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 冬榴は視線を上げた目の前の光景を疑った。酒臭さを纏い相手が男であろうと構わない、恐らく職場ではパワハラまではいかずともモラハラ社員であることで陰口を叩かれていそうなうだつの上がらない中年男性。その男性が冬榴の頭を抑えつけていた腕を掴んでいたのは夏井。 「おじさん、飲み過ぎだよ」  本当にこれが現実であるのか、冬榴はまだ疑っていた。疑ったまま中年男性へ爽やかな笑みを向ける夏井の顔を見上げていた。 「なついく……」 「なぁんだあ? 邪魔すんなよー」  中年男性が振り返れば吹き掛かる酒臭さと煙草臭さを併せた嘔吐を催す匂いにも夏井はその笑顔を崩さず、ただ掴む腕の力を強めていく。 「この人は僕のだから。変質者として通報されたくなかったら大人しく帰りません?」 「いででででっ!」  表情こそ冬榴の知る普段の夏井そのものであったが、柔和な笑顔とは裏腹に相当腹に据えかねているという事は冬榴にも感じ取ることが出来た。  捩じ切られるかと思うほどに腕を捻り上げられ、夏井が解放の為手を離した瞬間に中年男性は転げそうになりながら公衆トイレを飛び出す。  中年男性が完全に立ち去るまで夏井はその背中を見送り、やがてその姿すらも見えなくなればようやく張り詰めていた緊張感からも解放され両肩を落として息を吐く。 「夏井くん……」  ただ夏井を見上げているだけだった冬榴は、夏井が息を吐いたのを合図にしたかのように膝をついたままの状態から立ち上がろうと片足をタイルの上へ立てる。 「冬榴さんさあ」  先程冬榴が吐き捨てた言葉よりもずっと冷たく、冷ややかな視線を夏井は冬榴へ落とす。 「僕は駄目でもあのおっさんならいいの?」  そのたった一言の言葉が張り詰めた冬榴の心に大きな亀裂を入れた。次に夏井が漏らした吐息も先程のような安堵に近いものではなく、失望したかのような重苦しく態とらしいものであることが殊更冬榴の限界に近い感情を大きく揺さぶる。 「いつだって春杜さんに呼ばれればこんな夜中でもほいほい出てくるし、今だってあんなおっさんの誘いに乗って――」 「ちがっ、乗ってなんかっ……!」  冬榴は咄嗟に弁解をしようとしている自分に気付く。今更夏井にどう思われようが何も変わらないはずだったが、むきになって否定しなければと考える程度には自分の感情を理解していた。  春杜に依存していた事を自覚した冬榴は、自分には何も無い事に気付いていた。春杜の存在がなければ自らのアイデンティティすらも確立出来ていない自分は、この程度の扱いをされることが残当であるとも考えていた。そんな中目の前に現れた夏井の姿はまるで救世主のようにも見えた。  だからこそ冬榴は先程までとは異なり夏井の誤解を必死に解きたいと願ってしまった。 「結局男なら誰でもいいんじゃないの?」  しかし、その冬榴の努力は虚しく、夏井の絶望的な言葉は深夜の公衆トイレに虚しく反響した。  気付けば冬榴の頬を温かな涙が伝っていた。助けてくれた事に対する感謝の言葉も口に出来ぬまま捲し立てられ、こんな碌に清掃もされていない公園の公衆トイレで誰とでもそういった行為に興じる人間であるという誤解を抱かれ、言葉にならない冬榴の感情は涙となって冬榴の内からその辛い気持ちを表した。 「なら僕でも」 「誰でもよく、なんか……」  独特の汚臭がする中、冬榴の流す涙だけがただ綺麗だった。夏井は出会ってから初めて冬榴が涙を零す姿を見た。  一度決壊した感情は簡単に治まることはなく、ほろほろと流れる涙に冬榴だけではなく傷付けた本人である夏井すらも凍り付く。  本当はただ純粋に連れ込まれて怖かったのだと、来てくれて嬉しかったと伝えたい思いも言葉にはならず、言葉よりも雄弁に流す涙が語っていた。  片腕を掴む冬榴の手に夏井は視線を落とす。カタカタと震えるその様子は夏井にとっては異様なもので、震える腕と冬榴の顔を夏井は交互に見遣る。 「え、冬榴さんっ?」  虐めすぎていた自覚はあった。初めて会った時からどうすれば冬榴の気を惹くことが出来るのか考え続けてきた。冬榴の側にはいつも春杜の姿があった。冬榴が春杜に向ける感情以上のものをどうやったら自分へ向ける事が出来るのか、夏井はずっと考えていた。  その結果がこれなのであると夏井はひたすら後悔した。これ以上ないほど春杜の冬榴に対する過保護と束縛が酷くなることは目に見えていた。  どれほど言葉を尽くしても春杜に許されない覚悟はしていた。先にある春杜という障害よりも前に今は目の前にいる冬榴への対応が最優先であると心に決めた夏井はゆっくりと深呼吸をしてから立ち上がろうとする冬榴に対して右手を差し出す。  冬榴の耳にはもう何も聞こえず、その瞳には何も映らなくなっていた。スマートフォンだけは確かに拾い上げ、ジーンズの尻ポケットに突っ込みながらふらりと冬榴は立ち上がる。あれ程嫌な匂いがしていた汚臭も今は何も感じなくなっていた。五感の全てが死んでいるような気がした。  夏井が差し出す手も冬榴には見えず、その脇をすり抜けて冬榴は公衆トイレを出ていく。  呼び止めようと伸ばした夏井の手は再び冬榴の背中を見て躊躇う。呼び止める事が本当に正解であるのか、夏井には分からなくなっていた。 「あんな酷いこと、言うつもりなかったのに何で僕――」  感情的になってあそこまで傷付ける言葉を告げるつもりは夏井にはなかった。ただ冬榴を追って公衆トイレで見た光景に今まで無いほどの腹が立ってしまったのは事実だった。  傷付いているであろう冬榴に何故あのような酷い言葉で追い打ちをかけることが出来たのか、夏井も自身の感情の変化を理解出来ずに困惑していた。  出来る事ならばこのまま塵になって消えてしまいたい、そう考えながら冬榴は後僅かである自宅へ向かっていた。公衆トイレを立ち去った時のことはあまり良く覚えていない。気付けば自宅に向かって歩いていた。  夏井にとてもショックなことを言われたのは覚えていた。秋瀬や春杜との関係を疑われてもこんな気持になる事は無かった。身体のどこかが痛くて仕方なかった。 「何で、何でこんなに苦しいの――」  普段の夏井の軽口と何が違うのか、冬榴にもその感情の整理が付かないままだった。

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