36 / 36

最終話 紅蓮と黝

◇◆◇  綾人は瀬川事件が解決してから、また小さな人助けを続ける日々に戻っていた。無料の便利屋として小さな依頼をコツコツこなし、着実に善行を重ねていて、貴人様はその進捗を見守っていた。  タカトはパートナーとしてそれに付き合うこともあるけれど、基本的には生活のためにアルバイトをせねばならず、また学内で会うだけの関係になっていた。 「今は七月。俺に残された時間は、あと七ヶ月くらい。瀬川のお祓いが五人分だけど、内容が重かったから一人あたり十人分だと思っていいって言われたから、今日の分まで計算して……残り三十くらい? 人助けって、そんなに依頼来ないんだよなあ」  綾人は、最初こそ善行をカウントするという行為に些か疑問を持っていたけれども、今となってはもうそれにも慣れてしまっていた。  ただ、これから七ヶ月で三十人を助けようとするならば、広報活動でもしない限りは無理かも知れないという不安があって、今はそのことばかり考えている。  そして、そのことを考えている時に、ふと思い当たったことがあった。  果たして、瀬川を助けたのは綾人だったのだろうか。綾人は、その疑問を、夜の浄化の儀式の時に貴人様に尋ねることにした。 「貴人様、瀬川の除霊の件って、俺は何か役に立ちましたか? あの時のことって、俺の善行にカウントしていいものでしょうか。俺はただ言われるがままに矢を放っただけで……」  あの時、綾人は確かにケイトの体に矢が突き刺さるのを見た。でも、本当にそれしかしていない。それでも、瀬川の生き霊を払ったとしてカウントされていいのだろうかという疑問が、心にずっと刺さったままだった。 「もちろんだ。これはお前の善行としてカウントされている。目覚めるまでの瀬川の肉体の管理と、生き霊の調査をしたという事実、凛華や桃花、陽太を間接的に救ったこと、そして、最終的にイトの魂を浄化するきっかけを作った。それらが評価されたようだな。その証拠もある」 「証拠ですか? それに評価って……」  そうだ、と言いながら貴人様は綾人に鏡を見るように促した。いつも貴人様が出てくる小さな鏡を渡されたのでそれを覗いてみたところ、右目の黒子が二つ消えていた。そして、一つだけある大きくて赤い星の位置が、右目の目尻の方へと移動していた。 「え? 星が……、あの、これってそういう印だったんですか?」  綾人は、残った星を指差しながら、貴人様の方へ向き直った。  貴人様は目を細めながら、身に纏う空気をふわりと緩め、綾人の右目の赤い星に左手の親指を添わせると、それをするりと軽く擦った。 「そうだ。これが全て消えた時が、天人への転生の時だ。もしこれが消えぬままタイムリミットがくると、残りの星の数の一千倍相当の年数が、お前の地獄での刑期になる」 「いっ、一千倍……?」  綾人は背筋が冷えるのを感じた。地獄がどういうところなのかは想像でしか知らないが、あんなところに最長三千年はいないといけなくなるということだ。想像するだけで恐ろしかった。  あまり張り切りたいことではないのだけれど、頑張ってクリアしなくてはならないなと改めて心に誓った。 「頑張らないと……やっぱり広報活動しないとな」  そう言って項垂れていると、貴人様が綾人の頭にそっと手を乗せ、指で髪を梳き始めた。綾人もそれが気持ちよくて、目を閉じつつされるがままにしていると、「まあ、また膨大なポイントを稼ぐタイミングがやって来るから、案ずるな」と貴人様が呟くのを聞いた。 ——ポイントを稼ぐ時? それってつまり……。 「ま、また何か大変なお祓いをするってことですか!?」  驚いて顔を上げると、目の前の人はタカトに変わっていた。 「あれっ!? 入れ替わった!? おかしいな、今大事なこと話してたはずなのに……」 「あれっ!? 綾人? え、なんで急に入れ替わった……あ、貴人様が何か言ってる」  タカトは口元に手を当てて、自分の内側から聞こえる声に耳を澄ませていた。綾人は、突然の入れ替わりとタカトの様子に頭がなかなかついていかず、ただポカンとした顔で待つことしかできなかった。 「ああ、はい。わかりました……え? …えっ!? いや、あの、何を……た、貴人様!」  自分の中から聞こえる声に向かって抗議をしているタカトの姿は、側から見るととても危険な人のように映る。何もない空間に向かって手を振りながら必死に何かを訴えている姿は、滑稽でしかなかった。    綾人も思わず、タカトを怪しい人を見る目で見てしまう。一体何にそんなに慌てているのだろうかと不思議に思っていた。 「タカト? お前めちゃくちゃ変なやつになってるけど、大丈夫?」 「えっ!? あ、うん。大丈夫。あのさ、さっき貴人様から『ポイントを稼ぐ時が来る』って言われた?」 「うん、言われた。だからまた何か大きなお祓いをするんですか? って訊こうとしたら急に貴人様がタカトと変わっちゃって……」 「そっか。じゃあさ、わかってるよね? 相手が強くて手強いと、倒すのが難しい分だけポイントが稼げるってこと。つまり、まだ危険なことがある可能性が高いんだって。だから、なるべく二人で一緒にいるようにって言われたんだ。それと……」 「それと? 何?」  タカトは綾人から目を逸らすと、俯いて黙り込んでしまった。顔を逸らしているため、表情がわからない。綾人はタカトが貴人様から何かまた辛いことを言われたのかと思い、心配になって前に回り込んだ。  しかし、そこで目にしたものは、予想に反して照れて真っ赤になった表情で、綾人は驚いてしまった。 「ちょっ……なんでそんなに真っ赤なの!? すごいんだけど」  これから先の未来の話をしているとはいえ、それは綾人がどう亡くなるかという話に辿り着くのに、どうしてそんなに浮かれた表情をしているのかを、綾人には理解出来なかった。 「大変なお祓いの話で、なんでそうなるんだ? 俺、死ぬかも知れないような重い話だろ? お前はそれでなんでそんな顔になるんだよ……もしかして俺のこと、どうでもいいのか?」  ケイトを射抜いた時に、人を殺めた実感があった。あれは、自分にしか無いものだった。あの時、気がついてしまった。タカトがどれほど綾人を心配しようとも、綾人には一人で背負わなくてはならないものが必ずあるということだった。  元は綾人の魂に課せられた試練に、タカトはただ付き合ってくれているだけだ。二人の運命というわけではない。それを強く感じたのが、あの時だった。  それがあってから、綾人の気持ちは少しだけ擦れ気味になっていた。いくら二人で戦おうとも、結局痛手を負うのは自分だけだという思いが、いくら拭っても消えなくなりつつあった。 「所詮、死ぬのは俺だけ。タカトはなんだかんだ言ったって、人生のやり直しがきくだろう? どうせいつか俺のことなんて忘れて、他の誰かと普通に幸せに暮らすんだよ!」  いつかは別れが来る。綾人はそれを受け入れたつもりでいた。ただ、善行を積むにつれ、浄化を受けるにつれ、自分の人生の終わりが近づく実感が湧きつつあった。  その度に弱い部分が顔を出し、それが増えていくのを感じる。周囲は何も変わらずに日々を繰り返しているのに、自分はそこから弾き出されてしまったのだと思うようになっていった。  運命以外の部分でも、よくない影響が出つつあった。毎日課題の準備に取り掛かり、もうすぐ前期のテストがある。勉強しなくてはならないが、その度に付きまとう思いがあった。 ——一体、なんのために勉強するんだ? すぐ死ぬのがわかっているのに。  そうやって日々、過酷な運命に心が蝕まれていく。そして、それはだんだん本来の自分が持っていた感情を超えて、深く粘ついた感情へと変化しつつあった。 ——こんな風に考えること自体が辛い。こんなの俺じゃない。  真っ黒に汚れそうになる心を、必死で止めることに綾人は疲れ始めていた。自分の肩を抱き、その指先が白くなるほどに力を込めて制止しようとしている。  タカトは、そうやってもがく綾人の手を掴むと、ぐいっと勢いよく引き寄せた。そして、腕の中に綾人を収めて、力強く抱き竦めた。 「綾人。今の綾人は、綾人を転生前からずっと苦しめてる人の術中にあって、そのせいで苦しんでるんだって。何度か呪玉の煙を吸っただろ? その影響らしい。だから、俺がずっとそばにいて守ってやれって貴人様に言われたんだ。そして、その、あ、綾人がおかしくなるたびに、俺が、あの……」 「……なんだよ」  抱きしめたタカトの腕が心地よかったのか、綾人はほんの少しだけ機嫌を直していた。気がつくと、自ら腕の中に収まりに行っていて、タカトに体を預けて甘えていた。  タカトはそんな綾人の変化に気がつくと、相好を崩し、ふっと息を吐きながら綾人の耳元でその先を話した。 「……綾人が狂いそうになるたびに、抱いてやれって言われた」  低く、甘い響きの声が綾人の耳を包んだ。言われた言葉も、その音が持つ響きも、心を震わせていた。思っていたよりもいいことが聞けたという喜びもあって、じわりと心に温もりが戻った。 「お、俺が苦しくなると、タカトが……その、救ってくれるってこと?」 「そう。俺に、浄化の力を分けてくださったらしいよ」 「た、貴人様がするんじゃなくて?」 「一日一回の浄化はこれからも貴人様がするって。でも、俺が綾人にするのは、そういうのじゃない」  そう言うと、タカトは徐に綾人を横抱きにして、すっと立ち上がった。 「えっ?」  綾人は、タカトがいつの間にかそんな風に力をつけていたことに驚いてしまった。 ——あんなに力が弱かったはずなのに……。  よく見ると、タカトの体はかなり鍛えられて、分厚くなっていた。春に何度もぶつかった時には、筋力が無さすぎて綾人に簡単に吹っ飛ばされていたくらい軟弱だったのに、今綾人を運ぶ腕は、ガッシリと力強かった。  タカトは軽々と綾人をベッドへと運び、その体を横たえた。そして、覆い被さるようにして抱きしめた。 「瀬川が色んな子を抱いてあげてた話は知ってるでしょ? 俺も、それと同じ力をもらったんだ。だから……」 「え? タカトも色んな子とするの!?」  そう言って、綾人はタカトの顎を手のひらで押しながら、嫌悪感をあらわにした。そんな男に抱きしめられても、少しも嬉しくない。ただ、タカトの話はまだ途中だったので、タカトも引くわけにはいかなかった。  綾人の腕を横から掴み、そのまま自分の方へと引き寄せた。元々押している状態だったからか、綾人は簡単に引き上げられてしまった。 「わっ!」  ドスンと音を立てて、タカトの胸に飛び込んだ。その体を、タカトはまた力づくで抱き竦めた。 「瀬川は天狗として授かった力の使い方を考えて、色んな人を助けるために抱いてただけだよ。それしか力の使い方が選べなかったからそうしてただけ。でも、俺はただの人間だし、貴人様が綾人を救うためだけに力を分けてくださったんだ。綾人にしかこの力は使えないし、他の人に使う気もないよ!」  そう言って、タカトはもう一度綾人の体を優しく横たえた。そして自分の額を綾人のそれに当てると、そっと覚悟の言葉をつぶやいた。 「たとえ最後は離れることになったとしても、それまではずっと一緒にいるよ。辛い時には俺が楽にしてあげられるし、それなら俺も何も怖くない。だから、綾人もそれを喜んでくれると嬉しい。俺だけが望んでも仕方がないことだから」  タカトはそう言って、鼻を擦り合わせた。ほんの少しだけ自信がなさそうでいて、それなのに強い決意を感じる言葉だった。   ——俺は一人じゃない……。  綾人は、タカトから常にそばにいると言葉で伝えられたことが嬉しくて、その気持ちが溢れて涙になった。捻くれたことを言っても受け止めようとしてくれたタカトの愛の深さを感じて、胸が詰まって痛かった。 ——頼っていいんだ。 「綾人が大事だから、出来ることはさせてほしい。お願い」  心の中に築かれつつあった、汚れた壁が崩壊する音が聞こえた。それとともに、小さく恨めしい声が聞こえた気がした。それが呪玉の影響だと言われたものなのかは分からない。  ただ、明らかに何かが壊れて浄化されたのは感じた。  それでも死ぬ時は一人だ。ただ、綾人はその後も貴人様と共にあることができる。でも、タカトは完全に一人になってしまう。それを思うと、自分だけが辛いと考えてはいけないのだということを、今更ながらに思い出していた。 「ごめん。自分だけ可哀想みたいになってた。元々俺の問題にタカトを巻き込んでるだけなのに……ごめん。俺、俺も、一緒にいてほしいし、タカトに浄化されたい。うれ、嬉しい、い……」  綾人は小さな子供のように、声をあげて泣き始めた。そんな綾人の目に、タカトはキスをした。 「最後まで、二人で」  タカトは綾人の手を握った。これから先に、立ち向かうべき相手が現れるまでは、力を蓄えていかなければならない。貴人様が与えたのは、ほんの僅かな力のみ。ここからは、力を「育てていけ」と言われた。  そのために、綾人が善行を積むのをサポートし続ける。それがタカトの徳になる。そうして二人で運命の日を迎え、その最も最良の道を選び取るのだと、言い渡された。 「信じよう、未来を。覚悟をしたまま、希望も持とう」  綾人はタカトの目をのぞいた。目の前には、黝の瞳がある。紅蓮の火を伴わない男の目は、綾人に向かってまっすぐな愛を伝えていた。 (終)

ともだちにシェアしよう!