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第5話 それでも、会いたい。

◇◆◇ 「おいお前、これ……もう全部無くなったのか? 少し減り方が早すぎるんじゃないのか? このままだと肝臓が……」  まるで悟りを開いた仏のように、半分しか開かなくなった目で僕は窓を見下ろしていた。眼下の夜景はまるで打ち砕かれたガラスのように、刺々しくギラついている。それを映している窓は少し斜に構えるとさらにその光を散らす。  それに、腹が立って、腹が立って仕方が無かった。無言のまま頭をガラスにゴン、ゴンと打ち付け、合間にラムネをガリっと齧った。ガリ、ガリ、ガリ……。もう何個目だろう。ずっとそれだけを口に入れていて、ここ最近食事もろくに取れなくなってきた。 「まあいい。その代わり、まだ死ぬんじゃないぞ。お前の代わりはまだ見つかってない。今死んだら、残された奴らが目をつけられるだけだからな」  結城様はそう言って、ラムネの追加と抜栓したシャンパンを二本置いて行って下さった。 「私は先に行く。今日と明日は仕事には出なくていいようになっているからな」  そう言い残して、会合に向かわれた。 「用意周到ですねえ、お母さん」  僕は都会の高級ホテルの一室で、大きな会合の前の緊張をほぐすために嬲られていた。拘束具の散らかった部屋には、左手を繋がれたまま、無言でラムネを齧り続ける僕だけが残された。 「ここから飛んだら死ねるかな」  日が暮れて、下を行き交う人々が見えなくなってしまったからか、ここから飛び降りたら楽になれるんじゃないかという妄想しか浮かばなくなっていた。  飛び降りなんてしようものなら、そんな綺麗な話では終わらないことくらい、ホテル経営をしていれば知っている。定期会合では、飛び降りられて以来、赤字が続いて困っているという話が増えてきているからだ。 「僕がここから飛び降りたら、責任の擦り付け合いが始まるのかな」  うふふと口から笑いが溢れた。うふふ、うふふと笑い、ポロポロと涙を流す。天国と地獄を行き来しすぎた僕は、その振り切れ方が激しすぎて、精神がボロボロになっていた。  それに気がついてからは、綾人さんに会っていない。天国を知らなければ、地獄に麻痺するだろうと思って、元の生活に戻った。 「泣いてたしな。嫌だったんだろうから」  ドライオーガズムを経験して気絶した日から、綾人さんは僕に少しずつソフトなSMをしようと言うようになった。手枷、足枷、軽い緊縛、玩具……それくらいのことだったし、そのくらいのことは僕が今されたことに比べたら軽いから、本当にただ気持ちがいいだけで、叫びすぎて声を枯らすまで抱き合うようになっていた。  でも、いつからだろうか。綾人さんが笑わなくなってしまった。その時、僕の体にも異変が起き始めた。綾人さんが笑わないと、どんなにソフトであっても苦痛を感じるようになってしまった。  キスやハグまでならすごく気持ちがいい。愛撫されている間なんて本当に天国にいるんじゃないかと思っていた。    でも、それ以上のことをしようとすると、笑わなくなった綾人さんを見るだけで、途端に身を切られるような痛みが襲ってくるようになった。だんだん地獄の割合が増えた頃に、精神変調が起き始めた。  楽しくも無いのに笑い始めたり、何も無いのに悲しくなって泣き出したりするようになった。僕は綾人さんにそれを見られたくなくて、連絡を絶つことにした。  会いたかった。セックスしなくてもいいから、ただ会いたかった。ハグしてくれるだけでいい。綾人さんのハグは、ラムネの一万倍癒される。一万倍? いや、もっとかな。とにかく、僕はあの人の温もりが欲しい。匂いが欲しい。そばにいたい。こんなに欲しくなった人は、いままでいなかった。 「綾人さん……」  どうしてなんだろうか。僕はいつも欲しいものをこの手から取りこぼしてしまう。ただ、愛されたかっただけなのに、両親の寵愛はいつも弟に向いていた。それでも葵自身が僕を好きでいてくれたから、兄弟では仲良くしていたかった。葵が困っているなら助けたかったし、葵のためにならなんでも出来ると今も思っている。  でも、葵からも父さんからも、大切なものを奪ってしまったのは僕だ。十五年前、お母さんが死んだのは、僕が原因だからだ。 「結城様、僕をどれくらい痛めつけたら苦しくなくなるんだろう」  あの雨の日曜日、反抗期で親の言うことを聞かなかった僕は、道端でお母さんと口論になった。成長期でイライラしていたのもあって、その日の口論は特に激しかった。僕は激昂して、手を掴んで制止しようとするお母さんの手を、力任せに振り解いた。  その時、タイミング悪く、飲酒運転のバイクが突っ込んできた。足がふらついたお母さんは、そのバイクに正面から弾き飛ばされ、道路の反対側の路側帯まで飛ばされて即死した。  そのバイクを運転していたのが、結城様のご子息の正親さんだった。 『お前の息子のせいで私の息子は死んだ。あの子を返せ。できないなら、奴隷をよこせ。さもないと援助は打ち切る』  それが結城様からの市木家への脅迫だ。援助も何も、結城様の娘である頼子を父さんの後妻に据え、ホテル経営に引き摺り込み、そこに勝手に融資しただけだ。  全てが自己都合で、本当に息子さんを亡くして心を痛めているのかどうかも怪しいところだ。それでも、結城様が元々奴隷として目をつけていたのが葵だったと聞いた時に、僕が自分から名乗り出た。 「僕が全ての原因です。僕を好きにしてください」  今思えば、それも嘘だったのだろうと思う。僕が全てにおいて都合が良かったんだ。パートナーもいない、家族が顧みることもない僕なら、何をしてもバレにくいと思ったのだろう。  実際その通りだった。実は、父はあまり目が良くない。だから、支配人の仕事は長年の勘でどうにかやれていても、僕のケガには気がつけない。二人が揃うことは稀で、いつも遠くから挨拶をしあうくらいしか会うことがないからだ。 「お母さん。もう、僕もそっちに行ってもいいですか?」  僕はそう呟くと、シャンパンのボトルをつかんだ。そして、それをそのまま担ぎ上げてぐいっと飲んだ。  シュワシュワと弾ける炭酸と共に、甘い葡萄の香りとアルコールが鼻を抜けていく。いつもならテイスティングもするのだろう。でも、今はラベルを見る気にもなれない。 「もう、いやだ」  何もわからなくなりたい……ただ、その思いだけで、酒とラムネを体に夢中で取り込んだ。  どれくらいそれを口にしたか、もうわからない。全ての感覚がぼやけて、やっと苦しくなくなった。ぼんやりと漂う意識の中で、遠くから誰かに名前を呼ばれる。 「おい! 大丈夫か!? しっかりしろ!」 ——ああ、誰かが僕を心配してくれてる。そんなことあるんだな。  働かなくなった思考の中で、ギリギリそう思っていたら、ふっと顔が浮かんだ。 ——嫌だな。こんな時でも忘れないんだ……。 「おい! 蓮!」  僕の名前を呼んでる。ああ、抱きしめて欲しいな。キスして欲しいな。もう一度だけでいいから。もう一度だけ……。 「綾人さん……愛してる……」  もう、いいですよね? これでさようならです。だから、告白してもいいでしょう? 「僕、サトルじゃなくてあなたが好きなんです。一緒にいたいんです。本当はずっと好きでした」 「蓮!」  僕は必死に体を起こして、そのシャツにしがみついた。なんとか体を起こして、その体に抱きついた。  離したくない、離れたくない。どうしても、あなたに会いたいのが止められない。 「僕のこと、嫌いにならないで……」

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