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第12話 ふたりの暮らし
桐野との同居を始めるにあたり、真山はアパートを引き払った。親には先輩のところに世話になると伝えた。さすがに本当のことを伝えるのはもう少ししてからの方がいいだろうと思った。
比較的自由にさせてくれている真山の両親だが、さすがに金持ちのアルファの恋人になったので相手の家に引っ越すなんて言っても信じてもらえるとは思えなかった。
三月という春の引越しの繁忙期ながら、幸いにも引っ越し業者予約が取れたのは翌週だった。
この引越し代の高い時期に、と思ったが、引っ越し代はや諸々の費用はすべて桐野持ちだった。俺の都合で引越ししてもらうから、という理由だった。
最悪レンタカーでも借りてやろうとしていた真山はそんなことまで、と思う。至れり尽くせりだ。
思い入れのある部屋を出るのは少し寂しいが、大学四年になるし、気分転換に引っ越したと思うことにした。
桐野のマンションの空き部屋ひとつが真山の部屋になったが、そこだけでも充分今までの部屋よりも広い。
真山は部屋のものを丸ごと持ってきた。とは言ってもベッドと机、小さな折りたたみ式のテーブル、ノートパソコン、ほかには小物が段ボールひとつ分と、他は服が段ボールに二つだった。流石に冷蔵庫と洗濯機は業者に引き取ってもらったが、部屋にはまだ余裕がある。逆にこんな部屋に庶民のものを持ち込んで申し訳ないような気分になる。クローゼットもあるが、手持ちの荷物を入れてもまだ大半が余るようなウォークインクローゼットだった。何ならそこで暮らせそうだった。
引っ越しをしてベッドは持ってきたが、眠るベッドは桐野と一緒だった。桐野の寝室にあったのはホテルにあったのにも劣らない、キングサイズのベッドだった。
眠るのは桐野の寝室、着替えもいつの間にか大半が桐野の寝室に移動していて、他はだいたいリビングで過ごすので、勉強する時くらいしか部屋に入ることはなかった。
なんとか春休み中に引っ越しが落ち着き、真山は無事大学四年生になって新年度を迎えることができた。
同居生活が始まって間もないある日、授業がない日だったので真山は家にいた。部屋で勉強していると、ドアがノックされた。
「慎くん、ちょっといいか」
「うん」
いつの間にか帰ってきていた桐野だった。
いつもなら夕方ごろ戻ってくるのにと思って待っていたペンを置いた。
廊下に出ると、大きな封筒を持った桐野が心なしか硬い面持ちで静かに待っていた。
連れ立ってリビングに行くと、桐野はソファに座った。真山が隣に座ると、桐野は大きな封筒から書類を取り出した。
「弁護士に頼んで用意してもらった。契約書みたいなものだ。書面を交わしておいた方が君も安心できるだろうと思って」
「契約書?」
真山は書類を受け取ると、視線を文字の並ぶ紙面に落とした。
『真山慎は桐野宗一と同居する。同居にあたり、真山は自分の都合で同居を解消できる。その際には費用は発生しない。引っ越し先を伝えなくても良い。引っ越し費用は桐野が負担する。桐野は最大限真山を尊重する。真山の申し出、要望に対し、桐野は最大限善処する』
こんな具合で、桐野は真山を尊重し、大事にするという旨の文章が続いた。
硬さのある文体で紙の上に連なるのは、桐野の甘やかな愛情だった。
「そーいちさん、これ」
真山の心臓が騒ぎ出す。こんなに丁寧に書かなくてもいいのにと思う。
半ば呆れた気持ちで桐野を見ると、慌てたように口を開いた。
「あ、その、君を縛り付けたいわけじゃないんだ。法的な強制力はないから、その、形だけのものだと思ってくれていい。君がここで暮らすのに、安心してもらえるようにと思って」
慌てる桐野に、真山は頬を緩めた。
桐野が言いたいことはわかっていた。真山も、桐野がこれで自分を縛りつけようとしているなんて思っていない。どちらかと言えばご丁寧に桐野からの愛情を箇条書きで書面にして見せられているような気分でこそばゆかった。
文面からは、はっきりと桐野の愛情が感じられた。こんなにも真摯に自分のことを考えてくれているのかと思うと、素直に嬉しかった。
「ん、わかってるよ」
真山は薄く笑って桐野に差し出されたボールペンを取った。重みがあるこれも、きっと高いのだろう。
「名前、ここに書いたらいい?」
「ああ」
真山は長い文章の下の空欄にペンを走らせた。その動きに迷いはない。二枚分同じことをして、作業は完了だった。
「これでいい?」
「ああ。ありがとう、慎くん」
「よろしく、そーいちさん」
書類を受け取って、もう一度文面を視線でなぞった。連なる文字は桐野の愛情の証のような気がして、真山は胸がくすぐったい喜びで満ちるのを感じた。
書面を用意されたのには驚いたが、桐野らしいと思った。
真面目でお堅そうな性格だが、桐野は紳士的で献身的だった。純粋で優しくて、真面目で、時々抜けた一面も見せる。
そんな桐野のことを、真山は愛おしく思う。
桐野の家での暮らしは手厚すぎて、真山が引くくらいに衣食住が完全に保証された生活だった。
デリバリーサービスから始まった関係だったため毎日セックス三昧の爛れた生活を覚悟していた真山だったが、現実はそんなことはなく、規則正しい健康的な生活を送っている。
都心のタワーマンション上層階に、車は高級外車のSUV。
自分なんかじゃなくて小柄なオメガが並んだらめちゃくちゃ絵になるのに、なんてぼんやりと考えて真山は少し悲しくなる。
それでも、桐野は日々飽きずに愛を囁いてくれる。真山はくすぐったく思いながらも、ずっと憧れたアルファとの恋人という関係が現実となった喜びを噛み締めていた。
「慎くん」
朝。真山を起こしてくれるのは目覚ましのアラームではなく桐野の柔らかく澄んだ声だった。
鼓膜を震わせる声は優しくて、真山は幸せな気持ちで目覚めを迎える。
布団から顔を出した真山の目に映るのは、桐野の穏やかな笑みだ。
「んあ、おはよ、そーいちさん」
「おはよう。朝ごはんにしよう」
ベッドの上で挨拶を交わして、真山はのんびり起き出す。
先に起き出すのは桐野で、一通りの身支度と朝食の支度を終えたあと、まだベッドに潜っている真山を起こしてくれる。
真山は朝はそんなに強くない。まだ重い瞼を擦りながらパジャマ姿でダイニングセットに座ると、そこには桐野が用意した二人分の朝食が並んでいる。
朝は食べないことの方が多かった真山だが、桐野の家に来てからはちゃんと食べるようになっていた。
今朝のメニューはグリーンスムージーと、白いプレートに載ったトーストと目玉焼き、ウインナーとチーズだった。
「いただきます」
真山が手を合わせると、向かいに座る桐野が同じように手を合わせた。
「いただきます」
ホテルの朝ごはんみたいだと思いながら、真山はトーストに齧り付いた。
綺麗なきつね色に焼き上げられたトーストに歯を立てると、軽やかな音がした。表面はむらなく焼けていて、中はふわふわと柔らかい。パン自体がうっすらと甘くて、塗られたバターの塩気とよく合っている。きっと高いパンなんだろうと思う。
目玉焼きはベーコンエッグで黄身はとろとろの半熟。塩と胡椒のかかったところに醤油を少しだけ垂らして食べるのが真山の食べ方だった。
ウインナーとチーズも美味しいし、グリーンスムージーは見た目に反して青臭さもなくフルーツの味がして飲みやすかった。
朝食を終えると、真山は二人分の洗い物を済ませ、身支度をする。その間に桐野はリビングでラップトップを開き、メールチェックをしているようだった。
気温もだいぶ上がるようになってきて、服選びも春っぽい物を選ぶようになった。カットソーにジャケットと、細身のパンツ。桐野と並んでも恥ずかしくないように、持っている中でも品のいいものを選ぶようになった。忘れ物がないかリュックの中身を確認して、真山は部屋を出る。
身支度を終えた真山がリビングに行くと、桐野がパソコンを閉じたところだった。
「慎くん、忘れ物はないか」
ジャケットを羽織ってネクタイを整える桐野の姿を見るのが好きだった。
「ん」
「今夜は外で食べようか。おすすめの店があるんだ」
桐野は楽しげに言う。
週に二度ほど、桐野は真山を行きつけの店に連れて行ってくれる。だいたいが高級店で、その度に真山は住む世界の違いを見せつけられて緊張していた。
それでも、桐野と一緒に美味しいものを食べられるのは楽しかった。自分の知らなかった世界が見えて、桐野の見ている世界が見えて、そこに自分がいられるのが嬉しかった。
ひとつずつ、小さな夢が叶っていく。隣に桐野がいて、優しく笑ってくれる。その度に真山は甘やかな幸せを噛み締めた。
「ふふ、楽しみにしてる」
「迎えは駅でいいか」
「うん。夕方には終わる予定だから、連絡するね」
そんな会話をしながら二人で家を出る。
送迎は桐野がしてくれる。大学くらい自分でいけると言ったが、桐野には一緒にいる時間が少しでも長いほうがいいと言って押し切られた。
そんなことを言われたら、真山には断ることはできなかった。
最初は大学の前まで送迎してくれて、それは流石に目立ちすぎるのでやめて欲しいと頼んで駅までの送迎になった。
大学に着くと、真山は授業を受ける。真山がいるのは経済学部だ。四年になると授業は少ないが、退屈なので他の学部の講義を覗いてみたり、図書館で勉強したりしていた。卒業論文も就職活動もあるので準備もしておかなくてはならない。大学に行く日はたいていそうやって夕方まで時間を潰す。
帰りは、真山が駅に着く頃には桐野がもう待っている。ロータリーにいても、桐野の車はすぐわかった。黒い塗装はいつも綺麗に磨かれて艶がある。車にはそんなに詳しくない真山にも、見れば一目でわかる。
真山が近付くと、ドアのロックが解除される。
「おつかれさま、慎くん」
「そーいちさんも、おつかれさま」
助手席に乗り込むと、運転席にいる桐野の笑みが真山を迎えた。
真山も笑みで応え、言葉を交わすのがいつもの流れだった。
「少し時間があるから、買い物に行ってもいいだろうか。明日の朝のパンがないから」
「うん」
真山がシートベルトを着けると、二人を乗せた車は静かに走り出した。
桐野は慣れた様子で車を運転する。社長ともなれば運転手がついていそうなのに、桐野は自分で運転している。運転も上手い。もちろん車の性能はあるが、車の性能を過信した運転ではない。ブレーキは優しく、加速も穏やかだ。
「そーいちさん、運転上手いよね」
「そう、だろうか」
「運転手はいないの?」
「ああ。自分で運転したくて」
「そうなんだ」
桐野は意外と自立心がある。しっかりしているしちゃんと考えている。わかってはいたが、自分に比べたらずっと大人だ。
二人を乗せた車は、幹線道路から住宅の多い細い道に入り、裏通りのコインパーキングに停まった。
「この近くに行きつけのパン屋があるんだ」
桐野に連れてこられたのは裏通りにある小さなベーカリーだった。店に入るとパンの香ばしい匂いがする。こじんまりとした個人経営のベーカリーのようで店舗はそれほど広くはないが、人気店のようで閉店が近い時間なのも相俟って残っているパンはほとんどなかった。
桐野は袋に入った食パンを買った。桐野のお気に入りで、予約をしていたらしかった。茶色の紙袋に入れて渡され、二人は店を出た。
買い物を済ませて桐野のおすすめの店に向かう。パン屋からは歩いていける距離だった。
大通りから一本奥に入った静かな通りにあったのは、暖簾のかかった静かな佇まいの門構えだった。料亭か何かなのだろう。高級感の漂う門の前まで来て、こんな店には入ったことがない真山は二の足を踏む。
「俺、この格好で平気?」
一応ジャケットは着ているが、割とカジュアルな格好をしてきてしまった。桐野はスーツ姿だが、いかにも大学生な格好で真山は少し心配だった。
「個室だし、それくらいなら大丈夫だよ」
「こ、個室?」
真山の心臓が跳ねた。緊張で喉奥がきゅうっと締まるようだった。
桐野に続いて暖簾をくぐると、小石の敷き詰められ通路があり、その先に引き戸の入り口があった。
桐野が引き戸を開ける。
そこは落ち着いた金色の光に包まれたエントランスで、制服姿の男性スタッフが出迎えてくれた。
「桐野様、お待ちしておりました」
真山と桐野が通されたのは個室のテーブル席だった。部屋の奥の窓からはライトアップされた日本庭園が見える。部屋は照明が落とされ、柔らかな光に包まれている。
二人でかけるには広く感じる席に、真山は桐野と向かい合って座る。
「懐石もいいんだけど、ここは親子丼が美味しいんだ。親子丼なら慎くんも食べやすいだろう?」
桐野の表情が柔らかく綻ぶのを見て、真山もつられて頬を緩め、頷いた。
きっと桐野はここの親子丼が好きなのだろう。声も心なしか柔らかい。
懐石なんて食べたことがない真山だったが、親子丼なら、緊張せずに食べられそうだった。
「じゃあ親子丼にしようか。慎くん、天ぷらは? 天ぷらもおすすめなんだ」
「ふふ、天ぷらも食べる」
「わかった」
桐野の声はいつもよりも明るい。真山に絡まっていた緊張もだいぶ解けて、先程までうるさかった心臓も今は穏やかだ。
桐野はお茶を持ってやってきたスタッフに注文を伝えた。
真山はまだ桐野のことを何も知らない。恋人になったものの、名前と職業以外のことはまだ知らないことばかりだ。
一緒に食事をして、他愛のない話をする。少しずつ相手を知って、自分を知ってもらって。
今まで、したくてもずっとできなかったことだ。
真山がモン・プレシューで出会ってきた誰かとは、いつだってセックスありきの関係だった。もちろん、気持ちいいことは好きだ。好きだけど、それだけでは寂しいと気がついていた。
真山がアルファだと知ってなお、愛してくれるアルファがいることも知らなかった。
真山はずっと、恋愛がしたかった。
今まで取りこぼしていた分を取り返すように、真山は桐野にのめり込んでいる自覚があった。
真山の中で、桐野の存在は随分と大きなものになっていた。
目の前の柔らかな笑みが、ずっとそこにあってほしい。自分だけを見て、自分だけに微笑んでほしいと思った。
注文してしばらくすると、漆塗りの上品などんぶりが運ばれてきた。お吸い物の椀と、香のものもセットだ。
蓋を開けると出汁の効いた割下の匂いが食欲をそそる。炭火で炙った鶏肉には色の濃いとろけるような卵が絡んでいる。
「美味しそう……」
「温かいうちに食べようか」
「うん」
割下の匂いに誘われるように、真山は手を合わせる。
「いただきます」
真山に倣って、桐野も手を合わせた。
「いただきます」
二人で手を合わせてから、箸を取る。
一口食べると上品な出汁の味がした。鶏肉も弾力があって、噛むと肉汁が溢れる。卵に埋もれた玉ねぎはとろけるようで甘い。ちょうどいい水加減で炊かれた米は甘味があってそれだけでも美味しかった。
チェーン店の親子丼しか知らない真山には新鮮だった。あれも十分美味しいが、目の前のこれは別の食べ物のようだった。
別に持ってこられた皿には天ぷらが載っていた。海老、たらの芽、こごみ、ふきのとう、そら豆、さつまいもに白身魚のキスと定番の具材に春の食材が程よく混ざっている。さっくりと揚げられた軽やかな衣は、軽やかな歯応えで食材を包んでいた。
「そーいちさん、おいしい」
「よかった」
「俺の知ってる天ぷらと違う」
真山の知っている天ぷらとは別物だった。思わず漏らした感嘆の声に、桐野は笑みを深めた。
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