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第2話 優しい場所

 無意識に視線を巡らせた先には、右手のカウンターに四席、左手に四人掛けが三席ある。それほど広い店ではないが、適度な間隔があり狭苦しい印象はない。  木目の綺麗な床は、柔らかな照明を受けてつやつやとして見える。さらに店の扉と、通りに面した壁面上部には窓があり、雨曇りの中でも室内は程よい明るさになっていた。 「ほら、これ」 「え? あっ、すみません」  しばし入り口で立ち尽くしていたが、ふいに声をかけられて雄史の肩が小さく跳ねる。慌てて声がしたほうへ顔を向けると、カウンターの内側からタオルが差し出されていた。  それを目に留めて、遠慮がちに足を進めれば、彼はやんわりと目元を和らげて微笑んだ。  その顔をじっと見つめ返して、ふと気づく。瞳が不思議な色をしている。グレー、青みがかったブルーグレーの瞳だ。  それは見ているだけで優しさが伝わるような、柔らかい光を含んでいる。さらに目鼻立ちがはっきりした精悍な顔つきは、羨ましく思えるほど整っていた。  さっぱりとした短髪の黒髪は艶やかで、体躯は雄史よりも大きくて、文句の付け所がないくらいにスタイルがいい。  赤みの強いくせ毛で、少し童顔で、毎日鍛えているのに着痩せしてみられる、自分とは明らかに違う。完璧そうなその人が急に妬ましくなった。  大して歳も変わらなさそうなのに、こういう人は失敗に悩んだりしないのだろうな、なんてことまで考える。  けれどなんの邪気もなく見つめられて、小さく首を傾げてくるその仕草に、馬鹿なことを考えたと思い直した。 「スーツ、着替える? 乾かしてやるよ。かなり濡れてるだろう?」 「いや、でも」 「ほら、これ、貸してやるから。二階が自宅なんだ。乾燥機で服と靴、乾かすから洗面所で着替えて来いよ」  ぼんやりしているあいだに用意してくれたのか、Tシャツにスウェット、サンダルまで差し出されて、あまりの至れり尽くせりに雄史は戸惑いを覚える。だが正直言えばその申し出はありがたい。  濡れたシャツやズボンが肌に触れてひどく冷たかった。 「ありがとうございます」 「うん」  先にスーツの上着や靴などを引き渡し、着替えを持って雄史は洗面所へ向かう。  扉を閉め、一人きりになると途端に大きなため息が出た。初対面にもかかわらずここまで優しくされると、妬ましいと思ったことが恥ずかしくなる。  最近ついていなくて、危うく八つ当たりをするところだった。  もそもそと長袖のTシャツに袖を通すと、衣服から漂う柔軟剤の優しい香りにほっとする。人に労られると嬉しいものなのだと、久しぶりにしみじみと実感した。  しかし袖口にぎゅっと顔を押し当て、香ってくる匂いを深呼吸とともに吸い込んでから、はたと我に返る。  いくら落ち着く匂いがするとは言え、これはいささか変態くさい。気持ちを入れ替えると、慌ただしく着替えを済ませて洗面所を出た。 「ありがとうございました」 「座ってな。それも乾かしておくから」 「はい」  濡れた衣服を手渡せば、彼はカウンターで腰かけた雄史の前に、スープカップを置く。白いカップの中身を覗くと、甘いコーンの香りが漂ってきた。コーンポタージュだ。 「飲んで待っててくれ。あとでコーヒーを淹れてやるから」 「なにからなにまで、すみません」 「いいよ、気にするな」  ふっと微笑むと、彼はカウンターの向こうにある戸に手をかけた。壁際に並んだ棚の天井が傾斜になっているので、おそらくそこには二階に繋がる階段があるのだろう。  開いた向こうに姿を消すと、小さな靴音が耳に届き、彼が階段を上っていったのがわかった。  店の主がいなくなると、静かな空間で途端に一人きりになる。それでもそんな静けさがいまは心地良く思えた。ここは優しいぬくもりを感じさせる店だ。  視線の先、棚に並ぶキャニスターに入っているのは、コーヒー豆だろうか。カップや皿が綺麗に整頓されていて、あの人が几帳面な性格なのだろうと想像できる。  さらりとした手触りの木目のカウンターもシミ一つない。微かに聞こえてくる、壁掛け時計の秒針の音がまた気持ちいい。  口に含んだ温かいポタージュスープが、冷えていた身体に染み渡り、思わず深い息がついて出た。 「はあ、おいしい」 「にゃぁーん」 「……ん?」  温かなスープを味わっていると、ふいに静かな中に猫の鳴き声が響いて、カウンターの向こうでカタンと音が聞こえる。  さらにとんとんっと弾むような小さな音がしたかと思えば、突然カウンターの上に猫が現れた。エメラルドみたいな瞳にブルーグレーの毛並み。  長いしっぽがぴんと縦に伸びているけれど、先っぽが少しだけ折れている。鍵しっぽというやつだ。  興味深げに雄史を見つめるその猫は、優雅な足取りで近づいてくる。けれどそれに誘われるように手を伸ばしたら、ふんふんと鼻先を動かしたあとに、急にボッとしっぽを膨らませた。  そしてぶんぶんと左右に振り回す。 「えっ? なんか怒ってる? 嫌な匂いでもしたかな?」  現れた時はご機嫌な様子だったのに、突然の変化に戸惑う。雄史が目を瞬かせていると、行き場をなくしていた手に勢いよく噛みついてくる。 「いっ、痛いよ。ごめんごめん。なにか嫌だったのかな?」  皮膚が貫通するほどの力ではないが、ひどく機嫌を損なっているのはわかった。いまもまだ膨らんだしっぽを揺らしている。 「あっ、こら、にゃむ!」  無理矢理に引き剥がすわけにもいかず、どうしようかと雄史が考えあぐねていたら、ふいに慌てたような、上擦った大きな声が室内に響いた。視線を向けると、戻ってきた彼が驚いた表情を浮かべている。 「悪い!」  しばらくあ然としていたが、すぐさま我に返った彼は大股で近づいてきて、猫のお尻辺りをぽんと叩いて気をそらしてくれる。 「いつもはこんなこと、したりしないんだけど」 「大丈夫です。幸い、歯形だけですし」 「ほんとか? 傷になっていたりしないか?」  猫を抱き寄せて、彼は途端にひどくオロオロとした様子を見せた。見た目は隙のなさそうな男前なのに、狼狽している姿が雄史の目にはとても可愛らしく映る。  キリッとしていた眉が下がって、なんだかますます可愛い。 「にゃむ、なんで人様の手に噛みついたんだ!」 「なぁーなぁー」 「文句を言うんじゃない。怪我なんかさせたらお前、もう店には出してやらないんだからな」 「なー! なー!」  顔を見合わせる彼と猫のやり取りに、思わず雄史はぷっと吹き出すように笑った。一人と一匹――本当に言い合いの喧嘩をしているようで、怒っている彼には申し訳ないが和んでしまったのだ。 「ほんとに平気です。にゃむくん? ちゃんかな? 可愛いですね。ロシアンブルーですよね?」 「ああ、そう、雌だ。拾ったからちゃんとした血統は、わからないんだけどな」 「ご主人様が大好きって感じですね」 「うん、わりとべったりかな。だけど普段はお客にもかなり愛想がいいんだけど」 「俺はなにか気に入らなかったんですかね?」 「うーん」  にゃーにゃーと、彼に甘えた声を向けていたにゃむは、雄史が視線を向けるとフーッと威嚇した声を上げる。その機嫌の変わりように二人で首を捻った。 「なんだかすまないな。お詫びにコーヒーとデザートをご馳走するよ」 「えっ! 駄目ですよ。俺、してもらってばっかりで」 「いいからいいから。なんかちょっと落ち込んでいたみたいだし、甘いもの食べたら元気が出るぞ。嫌いじゃない?」 「……じ、実は、甘いもの、すごく好きです!」 「うん、ならいいな」  つい力んでしまった雄史に彼はふんわりと笑う。それを見て、笑うとやはり印象が柔らかくなって、可愛いなと思った。  それは女性的な可愛らしさとはまた違う。どう違うのかと言われたら、答えは見つからない。  それでも雄史は目の前のこの人が好ましく思えた。

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