりも恐れていた。  ソウイチと名乗る彼とは、ついさっき会ったばかりだ。自己紹介もそこそこに、目の前のスーツ姿の男から放たれた言葉は、真山にとっての敗北を意味するものだった。  ベータのマヤ。それが今の真山の肩書きである。  今まで誰も疑わなかったし、それが偽りだと見破る者もいなかった。  だから、今日も大丈夫だと思っていた。  フェロモンの抑制剤も飲んできた。  甘やかに言葉を交わして、甘い時間が始まるはずだった。  なのに。  真山の目の前にいるオメガと見紛うばかりの可憐なアルファの男は、いとも容易く真山の秘密を看過してみせた。 「帰ってくれ」  彼の唇から畳み掛けるように継がれたのは、声色こそ優しいものの、拒絶の言葉だ。  その一言は、ベータのマヤこと真山を驚愕とともに絶望の淵へと叩き落とすには充分すぎる威力を持っていた。  心臓が喚くのを、どこか他人事のように聞く。  真山はアルファだ。アルファに抱かれたい、アルファの男だった。

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