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番外編 小話 ホワイトデー
会社の商談室は奥側が全面ガラス張りになっていて、都市のビル群が一望できる。それなりにでかい企業がそれなりの金を出して借りている場所だから当然っちゃ当然で、そして取引先からの評判も結構いい。道を挟んで反対側には老舗百貨店が構えていて、歴史ある建物の外観をシーズンごとに美しく着飾っている。今は青みがかった白い横断幕が品のいいフォントで季節の商戦を勝ち抜こうとしている最中だ。
「年度末のイベント担当はなかなかしんどいもんがありますよね」
「……え」
商談を終え、目の前の人の挙動をぼうっと眺めていたときだったから、当の榊原からかけられた言葉に、三田はワンテンポ遅れて返事をする羽目になった。黒い革張りの手帳兼メモ帳と、書きやすそうで値の張りそうな黒いポールペンを、節の目立つ男らしい細長い指が丁寧に仕舞い込むその様に、商談のたび見惚れてしまう。その左手薬指に光るものが、心の高揚にほんの少しだけ水を差すが、もうそんなの慣れたものだった。
ちょっと話せれば、商談で顔を見られれば、その日に笑顔を見られれば、それで満足だ、と自分に言い聞かせてはや二ヶ月ほど。
けれど今はそれどころじゃない。かしゃかしゃと超高速でシナプスを行き来した思考がかっしゃんと答えを弾き出す。
「あ……、あっ、はい、いやほんとに、おれっ……私だったら胃が捩じ切れますよ」
「ですよねぇ」
急いで答えたせいで一人称を間違えたが、榊原が薄い唇の口角を上げてくれた。その笑顔を見れた瞬間に、自分の頭の回転の良さを喜び、思わず親へ感謝の念を送った。
三田自身は売り先の業績に自分の業績も連動するから、世の中で思われているような営業たる営業っぽいプレッシャーはそこまでない。だが、榊原のような営業にとっては今が勝負時だろう。年度末決算を目の前にしたまさに今が。変に売り上げを上げすぎても次年度の予算に困るだろうが、成績は上げておきたいはずだ。
そんな時期に日本全体を沸かすイベントごとの担当になったら、もうそんなの毎日おかゆを食べるしかなくなる。少なくとも心臓があまり強くない三田はそうなる自信しかない。
「でも榊原さんはいざそうなったらサクサク回すんじゃないですか」
「買い被りだなぁそれは」
いや絶対あんたは大丈夫だろ、と三田は心の中でつぶやいた。榊原は三田が接してる営業マンの中でもやり手中のやり手だ。きっとそんな立場になったら、何一つ躓くことなく、ちょうどいい売り上げを叩き出すのだろう。そんな姿を思い浮かべるだけで、憧れと尊敬の入り混じった好意の塊が胸を内側から圧迫してくる。末期だこんなもの。
榊原はもう一度窓の外へ視線を転じてから、でかいビジネスバッグを軽々と肩に担いだ。ついでに床に置いてあった二、三の紙袋も手にする。そんな彼をスムーズに通すため、三田は商談室のドアへと急いだ。三田よりも5センチほど低い身長の榊原が目の前を会釈しながら通り過ぎる。賢そうに張った額から高くはないが整った鼻筋が尖った鼻頭へと収束するその横顔を、不躾にならない程度に観察した。まつ毛に縁取られた奥二重の目には若干の隈が陰を作っている。
いくらできる営業マンと言っても、忙しさは平等に疲れと寝不足をもたらすものだ。彼を追い越してエレベーターホールへ先導しながら、ジャケットのポケットにさりげなく右手を突っ込んだ。
エレベーターのボタンを押しつつ、話題をスライドさせることを試みる。軽く、軽く、できるだけ軽く。
「うちの会社、今時珍しいかもしれないですけど、一般職と総合職で毎年チョコ交換し合ってるんですよ」
「あ、それ知ってますよ。みなさんいっつも3月になると唸ってるから」
「そうなんすよ。今回私たちの代が担当で、今朝そこの催事場行ってきたんですけど、激混みでした」
「そっか今年度の新人が。御愁傷様」
「はは、ありがとうございます」
先ほど二人で窓から見た老舗百貨店。社内で義務のように交換することになっているチョコを買い出すのはその年の新人の仕事だ。同じ部署の同期の女子は、先月の同じ時期に反吐が出そうな顔をしながら買い出しに行っていた。
でも三田は、今日この日、榊原と商談がある今日この日の業務中に、その買い出しへ行けたことを天に感謝した。
かさりと薄いプラスチックの包装紙を指で撫でる。周囲に他に人はいない。心臓が胸から全身に分散してるんじゃないかというレベルで走り始めて、耳が熱くなって行くのを感じた。
エレベーター表示が自分たちのいる階まであと二つというところで、右手をポケットからするりと出した。榊原さん、と呼ぶ声が上擦ってないだろうか。
「これ、そんとき買ったんですけど余っちゃって、榊原さんいりません?いっつもお世話になってるし、甘いもんは疲れも取れるし……クッキー美味しいっすよ」
榊原は一瞬虚をつかれたように呆けた表情を浮かべたが、すぐに普段通りの顔になり、右手をひらりと差し出した。
「ありがとうございます。いいんなら遠慮なくもらいますよ」
変に笑いそうになるのを一生懸命止めた。嬉しさと緊張で指が震えそうになるのを必死でとめて、摘んだ袋を差し出された手のひらに乗せる。
「いつもお世話になってます」
「こちらこそ」
「何枚か入ってるんで、家でご家族ともどうぞ」
気の利かせ方はこれで合ってるだろうか?と、気忙しく思う。榊原の左手の薬指に存在する銀色の装飾具は、これでもかというほど存在感を主張しているくせに、榊原自身は全く家族の話をしない。今もさらっとした笑いを浮かべただけで、三田の最後の言葉には返事をしなかった。それがまた、胸の中をぷすぶすと燻らせる。
渡せただけで満足しろよ、と理性が感情を宥めに宥めた。
甲高い音がエレベーターホールに響き、箱がこの階に到着したことを知らせる。榊原は三田が渡したクッキーの袋を丁寧に鞄へしまい、そのままエレベーターの中へ歩を進めた。ボタンを押す手を見ていられず、先にガバッと頭を下げる。いつも通りの声音を心がけて口を開いた。
「今日もありがとうございまし「三田さん、これあげるよ」」
え、と目だけをあげたら、榊原は片手でエレベーターの開ボタンをおしつつ、もう片方の手をビシネルバッグから出すところだった。カラフルなフィルムに包まれた四角く国民的なひとくちチョコが、その手のひらの上にころんと転がる。
あげると言われて思考停止した三田の手をとって、榊原はそれを捩じ込んできた。
「ホワイトデーは営業にはいい日なんだよ」
にやん、と悪戯っぽく笑う榊原の顔を閉じて行くエレベーターが小さくしていくのを、呆然と眺めるしかできない。
「またよろしくお願いしますね」
営業マンらしい言葉を残して完全に閉じられた鉛色の扉をしばらく見つめ続けた。そうしてのろのろと自分の手を開いて、そこにある四角いチョコをぼけっと見つめる。
じわじわと体の中心から全身が熱くなっていく。なんなんだ、と嬉しさが一周回ってもはや怒りみたいな激しい感情へすり替わっていった。奇声をあげたくなって、けれどここは会社だからと声帯を必死になって閉じる。そしたらその熱が目の奥に迫り上がってきて、慌てて目元を手の甲で抑えた。
なんなんだ本当に。やめてくれよ。俺はいつあんたを諦めればいいんだ。
くそったれめ。
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