6 / 7

 冬榴はただ後悔していた。正直なところ夏井が追ってくるかもしれないという不安もあり、真っ直ぐ自宅には戻らず自宅付近の公園へ迂回して辿り着いた。  深夜の公園は子供の気配も無くかえって不気味に思えもしたが、感情的になってしまった頭を冷やすにはその静寂が丁度良かった。  樹木が生い茂る新緑エリアの側にある古ぼけたベンチへ腰を下ろし、ただただ両手で顔を隠して冬榴は項垂れる。 「はあ、何で俺はああいう言い方……」  もしあの瞬間に夏井の申し出を受けていたとしたら、夏井と付き合うという悲願は達せられたかもしれない。しかし夏井にとっての冬榴は〝丁度良い〟存在であるということが冬榴の心に突き刺さったままだった。  冬榴の脳裏に思い起こされるのは、冬榴が拒絶した瞬間の傷付いた夏井の顔だった。今までどれほど夏井の言動に腹を立てていたのか、最後の堰が決壊するままにぶつけてしまった感情で夏井があのような表情を浮かべるとは冬榴も思ってはいなかった。 「傷付けた、よな……」  今からでも戻って夏井の様子を見に行くべきか、寒空の中頭を冷やし冷静になった冬榴はそう考えるとベンチから僅かに腰を浮かせた。しかし考え事に集中するあまり、周囲に気を配れなかったのは冬榴の落ち度とも言えた。  ベンチから腰を上げかけた冬榴の背後から何者かが突然覆い被さってきた。その相手が夏井ではないかと冬榴が考えてしまったのは当然のことだった。 「よーう姉ちゃん、こんな時間に一人で何やってんの?」  しかし相手は冬榴の予想した夏井では無く、全く知らない赤の他人の中年男性だった。赤の他人に抱きつかれた冬榴が不快に思わない筈も無く、更に女性と間違われたことから早々に冬榴はその誤りを正そうと背後の相手を振り返る。途端にふわりと漂ったのは夏井の香水とは違うただのアルコール臭だった。 「え、なに。うわっ、酒くさっ」  同じ酒臭さであっても春杜から漂うそれと、夜の公園に突然現れた中年男性のこれは全くの別物で、冬榴にとってはただ嫌悪感を抱くだけの匂いだった。  赤茶けた髪を襟足まで伸ばしているといっても近くで見れば当然冬榴が男性であることは分かる筈だった。それでもこの酔っ払いの中年男性は自らの欲望に従い、服の上から冬榴の胸元を弄る。 「なぁんだあ、姉ちゃんじゃなくて兄ちゃんか」  そこでようやく冬榴が男性であることに気付いたらしく、中年男性は心なしか残念そうに眉を落とすがすぐに気持ちを切り替え無遠慮に冬榴の腕を掴む。  性別の誤解が解けた段階で煩わしさから解放されてると思っていた冬榴は不意に腕を掴まれ歩き出す中年男性に困惑するしかなかった。 「まあいっかあ」  何が良いのか到底計り知りたくもない冬榴だったが、中年男性の向かう先が公園の隅に設置された公衆トイレであることが分かると一気に血の気が失せた。  中年男性は意気揚々と冬榴の腕を掴んだまま公衆トイレへと向かい、その掴む力は冬榴の抵抗する力よりも上回っていた。両手を使えば何とか引き剥がせたかもしれなかったが、冬榴は掴まれていない方の右手でジーンズの尻ポケットからスマートフォンを取り出す。咄嗟に画面上へ表示させたのは普段から頻繁に使用している春杜の電話番号だった。 「春杜さ……」  パニックになった時や自分では解決できない状況に陥った時、冬榴は必ず春杜の力を借りる。春杜ならばこの状況もきっと何とかしてくれるかもしれないと考え発信ボタンに指を置くが、その瞬間冬榴の脳裏につい先程の春杜の姿が浮かび上がる。  抱き上げた秋瀬に腕を絡ませ、共に寝室へ向かう姿はとても幸せそうだった。  冬榴の帰宅後二人が寝室で何をしているかは考えずとも分かることで、きっと春杜は今秋瀬の腕の中で幸せ心地でいるに違いが無い。秋瀬ならばきっと春杜が望む幸せを与えることが出来た。  公衆トイレへ連れ込まれた冬榴は碌に清掃もされていない冷たいタイルの上に膝を付かされる。  冬榴の手からするりとスマートフォンが滑り落ちる。春杜へは発信されないままだった。  きっと春杜ならば連絡をすればすぐに助けに現れてくれることだろう。しかしそれは春杜と秋瀬の時間を奪うことと同義であった。自分が連絡を入れた時、一瞬でも春杜の表情が曇るかもしれないと考えた時冬榴は発信ボタンを押せなくなった。  春杜には笑顔でいて欲しいのに、自分の存在が春杜を悲しませる結果になるかもしれないという事実を冬榴は受け入れることが出来なかった。  冬榴の目の前で中年男がベルトを外すバックルの金属音がカチャカチャと鳴り響く。  逃げる事が出来ない訳では無かった。酔っ払いの中年男性一人程度本気で殴り飛ばしてこの場から逃げおおせる事など冬榴にとっては朝飯前にすらならない些末なことだった。  それすらも出来なくなってしまっていたのは、冬榴が春杜に依存するあまり逃げるという正常な判断を選ぶことが出来なくなっていたからだった。  両手で頭を掴まれアンモニア臭とアルコール臭が混ざった吐き気を催す空間の中、冬榴は目の前にぶら下げられた物に対してただ大人しく口を開けて舌を出す。

ともだちにシェアしよう!