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第32話 陽太
「どっ……いっ……、ええっ?」
陽太は、なぜウルが自分のことを「大切な人」だと言っているのかを理解出来なかった。それは綾人とタカトも同じで、ただ、どこかしら思考とは関係ないところでは納得しているように感じていた。
「ちょっと、入れ替わって貴人様に聞いてみようか」
タカトはそう言って、鏡を取り出した。貴人様は出てくるタイミングを伺っていたようで、キラッと光った思ったと瞬間に、すぐに表に飛び出して来た。
右目が赤く色づいたと同時に、ウルが貴人様へと声をかけた。
「貴人様、イトを連れて参りました。いかがいたしましょ……」
すると、その時を狙っていたかのように、ケイトがウルの爪から逃れて、飛び出した。綾人を見ると、獲物を狩る獣のように瞳孔を狭め、猛進して来る。
「っ……!」
綾人が気づいて避けようとした時には、もう鼻先までケイトは迫っていた。
——まずい……、ここまで間合いを詰められると何も出来ない。
綾人のこめかみに一瞬で汗が光る。初見で倒すには難しすぎる状況になってしまった。ケイトが綾人を狙う理由は、綾人にはまだ分からない。
ただ、これまでの執着を考えると、綾人を確実に殺すことだけを生きる目標にしているようにさえ感じる。そんな相手に、一瞬でも油断してしまった。そのことに猛烈に腹が立った。
——他にも人がいるのに……話すことに気を取られてしまった……!
「綾人……!」
その汗が頬を伝って水玉になり、接点を失ったところへ、それを撃ち抜くように一振りの剣が飛んできた。それは、目の前に迫っていた赤髪の男の肩を突き、そのままの勢いで壁へと男を縫い付けた。
「ぐっ、ぅ……!」
「ケイト……!」
陽太は思わずケイトに声をかけた。酷い扱いを受けたはずなのに、やっぱり陽太はどうしてもケイトを嫌いになり切れなかった。その優しさに漬け込まれたのは間違いないのに、それでも陽太は陽太のままだった。
ウルはそんな陽太を後ろ手に抱き止めると、強い口調で嗜めた。
「今はケイトじゃない。あれはイトだ。迂闊に近寄っちゃダメだぞ、ヤン」
「えっ!?」
ウルは陽太をヤンと呼んだ。綾人とタカトは、それにもあまり違和感を持たなかった。ただ、当の本人はポカンとした表情で動きを止めている。
——ヤン? イト? なんの話?
陽太は自分だけが何も分からずに、ただ狼狽えることしか出来ない事に居心地の悪さを感じた。疑問が湧いたら、解決せずにはいられない性質だからだろうか。我慢できずに、そのまま口に出してしまった。
「ヤンってなんですか? イトって誰ですか? 僕が大切な人ってどういうこと?」
それを聞いたイトは、壁に剣で磔にされた状態のまま、ガラスを引っ掻くような気味の悪い声で笑った。嘲るように笑うその姿はとても見苦しく、流れる血の色もまた目を覆うような汚れ方をしていた。
ポタポタと音を立てて、床を染めるのは黒い液体だった。およそ人の血とは思えない黒さに、皆は驚いた。
「何、お前。陽太に本当のことは伝えてないの? ふーん、意外と怖がりなんだな」
「……どういう意味だ?」
ウルの目が猛禽が狩りをする時のように、ギラリと光った。歯を食いしばったまま唇を半分開き、その牙を剥き出しにしている。その様だけを見ると、まるで獅子のようにも見える。
大切なものを守るために戦闘体制に入った肉食動物のように、陽太を守って威嚇していた。
「だって、お前。自分と陽太が過去で夫夫だったことを伝えてないんだろ? なんで言わないんだよ。一生守るとか言っといて、自分だけさっさと病気で死んじまったことを悔やんでるんだろう? そのせいで、ヤンも誑かされて陰間に落とされてたもんな。相当な数の客を……」
イトがそこまで口にした時だった。あたり一体が一瞬で色を失ってしまったかのように、閃光が走った。そのまま視界が奪われ、何も見えなくなり、音だけが聞こえる状態がしばらく続いた。
「なんだ? 何も見えない!」
イトは真っ白い闇に怯え、体を震わせた。ただ白いその空間は、罪を重ねた身には、あまりにも眩しすぎた。その白の強さに、真っ黒に染まった自分という存在が、全て否定されているように感じる。
命の危機を感じて、その場から逃げようと、必死にもがいていた。
「やだ……やめろよ。早く元に戻せ。貴人様だろ? やめてくれよ、頭がおかしくなる!」
イトは肩に刺さった剣を引き抜こうとして、その柄に触れた。すると、その部分に強烈な痛みが走り、「ひぎゃー!」と大声を上げて暴れた。その動きで、肩の傷が大きく開き、さらに出血量が増えていく。
「がああああ! っ、くそ! なんでだ……なんでだよ! 同じように生きて来たのに、ヤトばかり味方されて、俺はいつも悪者扱いだ! 俺が何したってんだよ!」
イトのその叫びは、それまでの余裕の全てを失い、小さな子供が叱られて泣いているような悲しさに溢れていた。それを聞いた貴人様は、短く息を吐き、白い闇の中からイトに向かって厳しい声をかけた。
「転生してチャンスを得てまで、なぜ命を奪い続ける。この血の色……相当な数を殺めたな、イト。お前の血は、まるで蠱毒だ」
白い闇の中に、まるで川のようにイトの血の色だけが真っ黒に浮かび上がっていた。その勢いはだんだん弱まりつつある。それはケイトの肉体が命を失いつつあることを意味していた。
「薬の成分が燃やし尽くされた時点で、お前の負けは決まっていただろう。それでもここへ来たかったのはなぜだ。なぜそこまでしてヤトに会いたかったんだ。ヤンの生まれ変わりを探してウルを挑発してまで、どうしてヤトへ復讐する必要があるんだ?」
ウルにイトをここに連れてくるように言った時、イト自身がここに来たがっていると貴人様は言っていた。ただ、それがなぜなのかは分かってはいなかったようだ。イトがヤトに会いたかった理由は、本人以外、誰も知らない。
「会いたかった……ですね。会って、この手で……殺してやりたかったので!」
イトは、生きるのを諦めたのか、剣が刺さった右肩をそのまま前へと押し出し始めた。自分の骨を使って、その剣を壁から抜こうとしているようだった。
何も見えない白い闇の中で、呻き声だけが響き渡る。悍ましくて、辛くて、聞いているだけで悲しくなる声に、綾人と陽太は耳を塞いだ。
「生まれ変わってから一生懸命に生きていたヤンの邪魔をして、思い出したくない陰間の記憶を引き摺り出そうとしたな。ヤンを陰間に落としたのはお前じゃないだろう? それなのに、なぜお前はそのことを知っているんだ? そもそもお前に呪玉の作り方がわかるわけもない。裏で手引きしているものがいるだろう? それは誰なのかを言え!」
貴人様の声は、ビリビリと肌を震わせるほどに強く大きくなっていた。体の内側から震わせられて、何も怖くないのにその揺れを止める事ができなかった。
「そんなのあなたが一番よく知ってるでしょう?」
イトは楽しくて仕方がないといった様子で、顎を上げて笑い転げていた。あまりに激しく体を振るので、傷口はさらに開いていく。見えなくても、濃くなっていく血の匂いでそれがわかってしまう。
「貴人様……ケイトの体、大丈夫ですか? あのままじゃ……」
ケイトを心配した綾人が貴人様に声をかけると、「ケイトはもう消滅するしかない」と貴人様が小さな声で答えた。それを聞いた陽太は、どこにいるのか分からない貴人様に向かって噛み付くように叫んだ。
「そんな! ケイトは悪くないんですよね? あのイトっていう人がいなくなれば、ケイトは元に戻るんじゃないんですか!?」
貴人様は、絞り出すような声でそれに答えた。
「残念だが、それはもう不可能だ。いくらイトが体を操っているからと言っても、ケイト自身が拒否をすることは出来たはずだ。それが出来なかった弱さが仇になったんだ。このまま精神も肉体もそれぞれ地獄に送るしかない。罪は償わなければ決して消えないんだ。……綾人」
綾人は真っ白な中に聞こえる優しい声の方へと顔を向けた。そして、「はい」と答えた。その先に言われる言葉は、分かっている。
「今なら前ほど難しくない。射ろ。この白闇が晴れたらすぐに、だ。いいな?」
綾人がそれに「わかりました」と答えると、目の前に以前使った弓と矢が現れた。綾人は急いでそれを掴み、構える。
——あのまま生かしておいても、結局生き地獄なんだろうから……。
弓を番えて覚悟を決めた。数回深呼吸をして、肚を決める。
——どうせ恨まれてるんだ。俺がやるのが一番だ。
そうしているうちに、白闇がうっすらと晴れていった。霧が晴れるように見えるに連れ、綾人の目の星が熱を持ち始めた。弓を持つ手が僅かに震えていた。綾人は集中を深めて、恐れを頭から追い出していく。
ふっと闇が晴れ、クリアになった。
同時に矢から手を離す。
シュッと音を立てて飛び出した矢の先には、真正面にケイトがいた。右肩はほぼ骨が見えていて、その周囲は真っ黒な血が渇き欠けてベッタリと張り付いていた。
「……!」
鈍い衝撃音が響く。
矢は、ケイトの左胸に突き刺さっていた。
「ケイトっ……!」
「ダメだ! 行くな!」
陽太がケイトの方へと走り出した。すぐにウルがそれを捕まえ、泣き叫ぶ陽太を抱きしめた。綾人は自分の放った矢が、人の体を貫いているという事実に、猛烈な吐き気を催し、その場に膝から崩れ落ちた。
「ぐえっ……オエっ……」
人を殺めたという罪悪感に、押しつぶされそうになり、涙が溢れた。
——俺……人を殺した……必要だとは言え、命を奪ったんだ……。
猛烈な嫌悪感が自分を襲う。体が震えて止まらなかった。言葉も出ず、ただ震えるしかなかった。そんな綾人を見て、貴人様が綾人の方へと駆け寄ってきた。
「綾人、大丈夫だ。あれを見ろ」
貴人様は綾人の肩を担いで立たせると、壁に磔になったままのケイトを指差した。血を流し、死にゆく姿を晒しているケイトを見るのは辛いと思いながらも目を向けると、そこには信じられない姿があった。
「え……? わ、笑ってる?」
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