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第1話 それは反則
榊原和弘の第一印象は胡散臭い営業マン。笑顔が嘘っぽい、話が上手い、情報を死ぬほど持ってる、飲みが上手い。営業先を持ち上げるのも上手い。
胡散臭い、できる営業マン。
あれは、三田義春が新卒で今の会社に入社して一年経つか経たないかの頃だった。食品専門商社の営業として、先輩の指導のもと仕事を任され始めたばかりだったが、ひとつ大失敗をやらかしたことをデスクの前で悟っていた。画面に映し出されている、客先である大手菓子メーカーからのメールには、新商品発売に向けたスケジュール確認の連絡がきていた。日付がさはなんと一ヶ月前。読んだはずなのに読んだ記憶がなく、メールを整理していてその存在に気がついた。
マウスを持つ手の指先から段々と血の気が失せていく。食材原料の材料確保と納期調整、そしてその納品までを行うのが三田の仕事で、つまり発売開始へ向けて、原料メーカーへ発注をかけて在庫確保をしてなきゃいけなかったはずなのに、まるっと手配漏れをしていたのだ。
つまり、原料メーカーの担当営業である榊原に、連絡するのを忘れていた。
詰めていた息をなんとかそろそろと吐き出して、大丈夫大丈夫と自分に言い聞かせる。
客先は長年付き合いのある太客の上に大手で、取引が安定しているからこそ三田のような新人に勉強がてら任されたわけだが、だからこそそれを落とすわけにはいかなかった。そしてそれはつまり三田の買い先である榊原の会社にとっても、落とすわけにはいかない太客で、その時の在庫についてなんとか融通をきかせてもらわなければならなかったし、ぎりぎり融通はきくものだった。そういうものなのだ。でかい取引は。
三田は広い背中に冷や汗をかきつつ、なんとかなるなるなるに決まってると自分に言い聞かせながらスマホを手に席をたった。
給湯室へ向かい、人がいないことを確認してスマホをタップした。教育係の先輩にはここに来る道すがら状況を伝えたし、先輩経由で上司にも報告は上がったものの、やはりこの裏取引みたいな頼み事を人前でするには三田の肝は小さすぎて、人気のない場所を選んだというわけだ。
うろうろと歩きながら繋がるのを待ち、出てきた榊原の声がいつも通り明るいことに安堵して、三田はかくかくしかじかと説明をした。
榊原は、数秒間電話先で黙り込んだ。
三田の会社は新宿近くのビルの十階から十二階を借りていて、真ん中のエレベーターホールを中心に楕円形に部屋が連なっているような場所だった。カーペット敷きの廊下を挟み、セキュリティのかかったドアが並ぶ。そして、エレベーターのある楕円の中心部には、トイレや給湯室など水回りも集められていた。
榊原の沈黙によって、その廊下の向こうから聞こえてくるオフィスの音が、急にわんわん耳元で響き始めた気がした。それくらい、電話先の沈黙は鋭かった。
「……あの……?」
出てきた声が若干震えていて、情けなさにスマホを持つ手に力が入る。
「あのですね」
響いてきた低音に、びくっと肩がすんだ。耳に当てていたスマホを落としそうになって、慌てて握り直す。
「今連絡してきて、私にどうしろっていうんですか?」
「え……」
榊原のこんな声音と詰めるようや口調を聞いたのは、彼に挨拶をされた半年前以来、始めてだった。
「弊社がもってる原料にも在庫ってのがあるんですよ。在庫。わかります?あとね、生産ラインだって、一か月以上前から決まってるんですよ。説明しましたよね?今からその量をどうやって集めろっていうんですか」
矢継ぎ早に話されて、三田はもう何も言えなかった。これまでも足りなくなった在庫のためや、取引先都合の緊急生産で連絡をとったことは何度かあって、彼はそのたびに「ちょっと待ってくださいね」と電話を置いて、その一時間後くらいに「いけますよ三田さん」と軽い口調で言ってくれていた。
だから、今日もそういう口調が返ってくると思っていたのに。
「三田さん、あんた、ナメてるでしょ」
「は……」
ズバッと言われた一言に、今度こそ喉の奥が焼けるように痛くなった。目から汁を溢さなかったのはせめてものプライドだ。大学の柔道部で先輩にやたらと絞技をくらったときだってこうはならなかった。
「これだけじゃ何も動けないですね〜……、まあ、一応工場と倉庫にも聞いてみますけど」
「あ、の……」
「話はそれだけですか?すみません、このあとあるんで。じゃ」
プツッと切られたスマホからは、もうプープーという、電話を切られた事実を知らせる合図しか流れてこず、三田はその画面を茫然と眺めることしかできなかった。
第二の印象は、そう。
やばいほど怖い、だった。
三田はその後数分かけて給湯室で泥みたいなコーヒーを啜りながらなんとか自分を落ち着かせ、先輩のもとへすごすごと戻った。先輩も先輩でもちろん三田のことを叱責したが、榊原との事の顛末を説明したときは「まあ当然そうなるな」と言われただけだった。一応三田は榊原にとって営業先で、つまり客で、例え彼が三田より十五歳くらい上だとしても、あんなふうに叱られるなんてあることなのか。そんなことを考えていたら顔に出ていたらしい。先輩は呆れたような困ったような、なんというか、若い頃の自分を見てしまって気まずい、みたいなそんな半端な表情を浮かべた。
「俺らはよ」
「はい」
「メーカーとお客あってだから。榊原さんはその辺きちんとわかってんだよ」
「……はい」
恥ずかしさが、みみずが這うように背中をじわじわと苛んでいった。
三田は自分の取引のバックにいる取引先の太さを、その威光を信じていた。信じすぎていたわりに、その有り難みとその重さを理解できていなかったというわけだ。そして、自分の会社がその威光を借りただけの狐だってことも。
後日、というかその翌日。三田は先輩と上司と雁首を揃えて、榊原の前に座っていた。
「うちのやつが申し訳ない」
四十になりつつあるらしい課長が、榊原に頭を下げ、先輩もそれに倣って、三田も一緒に頭を下げる。
榊原は、あの胡散臭い笑顔で笑っていた。胡散臭いと思う理由は、彼の目だ。目尻に少しだけしわの寄ったその奥二重の目の奥はいつも笑ってない。
「もー、ほんと勘弁してくださいよー」
「ええ、再発防止に務めますんで」
「お願いしますね?」
課長と榊原の様式美ばったやりとりは続く。そして、他取引先向けの原料と、在庫だけでは補いきれない分を作るための生産ラインを確保してくれたらしい彼がその説明をし始め、三田は泡を食ったようにそれをメモしまくった。
榊原は、やはりやり手の営業マンだった。三田が電話したのが昨日の朝、先輩経由で課長から部長に報告があがり、部長から榊原の上司へ連絡が入ったのがその直後。そこから三田の指定した量を自転車操業でなんとか間に合うように生産工程を組んでくれた榊原は、そのスケジュールを携えて、今日、この午後にここにいるというわけだ。
すげえな、と素直に思った。
「じゃあ、そういう方向で進めますんで」
榊原がそう言って話をまとめ、課長があらためて礼を述べた時、俺はここしかないと思って声を張り上げた。
「あ、あの……!!っ……本当に、申し訳ありません!!」
頭を下げて、しばらくしてから上げたとき、榊原は無表情だった。無表情で、「えー、まあ、やらなきゃいけませんでしたしね」とさらりと言っただけだった。さっきまで課長に向けていた笑顔はどうなったのか。
変な空気になりそうになったところを、課長が気をきかして、「まだやってもらわなきゃいけないことあるし、今日はこの辺でね」と榊原を立たせ、エレベーターホールまで誘導していった。
別に許して欲しかったわけじゃなかった。ただ、昨日の榊原の声音から自分が間違ったことをしたんだと理解したし、それなら誠意をもって謝るべきだと思っただけだった。
しかしそれはそれとして、あまりにも薄いリアクションに、仕事って、仕事の対人関係なんてこんなもんかな、とまあまあ重く落ち込んだ。昨日から神経が張り詰めていたから余計に、だ。
エレベーターが三田たちのいる階に停まって、榊原が乗り込んで、そのドアが閉まりかけた時、箱の中の彼が「あっ」と声をあげて開くボタンを連打した。
「どうした?」
課長が閉まりかけたドアに手をかけて、榊原に問う。
「いや、そういえば三田さんに渡そうと思ってたサンプルあったんですけど、車に置いてきたこと思い出して」
「それならこいつ連れてって持たせてください」
先輩が三田の背をグッと押し、油断していた三田はつんのめるようにエレベーターに乗り込んだ。
「あ、じゃあちょっとお借りします」
そんな人をモノみたいに、と思わなくもなかったが、エレベーターの扉がしまって二人きりになった途端、そんな思考はどこかへ飛んでいった。ひたすら気まずい。
三田はなにも喋れず、榊原も普段の営業トークはどうしたと詰りたくなるくらい何も喋らなかった。おそらく、わざとなのだろう。地下につき、薄暗い駐車場についてからも、榊原は先をスタスタと歩くだけで三田の方はちらりとも見ようとしなかった。
榊原の営業車は軽のワンボックスカーで、後部座席にはサンプルだろう紙袋が死ぬほど積まれていた。メーカーの営業って大変だなぁとぼんやり思っていたら、その後部座席をごそごそと漁っていた榊原がようやく顔を上げ、「あ、これです」と三田に紙袋を渡してきた。榊原の会社が開発した新商品でうんたらかんたらと、薄暗い地下駐車場の照明の下で説明を受ける。メモも取れないから、聞いた側からどこかに行ってしまいそうになる情報を必死になって頭に叩き込んだ。
だが、榊原の本来の目的がそのサンプルになかったことを、三田は数秒後に理解することになる。
「ま、また持ってきて説明しますよ」
「え、あ、助かります……」
じゃあ今のはなんだったんだ、と思いかけた三田の脳みそは、次の瞬間にフリーズした。
榊原は、これまで見たことのない皮肉っぽい笑顔を浮かべていた。綺麗に揃えられたショートヘアから頭良さげに美しいフォルムで張り出した額と意志の強そうな眉の下、駐車場の出口から漏れる光に照らされた奥二重の目、その奥に、嘘じゃない笑いが滲んでいた。
「きちんと謝れんのは、悪くない」
榊原に、三田は多分これまでにないほどのアホヅラを晒していた。
返事なんか、できるわけもなかった。
そんな三田を置き去りに、榊原はさっさと車に乗り込んで、さくっとエンジンをかけた。「もうちょいそっち行ってくれます?」という言葉に、気もそぞろに足を後方へ動かしたら、白の軽はなんの未練もなく走り去って行った。
出口のクリーム色の外光へ吸い込まれていく車体を見送りながら、サンプルの入った紙袋をぎゅうぎゅうと腕の前で握りしめる。
飛び跳ねる心臓が体の外へ出てしまったらどうしようかと本気で思った。
第一印象は、胡散臭い、できる営業マン。
第二印象は、やばいほど怖い。
────第三印象は、めちゃくちゃかっこいい。
三田は、取引先の男に恋をしてしまった。
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