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第3話 半年先の約束

 カリカリと豆を削る音が静かな室内に響く。  いまどき手挽きで淹れてくれるとは珍しい、そう思いながら雄史は彼の手元を覗いた。  小さなミルは随分と年季が入っているように見える。それは汚れているとか、傷だらけとかいうわけではなく、彼の扱いや仕草から随分と手に馴染んでいるように思えたのだ。  コーヒー豆は、ミルでただガリガリと適当に挽けばいいだけではない。ネジの調整、挽き加減の違いだけで、コーヒーの風味が変わるほど繊細だ。 「どうぞ」 「んーっ、いい香りですね」  スープカップと交代して、まず置かれたのはコーヒーカップ。ソーサーから持ち上げると、さらに香りが鼻先に広がった。そっと口を付ければ、程よい苦みと酸味が感じられる。 「ミディアムローストのモカですね」 「へぇ、コーヒーがわかる人なんだ」 「えへへ、コーヒー党なんです。利きコーヒーできちゃいます」 「あんたに出す時は気をつけなきゃだな」 「このコーヒーに文句は付けないですよ。すごくおいしいです。久しぶりにこんなおいしいの飲みました」  コーヒーが好きでよく飲みはするものの、有名チェーンのコーヒーも、町中のカフェのコーヒーも、正直なところ雄史は雑味を感じておいしいとは思えずにいた。  専門店で飲むことも、自分で豆を挽いて淹れることもあったけれど、最近は仕事に追われてそれもご無沙汰だった。 「それは良かった。じゃあ、ケーキは?」 「んっ、甘いものは食べられれば、なんでも好きです」 「……っ、雑だな。まあ、いいか」  こらえきれないと言ったように小さく笑った彼に、雄史は頬が熱くなっていくのを感じた。けれどカップを引き寄せて視線をさ迷わせると、優しく微笑んでケーキの皿を目の前へ置いてくれる。  それはパウンド型のフルーツケーキだった。  二枚あるそれは断面から見ても、ドライフルーツやくるみがたくさん入っているのがわかる。表面に塗ってあるブランデーがほんのり香って、ゴクリと唾を飲み込んでしまった。 「あ、アルコールは平気だったか? 結構ラム酒が効いているんだけど」 「かなりいける口です!」 「それなら大丈夫だな」 「おいしそう、いただきます!」  早速とばかりに柔らかなケーキにフォークを通すと、小さく切り分けたそれをぱっくりと開いた口の中へ運ぶ。  そうするとふんわりと鼻腔にラム酒の香りが広がり、さらにはじわりとドライフルーツの甘みが舌に伝わる。  洋酒が染み染みのフルーツとケーキは絶妙な甘さで、くどさもなく、これまで食べたフルーツケーキの中でダントツだった。 「んんー! おいひい」  おいしさのあまり口元が緩んだ。思わず頬に手を当てたら、おかしそうに笑われたが、雄史は夢中で一枚ぺろりと食べきってしまった。 「はあ、……おいしいって、幸せですね」 「ん? 元気、出たか?」 「はい、気持ちが落ち着いた気がします。最近はもうすごく毎日が嫌で、くさくさしてたんですけど。おいしいものを食べる余裕もなかったんだなって、思いました」 「そういうこともあるさ」 「あの……また、ここに来てもいいですか?」 「もちろん。いつでもどうぞ」  窺うように視線を上げた雄史に、彼は柔らかく目を細めて笑う。その笑みを見るとなぜだか、ひどくほっとした気持ちになった。口の端がむずむずとして、自然と持ち上がってくる。 「この商店街は仕事でよく通るんですけど、こんなところにカフェがあるなんて、初めて知りました」 「大きく看板を出しているわけではないし、外から中があまり見えないから、少しわかりにくいかもな」 「いつからやってるんですか?」 「今年の春に三年目を迎えたところだ」 「じゃあ俺と一緒ですね。俺もいまの会社に勤めて三年目です」 「ふぅん、それなら歳は三つ下くらいか」 「今年で二十八、くらいですか? やっぱり、あんまり俺と違わないんだ。すごいなぁ、若いのにお店を持っちゃうなんて。俺はたぶん一生社畜、ですね」  自分の言葉で、上向いていた気持ちがふいに萎れそうになった。気づけば羨望の眼差しを向けて、諦めを含んだ深いため息を吐いていた。とはいえ雄史は未来に対して、特別な夢や希望があるわけではない。  これは所詮、羨ましがりのないものねだりでしかない。  けれどそんな少しばかり皮肉が混じった言葉にも、彼は嫌な顔をまったく見せなかった。これが客商売だからと言うこともあるのだろう。それでもまっすぐに見つめてくれるブルーグレーの瞳には、優しい色が浮かんでいた。 「会社勤めは自分には向かないから、頑張ってるあんたは偉いと思うよ」 「あっ、もっと褒めてください! 最近、全然褒められてないんです!」 「そうなのか? 毎日、通勤電車に乗って会社に行くだけで偉いよ。落ち込むくらい、真剣に仕事に向き合っててすごい」  初めて会った人になにを求めているのだと、普通だったら馬鹿にされただろう。それなのに淀みもなく、彼の口からは労いの言葉が出てくる。大丈夫、頑張ってるよ、そんな単純な言葉さえひどく胸に染みてきた。 「んふふ、なんか元気が出ました」 「それはなによりだ」 「ここにいると、なんだか気持ちが軽くなります。そうだ、ここのお店って、名前になにか由来があるんですか?」 「キンクドテイルは鍵しっぽ、って意味だ」 「ああっ! にゃむちゃんのしっぽ」 「フニャー!」  カウンターの端にある猫ベッドで、パタパタとしっぽの先を揺らしていた彼女は、雄史に名前を呼ばれた瞬間、機嫌の悪い声を上げる。バンバンと音を鳴らし始めた、長いしっぽの先が可愛い。  ちょこんと折れたそれはチャームポイントだ。 「鍵しっぽは幸運の印と言われてるんだ。幸せを引っかけるってな」 「素敵ですね。にゃむちゃんと会って、幸せになりましたか?」 「そう、だな。……いいことは、あったかもしれない」 「ふぅん、いいなぁ。俺も俺の幸せ、見つけたいです」 「幸せって、意外と身近にあるものだと思うぞ」 「そう、ですかね」  目元を和らげて笑う彼の顔を見ながら、小さく息をついてフルーツケーキを一口。  どれもこれも雄史には羨ましいことばかりだ。男前なだけではなくて、優しくて、温かくて、おいしいもので人を幸せにできる。自分もそんな誇れるなにかがあったら、いまある人生は違っていただろうかと考える。  それでももう一口、フルーツケーキを食べたら、甘さが染み渡って、ささくれた気持ちが穏やかになった。 「ケーキって、種類たくさんあるんですか?」 「あるよ。日に三種類くらい。日ごとに一種類は必ず違う」 「あ、もしかしてクリスマスケーキ、特別に作ったりとかしますか?」 「クリスマス? 気が早いな。半年先だぞ。……うん、まあ、作るよ。食べに来たらいい」 「はい! 絶対に食べに来ますね!」  まだ梅雨空の今日――半年先の自分なんて想像もつかないのに、楽しみが増えたら気持ちがわくわくとしてきた。  この先もため息をつくたびに、へこたれてしまいそうではあるが、鼻先にぶら下がったお楽しみがあれば、頑張れるような気がする。  けれどそんなことを考えて頬を緩ませる雄史に、彼は不思議そうに目を瞬かせた。 「そうだ。マスターさんのお名前、伺ってもいいですか? 俺は、高塚雄史って言います。ここの隣駅の会社で営業マンをしてます」 「ふぅん、雄史か。……自分は、これ」 「ん? ……あっ、加納、志織さん」  カウンターの上に滑らされた、猫のイラストが入った名刺。それに書かれた名前を呟けば、これからもご贔屓に、そう言って彼――『志織さん』は、また柔らかい笑顔を見せてくれた。

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