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第29話 人を呪わば
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「瀬川、お前目が覚めたのか⁉︎」
綾人は目の前にいるアホヅラの男が瀬川だということが俄かには信じられず、思わずその頬を叩いて確認しようとした。ただ、どれほど触ってもあの死んだように眠っていた瀬川が蘇ったという実感がわかず、なかなかそれを止めることが出来なかった。
「本当に本物か? そんな急に全快するもんなのか?」
体温は変わらないのに顔色だけが悪く、微動だにしなかった異常な状態だったのが、眠る前と全く同じ状態になって戻ってきた。綾人としては、この一月ほどの間は瀬川を助けるために必死だったのに、気絶している間に全てが片付いて目覚めてしまうなんて、想像もしていなかった。
自分の覚悟が突然梯子を外されたようで、気持ちの持って行きようがわからない。恨みがましい気持ちも僅かに湧いていたのだが、そういうのに飲み込まれると今度は自分が生き霊になってしまいそうで「頬を叩くくらいいいだろう」と、必死に気持ちを鎮めようとしていた。
「あやとおおお! ごめんて! もうゆるしてよお。まじで顔腫れるー!」
半べそ状態の瀬川が、必死に顔を守りながら、綾人を上目遣いで見ていた。
「綾人、説明するからその辺にしてやれ」
すぐそばで、貴人様がそう笑いながら綾人と瀬川を見ていた。綾人は貴人様へも拗ねた視線を向けた。そして、ふんっと鼻を鳴らし、そっぽを見た。
「お?」
貴人様は、綾人からそんな風に無視されるとは思っていなかったようで、僅かに目を剥いた。そして、鈴が鳴るような軽やかな笑い声をあげ始めた。
——あんなに苦しむなんて、聞かされて無かった! 納得できない!
せめて、今すぐ慰めてくれたら許してやってもいいとは思っているのだけれど、貴人様はそこまで考えてくれてはいないようだった。
綾人としては、瀬川を目覚めさせたのが自分では無いことと、浄化の影響が辛すぎたことを、どちらも謝ってほしいという子供じみた思いに縛られていた。
ただそんなことを考えても仕方がないこともわかっている。わかってはいるけれど、昂った気持ちが鎮まらない。ずっと胸の内をぐるぐると掻き乱しているこの状態が嫌でならなかった。
しかし、その姿を見てさくら様は激怒していた。以前、綾人が貴人様を貶めたような発言をした時と同じように、恐ろしい怒気を孕んだ視線でこちらを見ていた。
綾人はその視線を背中で察知すると、その周辺の温度がすっと下がるのを感じた。
「ヤト! 全くあなたは……調子に乗るんじゃありません! いい加減にしないと、二人の繋がりを切ってしまいますよ!」
「ひっ! ご、ごめんなさい……」
美しい顔を般若の様相にしたさくら様に恐れ慄いていると、貴人様が綾人の前にやってきて手を取った。そして、もう一方の手でそっと包み込むと、その無事を確かめるように指先を優しく擦り合わせた。
「綾人、悪かったな。お前がここに着いた時点で全て説明していれば、お前の気持ちも違っただろう。あの三人の薬物依存が解った時点で、瀬川に起きていた問題の解決が少し簡単になっていたんだ。ただし、時間が無かった。浄化の後、お前が気を失うのはわかっていた。だから回復する時間と、相手を迎えうつ準備が必要だったんだ。今からそれを説明してもいいか?」
とても優しい声音で貴人様は綾人に語る。これまでも散々大切にしてもらったのはわかっている。今の話し方は、少し不安が隠れているように感じた。綾人が自分を嫌ってしまうのではないかという、不安が。
眉根が下がり、瞳には悲しみが見える。綾人は、少し悔やんだ。そこまで深く悲しませたかったわけではない。ちょっと拗ねてみただけで、ちょっとだけ機嫌を取って欲しかっただけだったのだ。
自分には、まだ完全な記憶は戻ってない。それでも、貴人様を嫌いになるということは、おそらく無いだろうと思っている。共に過ごす時間が長くなるにつれ、だんだん大切に思い始めて来ているのは事実だからだ。
そんな人を、悲しませたり、不安にさせたりなどしたくなかった。綾人は自分の幼稚さを反省して、頭を下げた。
「ごめんなさい。ちょっと気持ちの収め方が分かりませんでした」
そう言って背を丸めた綾人を、貴人様はふわっと包み込むように抱きしめた。そして、そのままの状態で子供をあやすようによしよしと背中を摩ってくれた。
「そうか。じゃあ、このまま聞いてくれるか?」
綾人は黙って、こくりと頷いた。
「まず、瀬川は、俺がお前を保護するために今世に送り込んだ遣いだ」
「……えっ!? な、なんの話ですか!?」
綾人は貴人様の腕の中で、貴人様の顔を見上げた。貴人様はにっこりと雅な笑顔を向けていた。こぼれ落ちそうなほど目を見開いて驚く綾人を見て、満足そうにしている。
「遣い? 川村くんは貴人様の遣いに生き霊となって憑いていたっていうんですか?」
「まあ、そういうことになるな」
「人間が神の使いに憑くなんて可能なんですか……」
すると貴人様は険しい表情をして目を伏せた。そして、「それが出来る者に二人ばかり心当たりがある」と深い憂いを滲ませながら答えた。
綾人は貴人様のその表情に見覚えがあるような気がした。それがとても薄く遠い記憶のように思えたので、それは自分ではなく「ヤト」の記憶なのだろう。
『あなたは悪くないのですよ』
この口が、そう言ったことがあるのだと記憶しているような気がした。
「それで、その元凶となった人物なんだが……」
その時、綾人の目の前に突然風が舞い上がった。その風が下から塵を巻き上げたため、目を守るために一瞬ぎゅっと目を閉じた。瞬きを繰り返しながら再び目を開けると、そこには信じられない出立ちの瀬川が立っていた。
「瀬川……お前、それ!」
「……お前は。今話をしている途中だっただろう」
貴人様が呆れたように瀬川を睨みつけた。綾人は何度か貴人様が瀬川にこの視線を送るところを見たことがある。瀬川が綾人にベタベタするからいつも冷たくあしらうのかと思っていたけれど、どうやらそうではなくて、元々こういう関係性なんだろうなということに気がついた。
「それにしても、それ……それが本当の姿なのか?」
「うん。色々邪魔だから、普段は人型に化けてるんだよ。でもずっとだと窮屈だから、今ちょっと解放させて」
そこには、ブロンドの長髪を靡かせた、大柄な男が立っていた。顔は明らかに見慣れた瀬川なのだけれど、服装が違う。真っ白い狩衣に袴姿、小さな帽子が頭に乗っている。ニコニコ笑う顔はいつもの瀬川のままだが、その背中にはとても大きな金色の翼があった。
「お前たちはこの姿を見れば、瀬川が何者なのか粗方想像がつくだろう?」
金色に輝く鳥、そしてその羽を纏った人間。狩衣、小さな帽子……それはどう考えても、天狗でしか無かった。
「あ、あのアホヅラの瀬川が、天狗だったなんて信じられない……」
しかし思い当たるところがあるとすれば、瀬川はとても足が速く、風のように走るというところが天狗らしいといえば天狗らしい。飛べるのだとしたら、走るのも簡単だろう。
そして、天狗は天狗道に生きている妖だ。天と地の間に生きるもの。神の使いのようでありながら、煩悩を捨てきれない修行中の身の者でもあると言われている。煩悩が捨てきれていないという言葉は、瀬川を表す言葉としてはとても適切だろう。
「それで、あの、瀬川が天狗だったとして、生き霊は天狗に憑いていたってことですか? その生き霊が川村陽太だったってとこまではわかります」
綾人たちから少し離れた場所で目を覚ましていた陽太は、急に話を振られて思わず体を強張らせた。桃花が図書館で綾人に話しかけていたのを見かけてから後の記憶が無い。状況が把握しきれずに狼狽えていると、あの瀬川が天狗の格好をしていて、さらに驚かされていたところだった。
「そうだな。普通、人間がどれほど天狗を恨もうとも、天狗に取り憑いたりはできないはずだ。天狗は行者だからな。何もしていない人間と比べたら、はるかに霊力は強い。それでも、陽太は瀬川……こいつの名はウルと言うのだが、瀬川 に取り憑いていた。俺はそこに疑問を持っていたのだ。おそらく、人間以外の力が関わっているのだろうと。そこで陽太を消滅させてから原因を探ろうとしていたら、あの時、陽太からした匂いでその理由がわかってしまったんだ」
「匂い……? もしかして、甘くて青臭い、あの野の花っぽい匂いですか?」
貴人様はさらに表情を固くして、力強く頷いた。
「そうだ。アレは、呪玉 という、妖が作り出す麻薬のようなものだ。甘い匂いはザクロ、青い匂いは芥子から来ている。アレを摂取すると、その時一番叶えたい願望が叶う。陽太の場合は、瀬川 を自分のものにしたいという願望だったようだな。相手が人間なら、おそらく死んでいただろう。瀬川 は人間ではない。だから瀕死の状態で止めることができたんだ」
陽太は俯いて青い顔をしていた。瀬川 を自分のものにしたい……その願望があったことが、ここにいる全員に知られてしまった。
桃花と凛華はまだ目覚めていない。でも、自分はよく知らないけれど、学内で人気があるという桂、穂村、瀬川の三人にバレてしまった。心理学科の人気者である水町さんにも知られてしまった……。
——明日からどんな顔をして学校へ行けばいいんだ……。
それに、陽太が好きになっただけで、瀬川を死なせていたかもしれないなんて、考えるだけでも恐ろしくて、体が震えてきた。
「それに、呪玉 はかけた願が叶わないと、本人に返ってくる呪い返しのような効果がある。相手の霊力が、願をかけた本人よりも強ければ、間違いなく返される。それも、何倍もの強さで。それに耐えうる霊力を持たないものは、命を失うことになる。つまり、陽太は死ぬ寸前だったということだ」
陽太は更に青くなった。その言葉の意味を理解すればするほど、さらに大きく体が震えた。貴人様は、それを見てふっと微笑んだ。不安が和らぐような、温かい笑顔だった。
「心配するな。お前の中の呪玉 は、全て私が焼き払った。桃花も凛華も同じだ。そして、お前たちを唆して呪玉 を与え続けた男を特定した。相手の男は、今しがたそれに気づいたようだ。そろそろ反撃してくるだろう。瀬川 よ」
「はい」と瀬川が答え、貴人様の足元に跪いた。綾人はそれを見て、瀬川は本当に人間では無いのだなと実感した。
——完全に主従関係だ。それも昨日今日出来たような忠誠心じゃないのがわかる。
「奴を連れて来い。おそらく、おとなしく連れられてくるはずだ。ここに来ることをあいつも望んでいる」
瀬川 は胸に手を当てて深々と頭を下げた。そして、そのまま立ち上がり、長い翼を両手で一払いする。そして、左手をくるりと返すと、そこに大きな羽団扇が現れた。それを右手に持ちかえ、地面に叩きつけるように扇ぐ。
「うわ!」
瀬川 の部屋の中にゆらりと風が巻き起こった。その風の中をウルは歩く。そして掃き出し窓を全開にしてバルコニーに立つと、こちらを振り返ってニヤリと笑った。
「では」
そういうと、短く空気を割く音を立て、綾人たちの目の前から消えた。文字通り、本当に一瞬で消えて、その場からいなくなってしまった。
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