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第7話 高鳴る鼓動

 昨晩、長居したカフェを出たのは、閉店時刻の二十一時を三十分ほど過ぎた頃だ。  いくら彼の自宅が二階だとは言え、毎度毎度、遅くまで居座るのはどうかと思う。しかし自分でも言葉にしたとおり、いつも雄史はあそこへ行くと根っこが生える。  ひどく居心地が良くて、行かなければ落ち着かないし、行けば行ったで帰りたくなくなる。  不思議な引力でもあるのでは、などと馬鹿げたことを考えるが、単にここ一番の癒やしスポットなのだろう、と思っていた。 「やっとお昼だー! 今日は朝から忙しかったな」  キーボードの上で動かしていた手を止めて、パソコン画面の時計を見ると、正午をかなり過ぎている。目線を上げて周りのデスクを見回せば、大半の人がお昼に出ているようだった。  いつもならば雄史も会社の食堂へ足を伸ばすのだけれど、今日は足元の鞄に手を伸ばす。  そこからハンカチに包まれたものを取り出すと、鼻歌でも歌い出しそうな調子で結び目をほどいて、現れた弁当箱の蓋を開いた。 「ごっはん、ご飯っ」  二段の弁当箱は、敷き詰められた白米とおかかの載った下段と、惣菜がぎっしり詰まった上段に分かれている。詰め込んだのは自分なのだが、雄史は瞳を輝かせて箸を手に取る。  けれど弁当へ箸先を伸ばそうとしたところで、声をかけられた。 「高塚、これ見て、……あれ? 珍しい、弁当? なに彼女?」 「違います。どれですか?」  背後から顔を覗かせて来る部署の先輩に、ランチタイムを邪魔された雄史は、少しばかりムッとした。それでもちょっとだけ――の言葉に、渋々のていで紙の束を受け取る。  だが書類の数字をまじまじ見ていると、後ろの人物もまじまじと弁当を覗いていた。その視線に気づき、書類で遮ったらもの言いたげな目線を向けられる。 「こんなにしっかりした弁当、自分でじゃないだろ? やっぱり彼女できたんだ?」 「できてません! いまだに独り身です! これはカフェのマスターさんが、残り物をくれたんです」 「ああ、最近行きつけって言う?」 「そうです。これ、このページのこことここの数字が違ってます。あとで事務の子に直してもらいますね」  赤ペンで書類にチェックを入れて、右手にある確認の文字が貼られたファイルトレーに置く。これで用件はおしまいかと思ったが、後ろの視線がなくならない。眉を顰めて雄史が振り返れば、ぱっと彼の表情が明るくなった。 「今度、俺も連れて行けよ。うまいんだろ? 飯とかケーキとか」 「嫌ですよ」 「なんでだよ。いいじゃねぇか。お前、そこに行くようになってから、仕事が絶好調じゃないか。その秘訣を味わわせろ」 「絶対にやです! あそこは俺の癒やしの場所なんです! 知っている人と行きたくないです」 「やっぱり彼女と一緒にとかそういうの?」 「ち、が、い、ます! もう! 吉田先輩もさっさと食事に行ってください。時間なくなりますよ」  彼とは甘いもの、おいしいもの好き男子同盟として、普段は色々な情報を共有する仲ではあるが、なぜだか今回ばかりはあの場所を教えたくなかった。  なおも食い下がろうとする厄介者を追い払って、ため息とともに雄史が弁当に向き直ると、五分以上も消費している。  ゆっくり食事もできやしないと、またため息が出るが、ひょいとつまみ上げたミートボールを口にしたら、ふにゃりと口元が緩んだ。 「……しまった。食べる前に写真写真。志織さんにお礼しなきゃ」  一つばかり減ってしまったが、まあいいと、弁当にカメラを向けて、撮ったものをそそくさと送った。一緒に出かけるからと、昨日あの人が連絡先を教えてくれたのだ。  おいしいご飯いただきます。そうメッセージも送ってから、今度は両手を合わせていただきます、と頭を下げる。そして再び雄史は弁当へ箸を向けた。 「ミートボール、タコさんウィンナー、ニンニク抜きのペペロンチーノ、卵焼き。野菜のマリネと、もやしと大根のナムルは作り置きかな? 残り物って言ってたけど。手がかかってる気がする」  ミートボールはハンバーグの残りだろうが、あんかけになっているし、わざわざウィンナーの形も整えてある。  パスタは茹で置きだとしても炒めて作ったのだろう。さらにあの店で卵焼きなんて出ていただろうかと首を捻る。  店で出るマリネには、ブロッコリーが混じっているのだが、一度よけたら次からは出てこなくなった。  なんだか色々と気を使われているように思えるが、どれもおいしくて箸が止まらない。ごま油の利いたナムルはご飯が進む味付けで、黙々と箸を動かした。 「あ、返事、来た!」  弁当に夢中になっていると、デスクの上のスマートフォンがメッセージの着信を知らせる。  タップして確認するとやはり志織からだったようで、お疲れさまの文字と、遅い時間だな、ゆっくり食えよと、労りの言葉があった。  それを見てますます頬が緩んで、変な含み笑いをしてしまう。 「んふふ、志織さん優しい。すごく、おいしい、です、よっと」  行儀悪く指先だけで返信を打ち込むと、今度はすぐメッセージが表示されて――それは良かった。今日は楽しみにしている、と返ってくる。  なにげないその言葉は別段珍しいわけでもないのに、胸の音がまた大きく跳ねた。 「なんだろう? 最近どっか悪いのかな、俺」  このところおかしい自分の反応に、胸に手を当てながら雄史は首を傾げた。ドキドキとする胸の音はまだ止まなくて、気持ちが変にそわそわとする。  けれど自分でもよく理解できていない、この反応に戸惑いはするけれど、心はとても温かかった。 「志織さん、癒やし系だよな」  暗くなった画面をコツンと指先でつついて、バックライトを灯すと、先ほどの文字を目で追う。不思議とそこからも、いつもの優しさとぬくもりが感じられた。  それとともに胸の奥からふんわりと、湧き上がってくる気持ち。  嬉しい、楽しい、もう一つは――と、思考を巡らせたところで、人の気配が増えて思考が途切れる。時刻を見ると休憩時間はあとわずかだ。  慌てて弁当に箸を向けた雄史は、なるべくたくさん味わうように、ゆっくりおかずを堪能した。

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