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第1章 辰民シンミン 1/12 Jupiter Migrator

      1  木のにおいの立ち込める廊下を進んで畳の部屋に通される。  ぼくだけ置いてかれてしまった。どうすればいいんだろう。  下はきれいな色の畳が敷き詰められている。ぼくの靴下は汚れているからこの上を歩くべきではないと思う。脱ごうかな。  ふと視線を感じる。正面だ。  鼠色の着物に焦げ茶の羽織。掛け軸のかかった床の間を背にして和装の男の人が胡座をかいている。肘掛に腕をのせて。すぐ横に小型の電気ストーブがあった。  髪と眼は色が薄い。この距離でもそれがわかる。大柄じゃないけど小柄でもない。年齢はぼくのお父さんよりだいぶ若そうだった。しわもないし白髪もない。ついでに言うとヒゲもない。 「よお来おったな。俺んことは檀那さまてゆわはってな?」  低くて落ち着いた声だった。  どきどきする。ぼくの心の奥底まで読まれてるみたいで。 「ほんなら脱いで」 「え」 「え、やないやろ。俺が脱げゆうたら脱ぐ。それが決まり。まあ最初やからもう一回ゆうたるねぇ、脱げ」  ぼくは制服のままここに連れてこられた。鞄を持って外に出たら玄関の真ん前に黒い車が停まってて、大きな男の人たちに車に押し込められた。  抵抗なんか浮かばなかった。ぼくは攫われたのだ。  ぼくは手に持っていたコートと鞄を下に置いてブレザーとベストを脱ぐ。ネクタイとベルトを外してスラックスを足から抜く。シャツのボタンを。 「なんもかんもホンマどんくさいな。あーあー畳まんでええよ。そないなべべ二度と着ぃひんさかいに」 「あの」 「時間の無駄や。お前がいませなあかんことは、裸んなってそこに立つ。耳ないんか?」  檀那さまは、ぼくの後ろの障子を見ている。ぼくを見ていてもしょうがないからだ。  ぼくなんか何の価値もない。攫う価値だってなかった。そんなぼくに命令をしてくれてる檀那さまは素晴らしい人に決まってる。だからぼくは檀那さまのご意向に従いたい。 「後ろ向いて膝付きぃ。自分ワンコやと思うて」  畳がざらざら痛いけどそんなこと大したことじゃない。  檀那さまの手がぼくの腰に触れる。その瞬間、身体に凄まじい痛みが走った。  熱い。  檀那さまの熱を感じる。  ぼくは声を上げる。声を上げないとどうかなりそうだった。頭が真っ白になる。真っ黒かもしれない。交互に白と黒が見える。ちかちか点滅する。 「締まりはぼちぼち。悪ぅないなあ」  ぼくはお礼を言いたかったけど、言葉が途切れて全然伝わらない。せっかく褒めてもらってるのに。  檀那さまはさらに強くぼくの中を掻き回す。檀那さまは感じてくださっているんだろうか。何をやっても価値も意味もないぼくなんかで。 「ちょお力抜いてみ。せやね、ええ子や。さすが、俺の選んだだけのことはある」  選んだ? 檀那さまがぼくなんかを?  うれしい。  やっぱり檀那さまは素晴らしい人だ。  見ず知らずのぼくなんかを攫いに来てくださった上に、こうやって自らぼくなんかの使用具合を探ってくれている。 「そろそろええかな」  と聞こえたと思ったら、檀那さまは急に引き抜いて、ぼくをひっくり返す。  顔に熱いものがかかる。檀那さまの。ぼくはどうすればいいのかわからなかったけど、檀那さまが見てたから唇の周りに付いたものから順々に舐めていった。 「済んだら俺のんもキレイにせえや」  いいのだろうか。檀那さまの。 「恥じらっとるんか? なんや可愛ええとこあるやないの。お前ええ子やしな、もう一回ゆうたるわ。ここは俺の命令が絶対なん。俺がええゆうたらお前はそれに従う。な、簡単な仕組みやろ? せやからお前なあんも考えんと」  檀那さまのはすごく大きくてすごく硬かった。こんな大きなものがぼくに挿っていたなんて。  それを考えただけでどきどきしてしまう。  口いっぱいに含んだらむせてしまった。だからぼくはダメなのだ。檀那さまはあきれているに違いない。やっぱりぼくなんか。 「焦らんでええよ。ゆっくりやってみ」 「ごめんなさい」 「そないな顔せんといて。咥えながら泣かれてもオモロないわ」  ぼくがキレイにさせてもらっている間に檀那さまは二度電話をかけた。  やっぱりぼくはあらゆる行動が遅い。それを暗に知らしめている。檀那さまは忙しいのだ。ぼくなんかの相手をする時間なんて一秒たりともない。 「もうええよ。初回にしたら巧いのと違う?」 「ありがとうございます」 「ほんなら次」  後ろの障子がするすると開いて男の人が顔を出す。  ぼくを攫った人たちじゃない。モスグリーンのセータに黒のジーンズ。すらりと背の高い優しそうな人。中学のときにぼくの面倒を見てくれた部活の先輩に似てる気がした。眼元とか雰囲気とか。  その人に支えられて廊下に出る。  浴室。裸のまま移動したから鳥肌でがちがちだけど、どうすればいいのかわからない。先輩に似たその人はジーンズの裾を捲って腕まくりする。 「そんなとこで突っ立ってたら洗えないよ?」 「あ、ご、ごめんなさい」ぼくは椅子に座る。  確かに存在感は先輩に似てるけど声とか喋り方は全然違う。どうしてぼくはこの人を先輩に似てるだなんて思ったんだろう。変だ。  その人はぼくの髪の毛と身体を洗ってくれた。丁寧に隅から隅まで。  特にひりひりと痛い箇所を念入りに洗ってくれたので、ぼくは声を出しそうだった。まるで先輩に触られてるみたいで。必死で違うことを考えたけど無意味だった。  この人は先輩じゃない。先輩じゃないのに。  だって先輩はこうゆう口調で喋らないし、もっとガサツだし。  ぼくは勃起する。「あ、その」 「いいんだよ。そうさせようと思って触ってたんだから」 「え」  ぼくが振り向くとその人はにっこり笑った。  心臓がどきどきする。先輩に似てるからかもしれない。  やっぱり似てるのだ。笑った顔がますます先輩に似てる。 「檀那さまが気にしてくださっててね。君は一度も出してなかったって。可哀相だからって僕に言いつけてくださったんだ。だからもっと感じていっぱい出して。ほら声も」  まさかあの時の電話?   そんなわけない。自分の都合のいいように考えるところがぼくの悪いところだ。改めないといけない。  檀那さまはなんとお優しい。ぼくはあっという間に射精する。  その人の手に白いものがかかる。 「ご、ごめんなさい。汚いのに」 「汚くないよ」そう言って、その人はぼくの出したそれを口に含む。「ビックリした?」 「え、あの」 「すごく可愛い顔だよ。写真撮って飾っておきたいくらい」  ぼくは恥ずかしかった。体中から火が出そう。  その人はバスタオルで体を拭いてくれた。ふわふわのバスタオル。ぼくなんか雑巾でいいのに。その雑巾だって使い古してぼろぼろの汚い雑巾。  ぼくの髪をすごく丁寧に乾かしてくれた。熱かったら云ってね、て。ブラシで梳かしながら。  どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。  もしかしてぼくは見返りを求められているのだろうか。どうしよう。ぼくがあげられるものなんて何も。 「きみは可愛いから檀那さまに気に入られたんだね」 「え?」 「だって檀那さまはご慈悲をかけてくださったんだよ? 洗礼のときは気に入った子にしか下さらない。すごいなあ」 「そうなんですか?」 「そうだよ。いいなあ」  急に指を挿れられたからぼくは声を上げてしまった。入り口の辺りでやわやわと擦られるとむずかゆくて感じてしまう。  ぼくはまた勃起する。 「ここに檀那さまが入ったんだよね? 羨ましい。僕もご慈悲が欲しいなあ」 「あ、あの」 「若いね。こっちも元気になってるし」その人は床に膝をつけて僕にしゃぶりつく。  ぼくはすぐに射精してしまう。  その人はぼくの出したものをごくんと飲み込んだ。 「ご、ごめんなさい。その」 「そうゆうところが可愛いね」  恥ずかしくて俯いている間に、その人はぼくに着物を着せてくれた。浴衣だったかもしれない。基調は白なんだけど藍の細かい柄が入ってて。着付けのときに乳首をいじられてすごく気持ちよかった。  だからいまぼくの乳首は勃起してる。着物を着ててもわかるくらいに。  ぼくは脇を締めて歩く。  足が冷たい。 「自己紹介がまだだったね。僕はキサガタ。きみたちのお世話係みたいなもんかな。よろしくね」 「はい、あの、ぼくは」 「前あった名前は捨てるんだよ」 「え?」  キサガタさんの声が急に厳しくなった。優しい顔も引き締まる。 「ここでは檀那さまに認められた子だけが名前を名乗ることを許される。だからここに足を踏み入れた瞬間から、きみは以前付いていた名前を忘れなきゃいけない。その名前は金輪際言っちゃいけないんだ」 「え、じゃあぼくは」  もう一度あの部屋に戻る。キサガタさんは僕はここまでだから、と言ってぼくの背中を押した。  床の間の前に檀那さまが寝転がっていた。ケータイ電話を耳に当てていたけど、ぼくの姿を確認するとばいばいね、と気のない声で切ってしまった。  いいのだろうか。ぼくなんかのために電話を切ったんじゃ。 「似合うやないの。可愛ええな。こっち来ぃ」  ぼくが檀那さまの足元に立つと檀那さまは手招きする。もっと近くに来い、ということだろうか。ぼくは恐る恐る移動する。足の裏で畳を擦りながらゆっくり。 「怖がらんといてな。無理繰り連れてきてもうて悪かったな。許してくれへん?」  ぼくは首を振る。 「そんな、許すだなんて」 「俺、謙虚なん好きやで? せやなあ、お前はまきちよ。ええな? 憶えられる?」 「は、はい。ありがとうございます」  檀那さまはぼくの頬に触れる。  ぼくはビックリして眼を瞑ってしまった。口の中に何かが入る。甘い。形から判断すると金平糖? 「ええ子やからご褒美な。ホンマ可愛ええなあ。夜も来よかな」  電話が鳴ったけど、檀那さまは電話器を蹴飛ばしてしまった。受話器が転がる。ぷーぷー鳴ってもお構いなしに、ぼくの顔を検分してくださっている。  すごい近い。  息がかかりそうなくらい。 「あ、あの」 「なんや?」 「どうしてぼくなんかにこんなに」  檀那さまは口の両端だけを上げて笑う。ぴりぴりとケータイ電話が鳴ったけど檀那さまはやかまし、と呟いて電源を切った。ぷーぷーはいつの間にか消えている。  ぼくはさらにどきどきする。 「こんなに、の後はなんやの? 優しゅうしてくれる? 構うてくれる?」 「ぼくなんか何の価値もありません。おカネもないし家族もいないし、だから檀那さまに何も」 「なんも、やないやろ? お前はこないに可愛ええ顔がある。それにむちゃくちゃええ身体持っとるやないの。せやけど、まあそないに恩返ししたいんやったら俺に尽くしぃ。ついでやからね、俺の好物教えたるわ。耳かっぽじってよう聴き」  檀那さまがの顔が近づく。ぼくはまた眼を瞑ってしまった。口の中の金平糖はすでに溶けてなくなった。砂糖の溶けたどろどろの液体が口の中に広がる。  耳たぶに温かい吐息。 「カネや」  ぼくは硬直して動けなかった。まるでぼくの未来が根こそぎ塗り替えられたみたいだった。檀那さまの望むように、檀那さまの意のままに。  たぶんぼくはここで死んだ。いままでのぼくはほとんど死人みたいなものだった。でも前の名前のぼくなんか生きてる価値もない。死んだって誰も気にかけない。  だけど、いまの「まきちよ」であるぼくは、少なくとも檀那さまにとっては、必要であり無意味ではない。それを鼓膜を震わせて教えてくださったのだ。  そのうちにまた障子がするすると開いて、キサガタさんがぼくを廊下に連れ出す。障子が閉まるときに檀那さまと眼が合った。  檀那さまはぼくを見て笑う。口の片端だけ上げて。       2  指定された場所はホテルだった。もう少し違う趣旨のホテルを想像してたから移動中はひっきりなしにどきどきしてたんだけど、そんなことはなかった。  こないだまで学校に行っていたぼくなんかが入ってもいいのかと躊躇うくらい煌びやかなエントランス。外観だって超高層ビル。パールみたいにきらきらしていて海に面している。オーシャンなんとかいうことばが浮かぶけどよくわからない。  先に進めないできょろきょろしていたら、ホテルの従業員らしき人に声をかけられてしまった。怪しい人間がいないかどうか見張っているのだ。  優しい表情で親切そうに対応してくれたけど、場違いな坊やが紛れ込んだものだな、と内心困惑しているに違いない。  どうしよう。でも、約束の場所はここだってメールにもあったし。 「まきちよ君」  ぼくの名前が呼ばれた気がして振り返る。  そう、ぼくの名前はまきちよだ。  混乱してるわけじゃないけど、ぼんやりしていると聞き逃してしまう。檀那さまが仰ってたように、ぼくはどんくさいから。  鋭いナイフの先端みたいな雰囲気の男性が立っている。ベージュのスーツにネイビィのストライプのネクタイ。度が強そうなメガネをかけている。  ぼくは塾の先生を思い出してしまう。すごく頭が良いけど厳しくて無口な数学の先生。  眼の前の人の年齢は三十代くらい。思っていたより若い。おじさんの年代だろうと見当をつけていたから結構衝撃的だった。  それとも人違い? 「失礼ですがお客様の?」 「ああそうだ。何か問題でも?」 「いいえ、申し訳御座いません。大変失礼致しました」ホテルの人はふかぶかと頭を下げていなくなる。  ぼくはお礼を言った。この人が助けてくれなかったらぼくはケーサツに突き出されていたかもしれない。そうしたら檀那さまとの約束が守れない。それは厭だった。 「厭な従業員だ。客を外見だけで判断している」 「え」 「ここじゃなんだから」  ロビィの脇にカフェがあった。男の人は慣れてるみたいだった。ここをよく利用するのだろうか。  その人は迷わずホットコーヒーを頼んだ。ぼくは特に要らないと言ったけど、遠慮をするなといわれて温かいココアにした。本当は何も飲みたくなかったのに。  ぼくは自分が場違いな格好をしてないか考えてみる。キサガタさんが選んでくれた服はあんまり堅苦しくなくてぼく好みだけど、ここじゃだいぶ浮いているように思える。そのせいでホテルの人に眼を付けられたのだ。  黒のショートコートに黒のコットンパンツ。寒かったからマフラも。ブラウンのレザースニーカがいけないのだろうか。ローファとかブーツにすれば良かっただろうか。  昨日の時点のぼくの持ち物といえば、通学用のトートバック、小銭がじゃらじゃらしてる財布、ずっと使ってるお気に入りの腕時計、シャープペンと消しゴムと三色ボールペンの入ったペンケース、教科書とノートと参考書。  これから学校に行こうと思って外に出たところだったから、そんなものしかない。勿論着替えもないし、替えの下着だってない。高校の制服は返してもらえたけど学校を辞めたから二度と着る機会はない。でも何となく捨てられなくて取ってある。  檀那さまの部屋を失礼したあと、キサガタさんと一緒に服を買いに行った。服だけじゃない。ぼくがあのお屋敷で不自由なく暮らせるように生活用品も揃えてくれた。  ぼくのものなんだからぼくがおカネを払うべきだと主張したんだけど、キサガタさんは会計のたびに首を振った。これは僕の仕事だから、ていって微笑むだけ。そもそも出資分の金額を持ち合わせていない。キサガタさんもそれをわかってくれている。  たぶん先行投資なのだ。ぼくはこの金額以上を取り返さないといけない。  檀那さまはそれを期待している。 「あの、ぼくで合ってるんでしょうか」 「どういう意味だ?」鋭い眼がぼくを射る。  ぼくは怖くなってテーブルの上に視線を落とす。声もどことなく冷たい。塾の先生以上に相手を拒絶している。  ぼくも拒絶されている。 「きみは、まきちよ君じゃないのか?」 「いえ、まきちよです。でも」  ぼくら以外にはお客さんは五人。みんな新聞か雑誌を読んでいる。  頼んだものが運ばれてきた。でも男の人は手を付けない。テーブルの上にあることすら無視しているみたいだった。 「じゃあ合っているよ。私が聞いた名前はそれだ。何か問題があるかな」  反論ができない。  怒られてるみたいで。何か悪いことをしたみたいで。 「私はツツボという。名刺が要るかな」 「いいえ、ツツボさまですね。憶えます」  ツツボさんはほんの僅かだけ眉を寄せる。  ぼくの見間違いかもしれない。そのくらい微かな動きだった。ぼくは何か気に障るようなことをしたのだろうか。 「私の名刺を断るなんてあり得ないな」 「ごめんなさい。貰います。すみません」 「もういい。行こう」 「あ、でも、これ」  コーヒーもココアもまったく口をつけていない。せっかく注文したのに。持ってきてくれた人だって哀しがるかもしれない。ぼくは急いで流し込んだ。そのせいで舌を火傷しそうになってあつ、と言ってしまった。  新聞を見ていたおじさんたちが一斉にぼくを睨む。  どうしよう。何から何まで失敗ばかりしている。こんなんじゃツツボさんもあきれて帰ってしまうかもしれない。  ツツボさんの溜息が聞こえる。もうダメだ。  でもツツボさんはもう一度椅子に座ってコーヒーを飲み干す。ぼくは指一本も動かせなかった。コーヒーを飲んだだけなのにすごく綺麗な動作だったから。  エレベータホールでツツボさんはぼくの肩に触れた。すごく自然に。だからぼくはしばらく気づかなかった。エレベータが到着して、エレベータの奥の鏡を見るまで全然知らなかった。ツツボさんは指輪をしていない。細くて長い指。 「緊張しなくていい。私たちは知り合いなのだから」 「は、はい」  部屋に行くのかと思ったらレストランだった。そういえばぼくは夕ごはんを食べていない。夕ごはんどころか今日一日まともに食事を採っていないことに気づく。  思い出したらお腹が鳴りそうだった。  きゅるるる。音も力ない。  ぼくは今日からひとりで生きていかなければならない。食事も泊まるところも自分で探す。キサガタさんが世話してくれたのは昨日まで。  昨日は初日だったからサービスだったのだ。  自分の部屋をもらえたけど、まだ眠い早朝に無理矢理起こされてお屋敷を追い出された。服は着ていたけど財布は没収されて一文無し。連絡用に、ともらったケータイだけがぼくと檀那さま、それとキサガタさんとを繋げている。でもぼくからは連絡が取れないから、ぼくが困っても何の助けにもならない。意味もない。  ぼくは泣きそうだった。  その辺をとぼとぼ歩きながら今日はどうしようか、と必死で考えた。  今日は。そう、今日さえ凌げればいい。明日のことを考えていたら生きていけない。  お腹も空くし足もふらふら。昨日はみんな、あんなに親切だったのに。  やっぱりぼくは見限られたのだろうか。  見限るというより、最初から見込みがなかったのだ。ぼくは犯されるだけの価値もない。お尻ももう痛くない。  夢だったのかもしれない、ぜんぶ。  風が強くなってくる。建物の中は暖かいけどいいにおいがして耐えられない。だから寒空の下をうろうろするしかない。家に帰りたいとは思わなかった。  あの家にはもう帰れない。帰ったって誰もいない。  お腹が減ってることをすっかり忘れた夕暮れ、メールが届く。ぼくは何の音なのかわからなかった。遠くで変な音がしてる、くらいにしか思わなかった。コートのポケットを探ったらケータイが出てきた。それを見てようやく思い出す。  そうだった。ぼくにはこれがあった。  というより、これしかない。メールはキサガタさんから。  そして、ぼくは指示されたとおりにホテルに向かった。 「適当でいいね」 「あ、はい、お願いします」  和食のお店みたいだった。席につく前に注文をしなきゃいけなくてぼくはビックリした。コースはたった三つだけ。しかもどれもすごく高い。  いいのだろうか。味のわからないぼくなんかの口に入って。  あんまりきょろきょろしちゃいけないんだけど、周りが気になって仕方がない。おじさんもいるけど異様にカップルが多い。みんな仲良さそうにしている。  窓に反射してフロアのテーブルがほとんど丸見え。  つまり、ぼくたちの姿も見られている。  窓の外に海が広がっている。光ってるのは観覧車だろうか。  何かを見てないと落ち着かない。それに何を喋っていいのかもわからない。 「ここに来る前は何をしていた?」 「あ、えっと」  どう答えればいいのだろうか。ここってゆうのがホテルを指してるのかお屋敷を指してるのかわからない。 「言い換える。約束の時間になる前までどこで何をしていた?」 「時間を潰してました」 「どこで?」 「いろいろです」 「いろいろというのは?」 「歩いたり、疲れたら休んだり、です」  ツツボさんは新種の寄生虫でも見つけたような顔をした。  たぶんぼくが新種の寄生虫なのだ。ツツボさんはそう思ってる。 「朝から何も食べてなかったんじゃないのか?」 「え、どうして」 「初見の感想だ。空腹で倒れそうな顔をしていた。違うかな」 「ごめんなさい。ぼく、その」  言い訳はできない。当たっているのだから。  それに、ぼくは檀那さまのこととかお屋敷のこととか何も言っていけないことになっている。キサガタさんに再三注意された。  これが守れなくて二度と会えなかった子がたくさんいる、て。 「謝らなくていい。あそこに依頼すると何故かそうゆう子ばかり寄越す。実に非人道的な扱いだ。だから遠慮もしなくていい。私は君たちのことをよくわかっているつもりだから」  引っ掛かる発言が幾つかあったけど、息を吸うとお腹が鳴りそうだったから我慢した。  うれしい。  ツツボさんはすごく優しい。  運ばれてきた料理はたくさん量があったけど、ぜんぶ食べれた。もともとぼくは少食だから自分でもビックリした。すごく美味しかったからもある。何の料理かわからないのがちょっと残念だったけど。 「もっと食べたいんじゃないか?」 「え、あ」  急に話しかけられたのと、心の中を読まれたみたいで二重にビックリした。  食事中はずっと黙ってて、お店の外に出たときツツボさんは口を開いた。「返事はしっかりしてくれないか。食べたいならはい、食べたくないならいいえ。どっちだ?」 「食べたいです」  エレベータで下に戻る。さっきのカフェかと思ったけど一つ上の階。  イタリアンの店っぽい。パスタとピザを食べた。すごく美味しい。こんなに美味しいパスタとピザを食べたのは初めてだ。ツツボさんはワインを飲んでいた。 「満腹になったかな」 「はい、ありがとうございます」  エレベータホールでツツボさんは、またぼくの肩に触れた。ぼくは緊張する。  そうだった。  食事が終わったということは部屋に行くということで、部屋に行くということは。  カードキーでロックを解除する。ツツボさんの指は本当に綺麗だ。ワインブラスを傾けるときとかちょっと見蕩れてしまった。指輪がないから独身かもしれない。でもわざと外してるって可能性も。  ぼくは事前に相手の情報を何ももらっていない。メールで場所と時間を指定されただけで、名前だって顔だって何も。  そのメールも返信できなかった。一方通行のメール。ダイレクトメールみたいだ。  キサガタさんは、ツツボさんにぼくのことを何て伝えたのだろう。直接じゃないとしても、向こうには選ぶ権利があるわけで。選ぶためには情報が必要なわけで。 「先に入ってくれ」 「はい」  照明をつけてくれるのかな、と思ったら急に後ろから抱きつかれた。抱きつかれただけじゃない。首筋を吸われて服の下に手を入れられる。  もがくことも抵抗することもできない。出来るはずない。  ぼくはツツボさんにおカネで買われたのだ。ぼくは商品なんだから購入してくれたご主人に利用されるのを本望と思わなければいけない。  ツツボさんは荒々しくぼくを貫くと、さっさとぼくを床に捨てて照明をつける。そして服を脱ぐと浴室に消えた。  ぼくは力が入らない。アナルはまだ熱を帯びている。  痛い。  立てればいいけど、力を入れるとアナルからツツボさんの精液が流れ出て、床を汚してしまう。絨毯だから染みになる。たぶん血も出てるし。  駄目だ。ぼくは床に這いつくばった姿勢のままじっとしていることしかできない。ぼくは泣くこともできない。泣くことはツツボさんが求めていない。  シャワーの音が止んだ。浴室につながるドアが開いてバスローブ姿のツツボさんが出てくる。でも、ベッドに座ってもワインを飲んでいても、ぼくなんか最初からいないみたいだった。ぼくはたまたまその辺で見つけた珍しい玩具としか思われていない。  実際そうなのだ。何も違わない。 「すまないが、眼障りだからクローゼットにでも入っていてくれないか。それが厭ならシャワーでも浴びればいいし。とにかくそこで留まっていないでくれ」  ぼくはなけなしの力で返事をしてクローゼットに入る。シャワーを浴びるだけの力は残っていなかった。  そのまま眠ってしまったらしい。朝は(朝だろうか)ツツボさんの声で眼が醒めた。 「頼むからシャワーくらい浴びてくれ。迷惑だ」 「ごめんなさい」  ぼくは先にトイレに行くことにした。鍵をかけたらツツボさんに怒られた。ドアをどんどか叩かれる。  ぼくは急いで鍵を開ける。「あの、ごめんなさい」 「困るんだ。催したなら私に言ってからにしてもらわないと」そう言うと、ツツボさんはぼくの脚を開かせる。  便座に座っていたからペニスは隠れていた。 「もう出したのか?」 「まだです」 「どっちだ?」 「両方です」  ツツボさんは僕を立たせてからこの姿勢で出せといった。ぼくは言う通りにする。アナルに力を入れてたので上手く出せない。  痛い。  それが済むと、ツツボさんはぼくを便座に逆向きに座らせる。その体勢で出せといってくる。ぼくはそれに従った。最初にツツボさんの精液がだらりを流れ出る感覚がした。そのときにツツボさんの吐息が荒くなるのを感じた。  すごく痛い。アナルが切れてる。血血血。  ツツボさんはぼくをバスタブに腰掛けさせる。服も脱がされた。といっても、昨夜(昨夜だよね)ツツボさんに貫かれた時点でほとんど半裸だった。  ツツボさんはシャワーの温度調節をして、四つん這いにしたぼくのアナルにノズルをあてる。お湯で洗浄してくださっているのだ。 「ありがとうございます」 「自分でできるようになるまでだ」 「はい」 「あそこはあらゆるプレイに慣れすぎたのが多くてうんざりしていた。慣れてるだけならまだいいが、さも初めての振りをする小賢しいのは我慢ならない。そんなこともあってだいぶ疎遠にしていたのだが、昨日新入りが入ったと耳にしてね。すぐに呼んだよ。きみはとてもいい。しばらく私の傍に居なさい」  ぼくはようやく檀那さまのご意向がわかった気がした。  ぼくはレンタルに過ぎない。店内に整然と並べられ、一泊二日、三泊四日、七泊八日と期限を決めて借りられていくただの商品。  だけどその商品を体験した人間はどうしても返却したくない。返したくなくて何度も何度も体験するうちにさらにどっぷりハマっていく。  すでに期限は過ぎた。徐々に延滞料金がかさんで、お店から訓告が行く。それでも返したくないその人は、商品を持って逃亡する。仕舞いには商品を購入するとまで言い出す。  手に入れたい。これだけは自分のものに。  商品と主人の立場は逆転し、身体も脳も支配され、もち得る財、果ては命すらを投げ打つことも厭わない。  そうゆう寄生虫に、ならなければいけない。       3  ツツボさんは、ぼくにマンションの一室を与えてくれた。家具も揃えてくれてそこに住めという。  ツツボさんはいろんな場所に行って仕事をしているので、いろんなところに部屋がある。四七都道府県のすべてにあるのですか、と聞いたらおそらく、と答えた。たぶんあまりにたくさんだから自分でも把握できていないのだ。海外にもありそう。  欲しいものは何でも買ってくれる。美味しいものを食べさせてくれるし、お小遣いも大量に。それとは別に檀那さまのところにおカネを振り込んでいるらしい。ぼくのレンタル料だ。  借りている期間が長くなれば長くなるほど、レンタル料は高くなる。  サラ金の利子みたいだ。雪だるま。  ツツボさんは昼間のほうが優しい。周囲に人がいるときは、ぼくはツツボさんの親戚ってことになってる。都会の進学校に通うため、ツツボさんのところでお世話になっている下宿高校生。  でも二人っきりになると、途端に態度が変わる。ぼくはツツボさんの玩具になって、ツツボさんの望むことを何でもしなければならない。厭だとか哀しいとか、そうゆう感情はない。だってぼくはレンタルされてるんだから。  お昼ごはんをどうしようか考えてたらツツボさんから電話が来た。ぼくはツツボさんにもケータイをもらっている。白くてシンプルな機種。ツツボさんみたい。 「事後報告で悪いがいま中国に居る。お屋敷とやらに戻って構わない」 「ぼく、ここで待ってますよ?」 「帰りたくないのか?」  帰れるわけがない。  ぼくはまだ目的を達成できていない。 「待ってちゃダメですか?」 「好きにするといい」 「ありがとうございます」  だけど三日経ってもツツボさんは帰ってこなかった。それどころか連絡もない。  もう一週間経つのに。どうしたんだろう。番号は知ってるけど、ぼくからかけちゃいけないことになってるから待つしか。  そうやってずるずると二週間、四週間と経ってしまった。さすがに心配になってぼくは電話をかけてしまう。でもつながらない。おかけになった電話は、てゆうお決まりのメッセージが繰り返されるだけ。  キサガタさんからメールが届く。それを見てぼくは身震いがした。  急いで部屋を片付けてぼくが住んでいた証拠をできる限り消す。あとで専門の人が来てもっと念入りに消してくれるらしい。マンションごと消滅させるのかもしれない。燃やしたり爆発させたりして。  そしてぼくは身一つでお屋敷に戻る。内容の半分は帰還命令だった。 「おかえり」 「ただいまです」  キサガタさんはにっこり笑ってぼくを迎えてくれた。雪が降りそうな天気なのにわざわざ外で待っていてくれたらしい。 ぼくはすごくうれしかった。 「檀那さまがお待ちだよ」  檀那さまは床の間の前に居なかった。お部屋の中央で仰向けに寝転がっていた。ぼくがお部屋に入るなりげらげら笑い出す。ぼくはビックリした。お腹を抱えて涙まで流して。 「まきちよ、お前最高やな。ホンマええ子や。こっちおいで」  ぼくが檀那さまのお顔が見える位置まで移動すると、檀那さまは急に体を起こしてぼくを抱き締めてくれた。 いいにおい。檀那さまのにおいだ。 「まさか、こないに早う潰れるなん思わんかった。ああも、傑作やわ。あいつな、ツツとかツボとかゆうたかな? 俺んとこから買うといて三遍も突っ返した生意気なブツやさかい。絶対後悔させたろ思てコシタンタン、タンと狙うとったんや。それがお前の活躍でな、大成功やわ。お手柄やで? まきちよ」  檀那さまはぼくを膝にのせて、ツツ男にどないな奉仕しよったかゆうてみ、と仰った。ぼくは洗いざらい話した。  ツツボさんはぼくの穴から流れ出すものを見るのが好きで、精液だったり尿だったり便だったり。とにかく無理矢理犯すのが好きだった。  話している最中にぼくは服を脱がしていただき、檀那さまのペニスを挿入させてもらった。コンドーム越しに檀那さまの熱を感じる。ツツボさんから全財産を吸い上げたご褒美だということだったけど、ぼくは原因とか理由とかどっちでもよかった。  いまぼくは檀那さまとひとつになってる。  それがうれしくて仕方ない。  本当に雪が降ってきた。檀那さまがなんや雪のにおい、と言って障子を開けたら白い塊が舞っていた。地面に着くなり消えてなくなってしまうけど、こら積もるわ、と檀那さまが言っていたのでそうなると思う。  雪。ぼくは雪が好きだ。  舞うのも降るのもうれしいけど、積もってくれるならもっとうれしい。 「今晩冷えるで。ぎょーさん布団被りや」 「はい、ありがとうございます。失礼しました」  檀那さまはお屋敷に住んでいるわけじゃない。じゃあどこに居るのか、と訊かれると答えられない。今日だってわざわざぼくにご慈悲をかけてくださる、ただそれだけのためにお屋敷に寄ってくださったのだ。シャワーを浴びたらまたどこかに行ってしまわれる。  ツツボさんもぼくを犯すためだけにあのマンションに帰ってきていた。どんなに夜遅くなっても、どんなに遠くに出かけても。  だけど中出しをしたらぼくは用済み。床に捨ててワインを傾ける。ワインじゃないときもあった。ビールだったりウイスキィだったり。  ぼくはアナルに残る痛みを感じながらじっとしている。床を汚さないように。ただそれだけ考えて。そのうちにツツボさんがぼくのどんくささを見兼ねて浴室に連れてってくれる。最初と同じだ。あのホテルで初めて会ったときと。  ツツボさんの出した精液がぼくのアナルから流れ出すときが、ツツボさんが一番興奮するとき。  ツツボさんはそうゆう方法でしか性欲を発散できないのだ。  一回だけ、ぼくをツツボさんと同じベッドで寝かせてくれたことがあって、そのときに教えてくれた。教えたんじゃないかもしれない。単なる独り言だったのかもしれない。ぼくなんかレンタル玩具なんだし。 「私は、カネがなければただのレイプ魔だ。カネさえ払えば私の行為は正当化される。でも私はカネさえ払えばあらゆるプレイを認める、という輩が我慢ならない。私は相手の同意など求めていない。むしろそんなものが議題に上がる前にそいつを貫いて身体の最奥に私の精子を送り込んでやりたい」  ツツボさんはそこでぼくのペニスを握る。ぼくもツツボさんのペニスを握りたかったけど後ろから抱き締められてるので不可能だった。 「私が最初に犯したのは道端を歩いていた男だった。夜だったか。私は帰宅途中だったのだが電車の中で目星をつけた男を尾行した。チャンスはすぐ訪れる。男が外灯のない路地に入った瞬間襲い掛かり力ずくで貫いた。あの時の興奮は忘れられない。男は抵抗しなかった。抵抗できなかった。私が男からペニスを引き抜くと、男はアスファルトに倒れこむ。露出したアナルから私の放った大量の精液が流れ出す。それがアスファルトを汚す。脳神経が切れるかと思った。精液とアスファルトの色の対比。ひくひくと痙攣するアナル。無理矢理だったから切れてしまっていて血も流れた。白と黒に一筋の赤。私は立ち眩みが起きた。しばらくをその光景を眺めていたが、そこに放っておくといろいろ問題が置き兼ねない。私がいま行ったことは明らかに誰の眼から見ても犯罪だ。レイプだ。私は男を担いでマンションに帰った。すぐそこだった。でも何故見つからなかったのか、いまだによくわからない。誰か目撃者がいたっていいだろう。成人男子が成人男子を抱えてるなんて、異常事態としか思えない。それともあいつが酔ってるように見えたのかもしれない。酔った友達を仕方なく自分のマンションに連れて行って解放する同僚。平常心で捉えればそれが妥当か」  ぼくは話の途中で射精した。ツツボさんの綺麗な指がぼくなんかのペニスを扱いてくれている。その上、ツツボさんの体験談。  ぼくはペニスでも脳でも勃起した。  ツツボさんはそれをティッシュできれいに拭き取ってくれる。ぼくは謝ったけど、ツツボさんは構わない、と言って手を洗いに行った。  その男の人はどうなったんだろう。ぼくはそれが気になったけどとうとう訊けなかった。  ツツボさんはその翌日の朝、出勤したその足で中国に渡って、二度と日本に戻ってこれなかったのだから。  死んだんだろうか。  死んだんだろうな。  お屋敷の中でぼくに与えられた部屋は、庵と呼ばれている建物の端っこにある。六畳くらいの部屋で、北の障子を開けると石庭、東の障子を開けると山が見える。  そこの縁側で雪を眺めていたら、その前の小径をキサガタさんが走っていった。どうしたのだろう。心なしか慌てていたようにも。  水の音。池だ。  門から入るとすぐ左手に大きな池がある。庭の松があって縁側から池は見えない。  ぼちゃん、と何かが池に落ちた。 「クズのお前には池のソッコがお似合いや。モクズ食って往んだったらええよぉ」  檀那さまの声だ。げらげら笑い声も聞こえる。  ぼくは足音を立てないようにゆっくり縁側を進む。ぼくから一番遠い部屋の真ん前まで行けば池が見えるかもしれない。常緑広葉樹の合間から。 「おま、なんぼぼったかゆうてみ。ほら、ゆわれへんのか? ゆわれへんくらいぼったんか?あぁ? おまがお日さんお下でのうのうと生きてかれとるんは誰のお蔭やったかなぁ? 最期にそれ訊こか。ほな、俺によう聞こえるようにゆうんやで?」  ごぼごぼ。ばしゃばしゃ。  水を掻いている手が見える。白い、白い手。  檀那さまは持っている竹の棒で、浮かび上がる黒いものをつつき返す。髪の毛? 「んあ? 聞こえへんなあ。なんやて? なあ、おま聞こえた?」  檀那さまの脇に控えていた大きな男の人が首を振る。そして一礼した。 「そか、ほんなら俺がおかしなったわけやないんやね。ばいばい。もう用ないわ」  キサガタさんがいってらっしゃいませ、とお辞儀するけど、檀那さまは大きな男の人に雪だるま作ろか、と話しかけていて全然相手にしてない。  門の外の黒い車に乗ってぶるるんとどこかに出掛けられるまで、キサガタさんは身動き一つしないで頭を下げていた。まるでそのまま時間が止まったみたいに。雪が頭や肩に積もっても、それを払えない彫刻のように。  前から気になってた。キサガタさんは檀那さまに無視されている。  話しかけてもらえないだけじゃなくて、話に応じてもらえないだけじゃなくて、存在そのものを無視されている。  檀那さまにとってキサガタさんは、そこにあって当然のハウスキープロボット。そんな気がする。ロボットにいちいちお礼なんか言わない。眼も合わせる必要がない。完璧に仕事をこなしても、そうゆうプログラムを組んだのは他ならぬ檀那さまだ。命令に従って業務をこなしていればスクラップにしないでくれる。ただそれだけの存在。  キサガタさんは池から何かを引きずり出す。全身ずぶ濡れの物体。ダウンジャケットが異様に膨らんでいる。キサガタさんは腰をかがめてそれに話しかけている。ぼくのいる場所からは聞こえない。  内緒話。ぼくに背中を向けてるから読唇術も使えない。どうせ使えないんだけど。  お屋敷には、ぼく以外にもぼくと同じことをしている子がいる。みんな、ぼくみたいに攫われてきたのだろうか。自分から来た子もいるのだろうか。  庵にはぜんぶで四つの部屋がある。  ということは、最低でも三人。池に沈んでいたあの子は、そのうちのひとりかもしれない。  きっとすごく悪いことをして罰を受けたのだ。檀那さまに歯向かうなんて、当然の報いだ。キサガタさんもどうゆうつもりだろう。檀那さまが用なし、と言った時点でその子の役目は終わっている。要らないから池に落としたと思う。  死んだんだろうか。  死んだんだろうな。  キサガタさんは、それを引きずって庵の裏側に回った。東側だ。垣根があるだけで特に何もないはずだけど。  一時間くらいしてキサガタさんが戻ってきた。ぼくは相変わらず縁側で雪を眺めていたけど、キサガタさんは頭と肩に雪が積もってるのにも気づかない。ぼんやりした顔だったから声をかけられなかった。そして、ぼくの真ん前を通って殿に入っていった。  燃やしたんだろうか。  埋めたんだろうか。  檀那さまのお部屋がある建物を殿という。ぼくはお風呂とトイレのとき以外は無断で踏み入ることは許されない。キサガタさんだってそうだと思うけど、掃除をしなきゃいけなかったり調理場がそっちにあるから特権だ。  檀那さまのお部屋に入れるなら、ぼくもロボットになりたい。  でもロボットになったら無視されるしご慈悲もかけてもらえない。それは厭だ。  ぼくはいまのままでいいや。  次の日はまた早朝にキサガタさんが起こしに来た。ぼくはお屋敷から追い出される。  ツツボさんからもらっていた大量のお小遣いは財布ごと檀那さまに献上したから、ぼくの持ち物はやっぱりケータイだけ。あの時みたいに夕暮れまで空腹で過ごさなければならないのだろうか。  そう考えたらあの時以上に哀しくなってきた。夕暮れより前にメールが来ればいいけど、今日一日メールが来ない場合だって充分考えられる。  昨日の雪は三センチくらい積もった。もう少し多いかもしれない。ぼくは雪の多い地域で育ったから平気だけど、雪のないときとまったく同じペースと歩幅で歩いてすっ転ぶ人を、すでに三人も見た。あんな高いヒールじゃ無理もない。靴の裏だっててかてかだから。  お腹が空いてきた。  自分で寄生先を見つけてはいけない。だけど自分で生きていかなきゃならない。今度はツツボさん以上の財力を持った人じゃないといけないのかもしれない。  自分で探せればいいのに。当てもないくせに、考えだけ聞けばすごいことに思える。実行できなきゃ意味がない。  だからぼくはダメなのだ。  勉強もスポーツも軒並み平均以下。外見も大したことないし、背も低いし。  檀那さまはこないに可愛ええ顔、とかむちゃくちゃええ身体持っとる、とか仰ってくれたけど、本当なのだろうか。自信がない。ぼくなんかそんな勿体ないお言葉をかけてもらうだけの価値もない。  とぼとぼ歩いてたらまた雪が舞ってきた。寒い。  ケータイがあれば電車にも乗れるし、買い物もできるけど、交通費以外は使ってはいけないことになっている。しかもその交通費も、キサガタさんからメールが届いてようやく有効になる。  山奥のお屋敷から町に下りるのも徒歩。一時間くらい歩いた。二時間だったかもしれない。あの時計があればいいのに。あれはお父さんに買ってもらった時計だった。  ぼくが小学生だった頃、お店のショウウィンドウに飾ってあったあの時計に一目惚れしてお父さんにねだった。お父さんはだいぶ渋っていたけど、仕舞いには折れてくれた。ぼくがしっかり勉強する、という約束で。  でもぼくが一生懸命勉強したのは、小学校だけだった。  楽しくなくなったのだ。いくらテストでいい点をとっても、いくら成績がよくっても、お父さんが褒めてくれなきゃ意味がない。  お父さんは中学生になったぼくを無理矢理塾に通わせた。つまらなかった。確かに塾に通ったおかげで学年順位と全国順位は上がったけど、お父さんはちっとも褒めてくれない。  間もなくぼくは不登校になった。学校に行ったってつまらない。部活も何となく入っただけだし。とことん背が低いぼくが、バレーなんかできるはずがない。  先輩はそのときにぼくを心配してくれた唯一の人だった。先輩はわざわざぼくの家を調べて会いに来てくれた。先輩が言ってくれたことばはいまでも憶えてる。  勉強がわからないなら俺が教えてやる。友だちがいないなら俺が友だちになってやる。朝が起きれないなら俺が起こしに来てやる。バレーがイヤなら退部届けだしたっていい。お前はどうしたい? 学校がイヤなら、まあ仕方ねえが、て。  ぼくは笑ってしまった。  ぼくが不登校なのは学校が厭だからに決まってるのに、まあ仕方ねえで片付ける。先輩は面白い。  先輩はぼくより一つ上。だから、明日から学校に行けば少なくとも一年は一緒にいられる。部活は三年生になるとキツイかもしれないけど、学校に行けば先輩に会えるし。  ぼくは、次の日から学校に行くようになった。お父さんは褒めてくれないけど、気にも留めてくれないけど、先輩がいればいいや。そう思えるようになった。  だけどそれはつまり、先輩が卒業してしまえば消えてしまう魔法にすぎなかった。  中三の春、ぼくはまた不登校になる。先輩は私立の高校に行ってしまった。部活が忙しいだろうし。進学校だし。大学に行くために勉強もあるし。  こっそり先輩の高校を見に行った。ぼくは不登校だったけどひきこもりじゃなかったから、外出はした。ぼくの中学の制服を見かけると物陰に隠れたりしたけど、出掛けるのは昼間だからそれをするのは稀。たまにサボっているのがうろうろしてるから注意しなければならなかった。  先輩がここを通ればいいのに。先輩がふと窓の外を見たときにぼくを見つけてくれればいいのに。  ダメだった。当たり前だ。  ぼくはとぼとぼと帰宅する。それを繰り返してるうちに一年が経った。  義務教育だから、ぼくは押し出し式に追い出された。公立中学なんてそんなもん。  人の多いところにいると寂しいから人の少なそうな場所を点々とする。雪は好きだから寒くたって平気。雪を見ながらぼんやり。  ぼくの好きなことじゃないか。喜ぼう。ぼくは自分の好きなことが出来ている。それで満足すべきなのだ。 「なあ、きみ」  ぼくは足を止めるべきではなかった。走って逃げるべきだった。でもぼくはそれが出来なかった。  雪なんか最初から気にならない。空腹がなんだ。 「暇やったらちょい付き合うてよ」  ぼくはうなずく。  雪の日は魔法がかかる。

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