1 / 7
プロローグ
先生の住居はお屋敷と雰囲気が似てる。広さは断然お屋敷のほうが大きいけれど、庭木の密集具合とか池の鯉とか家屋の古さとか。
においは先生のほうが好きだけど、これを言ったら檀那様に叱られてしまう。それがなにより怖い。
「また、僕じゃないこと考えてるね」先生は優しく肩を抱いてくれる。
庵の縁側も庭が見えるけどほんの一部。それに比べて先生の縁側は庭全体が見渡せる。梅のにおい。お屋敷に梅はあったかな。
「見た目どおり気も小さいんだから、あんまり嫉妬させないでね」
「ごめんなさい」
先生は僕より背が低い。すごく小さい。先生自身も小さい小さいってゆうから誇張ではないと思う。檀那様も言っていた。
あ、また考えてしまった。先生が哀しそうな顔をする。
ダメだ。僕はいま先生の家に泊まらせてもらっているのだから、先生のことだけ考えなければいけない。
僕の所有権はいま、先生にある。檀那様ではない。
「早く名前もらえるといいね。不便でしょうがないよ」
僕には名前がない。もちろん生まれたときからなかったわけではない。お屋敷に来る前にはあったけど、檀那様に取り上げられてしまった。
以前のままその名前を名乗ると檀那様に叱られる。蹴られる。名無しと名乗ることすら許されない。
何もない。お屋敷に足を踏み入れた瞬間僕はゼロになった。
ゼロですらない。無。
「僕がつけてあげてもいいんだけど、そうゆうの困るでしょ」
僕は頷けない。
先生は優しい。本当は先生に名前をもらいたい。
どうして僕はお屋敷に連れていかれたのだろう。
ああ、そうだった。僕は檀那様と同じ血を引いている。
僕が家族だと思ってた人たちは偽者だった。全員が赤の他人だった。急にそんなことをつきつけられたら何も信じられなくなってしまう。
檀那様は僕の世界を剥奪した。自分が兄だと名乗ることによって。
ひどい。言葉にならないくらいむごい。
いままで僕が見てきたものや感じてきたものはすべてニセモノだったのだ。
「今日は泊まるよね。何食べたい?」
先生は料理が上手だ。キサガタさんという檀那様の召使いみたいな役割を強いられている人も料理が上手い。初めて食べたとき、心も身体もぼろぼろだったからよけいに美味しく感じたかもしれない。
僕は童貞だった。肛門や直腸なんて排泄物を出すだけの器官だと思っていたから、檀那様に何か太いものを挿入されたときは気が狂いそうだった。しかもそれが檀那様の陰茎だと知って死にたくなった。痛いなんてものではない。尻の穴は血で真っ赤だったらしい。
キサガタさんが優しく身体を洗ってくれなかったら、僕はたぶん本当に死んでいたかもしれない。高校にもなって泣きじゃくっていた僕に大丈夫だよ、と言い続けてくれた。
僕の制服は檀那様にびりびりに破かれたので、もう二度と着ることはできない。着る必要もない。
僕は檀那様のために身体を売る道具になったのだ。
でも僕は童貞だ。女の裸だってまともに見たこともないのに、男相手に裸になってあんなことされろだなんて。
檀那様に犯されたあと何度も戻した。胃の中が空っぽになってもひたすら吐いてしまう。そのときもキサガタさんが傍にいてくれて僕に大丈夫だよ、と言って背中をさすってくれた。
だけどようやく気持ちが落ち着いたときを狙って檀那様が叱りに来る。トイレと部屋を行ったり来たりしているせいで、買われた客の元に出掛けることができないからだ。
怒鳴られて殴られて蹴られる。役に立たない。何のために連れてきたのかわからない。お前なんか要らない。死んでしまえ、と。
僕にはこんなひどい人の血が流れているのだ。そう考えて吐く。
僕は実の兄に犯されたのだ。そう考えて吐く。
死にたい。死にたい。
死んでしまいたい、とキサガタさんに訴えた。
どうすれば死ねるんですか。
キサガタさんは泣きそうな顔で首を振った。ダメだよそれはダメ。
どうしてですか。
キサガタさんはとうとう泣いてしまった。
僕はやっとわかった。キサガタさんが哀しむから死んではいけない。
ごめんなさい、あんなこと言って。
いいよ、わかってくれれば。
僕はキサガタさんに口付けた。
身体が勝手にそうしていた。僕は男が好きなのだろうか。僕は同性愛者なのだろうか。僕はおかしいのでは。そんな考えなんか微塵も入り込む余地がなかった。
僕はキサガタさんと寝た。
吐く頻度は減ったけどまだ外に出られない。僕の身体は相変わらずあざだらけで傷だらけ。売り物にならない、と檀那様に繰り返し床や壁に叩きつけられる。地面だったこともある。
顔を覆う液体が鼻血なのか口が切れて出血したのかわからなくなった頃、キサガタさんが手当てしに来てくれる。ケガをしても傷ついてもキサガタさんが看病してくれるなら。
僕はキサガタさんが好きだ。キサガタさんも僕が好きだと言ってくれた。僕らはこっそり抱き合ってキスしてエッチする。
僕に与えられてる部屋でやってることが多いから、絶対に檀那様には気づかれてるはずなのに。認めてもらってるとは思えない。
僕にはわからないことが多い。
ついに僕は一度も吐かない日を体験した。キサガタさんは自分のことのように喜んでくれた。檀那様も暴力を振るわなくなって、僕にケガを治せ、と休みをくれた。
だけど案内されたのは洞窟の中。折檻窟。
僕はその意味がわからない。
やっぱり許してもらえてないんだ。
暗幕みたいに真っ暗。風は来ないけど身体の芯だけすごく冷える。
一番奥のところに誰かいる気がする。じっと見ていたら動いた。
「生きとる?」
純粋に安否を尋ねるというより僕に注意を向けさせるために発された言葉みたいだった。
僕はどうも、と言ってみる。暗くてはっきりと姿が見えない。
少し間が空いてそか、と聞こえた。
そか?
「ああ、すまんね。頭おかしうなっとるみたいやわ。今日、何日かわかる?」
何日なんだろう。僕は謝る。ごめんわかんない、て。
その人はまたそか、と言った。さっきより小さい声で。
そか?
「よい子しとればそっこー出られるえ? 俺はムリやけど」
「どうして?」
「反抗的やさかいに。真似っこしたらあかんよ」
何をしたのだろう。僕だって悪いことをしている。役に立たない。使い物にならない。檀那様の意に沿えなければ生きている価値すらない。
僕は尋ねてみた。
その人は大袈裟に笑ってから、僕には到底思いつかないようなことをぽんぽん挙げた。
どうしてそんなことをするのだろう。そんなことをしても無事でいるのは。
「邪推する前にゆうとくわ。俺、お前のおとーと」
「え」
「ヨシツネゆうの。よろしゅうな」
僕は何も言えなかった。僕に弟がいるとか、檀那様に連れて来られた人が僕の他にもいるとかそうゆうことではない。
この人には名前がある。
どのくらいそこにいたかわからないけど、キサガタさんが迎えに来てくれた。僕だけお屋敷に戻る。
ヨシツネという人はまだ出られないようだった。あれだけ悪いことをすればすぐには出られない。あの人だってわかっている。
わかっていながらやったのだ。だからあの人が悪い。
キサガタさんにお風呂に連れて行かれて、体の隅々まで洗ってもらえた。僕はキサガタさんとキスをする。
服を着て部屋で待機してたら電話が鳴った。檀那様だ。僕は恐る恐る受話器を取る。
用件は唯一つ。初仕事。
僕は檀那様の部屋をノックする。嬌声。檀那様に抱かれている知らない男の子。思わず僕は畳の目を見る。
視界の隅に小さな男の人。
それが僕と先生との出会い。
先生は檀那様に用があったみたいだったけど、檀那様が男の子の相手をしているから、その間だけ僕に先生の相手を申し付けたのだ。
僕はすごく緊張していた。嫌われないように。先生は気を遣って僕に話を振ってくれたけど、最初から僕なんか眼中になかったことはすぐにわかった。
「ヨシツネ君て知ってる?」
先生はヨシツネを捜しにきたのだ。
僕は何も言わなかった。言わないほうが檀那様の意に沿っているということもあったけど、何となく言いたくなかった。
先生はあの人が好きなのだ。
あの人が欲しくて檀那様に交渉に来たのだ。
僕は先生に出したお茶にこっそり催淫剤を入れた。キサガタさんに教えてもらった方法。僕に経験値がないことを心配してくれたのだ。
だけど先生は一口も手を付けずに庭木にかける。
「やっぱり僕じゃ」
「そうじゃない。例えここに案内してくれたのが君じゃなかったとしてもお茶なんか飲まない。知らない人から食べ物を享受されるときは注意したほうがいいっていうのが僕の経験則だから。こんなところで死んだら洒落にもならない」
思えば先生は最初から優しかった。その後僕は初仕事を失敗したことで檀那様に怒られたのだけど、先生が庇ってくれたおかげで折檻窟に戻らなくて済んだ。
それどころか先生は僕なんかを選んでくれた。ヨシツネの代わりだということはわかっている。僕は先生に気に入られたおかげで、檀那様に冷たくされなくなった。決して優しい言葉遣いになったわけではないけど、僕を見る眼がほんの少しだけ柔らかくなった。
キサガタさんもそう言ってくれてる。
お屋敷に戻ればキサガタさんに会える。檀那さまがお留守なら僕らはたいてい二人っきり。いつものように門のところで待っていてくれる。寒いのにコートもなしで。
この場所だと抱き合えない。キサガタさんが温かくなるまでずっとそうしていたかったけど、キサガタさんには仕事がある。
内緒ね、と言ってプリンアラモードを持ってきてくれた。僕はそれを食べながら部屋で待つ。本当は甘いものはそれほど好きではないんだけどキサガタさんが僕のために作ってきてくれたものが美味しくないわけがない。
炬燵に当たってうとうとしていたら廊下のほうで話し声がした。キサガタさんともう一人。僕はこの声に聞き覚えがある。
聞き耳を立てるまでもない。声はすごく大きい。
「うっとうしな。付いて来んでええよ」
僕は障子を少しだけ開けてこっそりのぞく。キサガタさんの背中。それと真っ黒い学ランの男の子。折檻窟で会ったヨシツネという人だ。
僕の弟。名前のある弟。
「なんやのその顔。ええ加減に」
「ごめんなさい。でも、僕は」
「二度と会われへんよ。さらばい」
キサガタさんが俯く。どうしてそんなに哀しそうなんだろう。
檀那様の声。
ヨシツネが厭々振り返る。
檀那様はヨシツネを横目で見ながらキサガタさんに。
「そないに当たるなや」
「前からゆお思うとったんやけど、俺やのうてもええのと違う?」
触れる。
「あほお。お前はカネ吸い取り機。こいつは」
「ハウスセクレタリィ?」
肌に頬に。身体に。
「一般常識やろ? 社長と秘書はできとるゆうて」
口に。
「ほお、しゃちょーやったん? 知らんかったなあ」
「代表でもええぞ。いちお檀那様やさかいにな」
キサガタさんが檀那様に擦り寄る。檀那様はキサガタさんを見て口の端を上げる。
どういうこと。
なんだろう。
「お帰りお待ちしております」
檀那様が腰を落とす。キサガタさんが眼を瞑る。
僕は眼を逸らす。
いつの間にかヨシツネがいなくなっていた。僕は静かに障子を閉めて炬燵にもぐる。手探りでプリンアラモードの容器を手繰り寄せて。
窓から。投げる。
音がしない。音はしなかった。
無音。
「お腹空いたよね。ごめんね、遅くなって」
キサガタさんが盆に食事をのせて運んできてくれた。僕は顔を上げられない。
裏切られた。騙された。
信じていたのに。
僕はこんなにキサガタさんのこと。
「弟がいるって」
「ヨシツネさま? 洞窟で会わなかった?」
そうじゃない。僕が訊きたいのは。
「実は今日でお別れなんだ。それでそのお見送りをしてて。あ、でも僕なんかが相手にしてもらえる人じゃなくて」
僕はキサガタさんの手を引っ張る。痛いくらいに強く。
「好きなの?」
「見てた?」
キサガタさんの反応は異常なまでに冷静で。それがかえって気持ち悪くて。
僕は廊下から飛び出して、その建物の一番左の部屋に入る。畳と照明とちゃぶ台と座布団。押入れの中に布団。
何か足りない。ここになにか。
「返して欲しい?」
障子が閉まる。素足が畳を擦る音。
「何をですか」
「きみの名前。僕が取り上げたから」
キサガタさんは僕の足元に何かを放る。小さなぬいぐるみと腕時計。
僕はそれを拾わない。
それはたぶん、僕のものではない。
「檀那様は僕の言いなりだよ。僕を愛してくれてる。僕だけを。傷だらけになって商品価値もなくなった僕なんかをわざわざここに置いてるんだよ? 変だと思わなかったの?」
キサガタさんは着ていた服をすべて脱ぐ。僕にはその身体が傷だらけだとは思えない。
きっと嘘をついている。僕を陥れるために。
ヨシツネに冷たくされて、檀那様に優しくされているところを見せ付けて。僕の反応を見ている。
動じない。僕は動じないふりをする。
春になって、先生がお屋敷に訪ねてきた。僕を買い取りにきたのだと思う。最近先生がそういってた気がするし、檀那様の部屋に僕も呼ばれた。
部屋に入れないことになっているキサガタさんはいつものように家事。
先生は値段の交渉をする前に、とある場所でヨシツネに会ったと告げる。檀那様はちっとも驚かない。どうでもいいのではなくて、単にお見通しだったのだ。
「あなた方の組織とやらを潰させてもらいます」
「あーあー先生、そないに気張らんでも、もらうもんもろたらお望み叶えますわ」
「まさかこっちが傘下とは思っていませんでしたけどね。あなたと奥様という人の関係は夫婦じゃない。勿論内縁でもない。結婚も離婚もしていない」
「何がゆいたいんやろね」
先生は立ち上がって檀那様に何かを突き出す。
名刺と茶封筒。
檀那様はちらっと見ただけでぐしゃぐしゃに丸める。封筒は中身すら確認してない。ライタをカチカチやってると思ったら、床の間に置いてあった瑠璃色の茶碗の中に押し込んで火を点けてしまった。
燃えるときに出る煙がなぜが僕ばかりを取り巻く。何度も何度も咳をして先生に心配をかけてしまった。
「依頼されました。お察しの通りロハ、ですが」
「こらヴォランティア精神豊富なこっちゃな。先生、そないに気にいらはったんか」
「僕の言いたいことがわかってもらえましたか」
檀那様はつまらなそうに頭を掻くとケータイを耳に当てる。それと同時に部屋の障子が一斉に開いた。
真っ黒い格好をした男の人たちがずらっと並んでて、その中央から赤っぽい着物を着た女が現れる。
その人は両手の銃口を先生に向ける。
「こらどうもお久しぶりどすセンセ。また会えてうれしおすえ」
「一瞬ですけどね」
「せやなあ。一瞬やも」しれへんねえ、と銃声。
僕は。
先生の血を見ることができなかった。
多詰みは足る
第1章 辰民シンミン 1/12 Jupiter Migrator
ともだちにシェアしよう!