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浅はかな計画
ぬかるんだ泥を踏みつけるように、白い靴が大地を蹴った。真夜中の土砂降りの雨が、ゆったりと着るはずの深衣 を体に纏わり付かせる。
傘を差す余裕はなかった。今はただ、身の内から湧き上がる衝動に急かされるように駆ける。
屋根のある部屋の内側で、愛でるのが好きだった雨は今。邪魔をするかのように、容赦なくタイランの体に打ちつける。
「っ……」
(俺が何をしたっていうんだ。ただ普通でいたかっただけなのに)
タイランには、普通が許されない。そう、突きつけられたかのようだった。
記憶に蘇るのは、弟であるヤンレイ言葉だ。嘉稜国の若き守城でもある唯一の肉親は、タイランにとってはなによりも自慢の弟であった。
タイランの身には、嘉稜国 の民なら身に宿しているはずの巫力がない。それでも、ヤンレイには迷惑をかけずに生きてきたつもりだった。それが、タイランの独りよがりだと知ったのは、先ほどのことだ。
『お前、山主の封呪を解いてきなさい。』
夕方からの雨が本降りになった夜更けのことだった。タイランの家に尋ねてきたヤンレイは、口を開くなりそう宣った。
全身の血が、冷えていくような心地になった。タイランに巫力がないことは知っているはずだ。それでもヤンレイは命令を下した。
妖魔が蔓延る魏界山 へと、いるかもわからぬ山主の封呪を解けというのは、タイランに死にに行けと言っているようなものだった。
妖魔に対してなんの手立てもないものが魏界山に入ることは、緩やかな自殺と同じである。どう答えていいかわからぬまま、言葉を言いあぐねるタイランを前に、ヤンレイは出来の悪い弟子に向けるような目で見つめた。
『あなたのためを思ってるんですよ。いい加減気づきませんか。あなたが私の足を引っ張っていることに』
ヤンレイの言葉は、タイランの思考を奪うには、実に適していた。
タイランの預かり知らぬところで、ヤンレイが肩身の狭い思いをしていたということにひどく動揺したのだ。タイランは妖魔を操ることはできない。
その事実が、最年少で守城となったヤンレイの足枷となっていることを知ったのだ。
強い妖魔を宿し、城を守るヤンレイには出来損ないの兄がいる。
口さがない言葉の矛先は、ヤンレイにも向けられていたのだ。
城での評価は、そのまま立場に関わってくる。ヤンレイのおかげで城の炊事場で働かせてもらっているタイランは、それを痛いほど理解していた。
だからヤンレイは言ったのだ。タイランに兄としての自覚があるかを試すかのように。
雨に濡れた草地を、水を弾くように踏み締める。肺から込み上げてくる弱音が、熱い吐息となってタイランの口から溢れた。
寒い。雨に濡れた体が暖を求めている。屋根のある場所に行きたい。体は休息を欲しているのに、それでもタイランの足は止まらなかった。
兄としての自覚はあるのか。ヤンレイの言外の思いは、刃となってタイランの喉元に突きつけられた。
大切に思っていた弟からの言葉を受けて、タイランが差し出せる答えは行動しかなかった。
見限られないための意地も混ざる。何も持たないタイランの、兄としての情けない矜持だけが、魏界山へと向かわせた。
ひゅるりと鋭い声が鳴いた。猛禽の声は、雨の中でも鋭く聞こえた。
梟ではない、夜に聞こえるはずもない声だ。急かされるように、タイランの足は速まった。
「死に、たくない……‼︎」
切迫感は雨の中、葉擦れの音とともに襲いくる。静かな羽音とは裏腹に、大きな体躯を枝葉に打つけるようにして獲物を追いかける妖魔がいた。
その鉤爪の先はタイランへと狙いを定めている。
嘉稜国内にある魏界山。異界と呼ばれるこの山には、妖魔が潜んでいる。
身の内に、妖魔を宿す守城であればよかったのに。タイランが妖魔に抵抗する術を持つはずもなく、ただ無様に追いかけられるしかなかった。
肺が千切れそうだ。降りつける雨が理由だけでなく、視界がぼやける。長い黒髪を体に張り付かせたまま、タイランは木々の隙間を縫うように駆ける。
背後は振り向かなかった。死を運んでくる存在を捉えるのが怖かったのだ。
「あっ」
深衣の裾が、くんっ、と引っ張られた。倒木の枝に引っ掛かったのだ。
濡れた生地は布を引き裂くことすら許さない。急く気持ちが、指先の動きを悪くする。
(早く、早く早く早く……‼︎)
食われてしまう、このままだと、タイランは本当の意味で死んでしまう。
山へは、全てを捨てるために入った。ヤンレイの期待する兄としての役割を投げ打って、新しい人生を歩むために。
妖魔を宿さぬタイランが、妖魔に食われたことにする。そうすればヤンレイには迷惑もかけずに姿を消せる。弟は愚かな兄を失っただけで済むのだ。
今はその計画が、本当の意味でなされようとしている。
(俺にできることは、これしかないというのに……)
なんて馬鹿な考えだろうか。それでも、これが正しいと疑わなかった。弟の足を引っ張る出来損ないの兄。ヤンレイの足枷はタイラン自身だ。
震える指先が、ようやく枝から裾を外すことに成功した。気がつけば降り続いていた雨は収まり、あれだけタイランを追い詰めていた羽音もしなくなっていた。
(諦めたのだろうか……)
静まり返った辺りに、タイランの呼吸の音だけが聞こえていた。
地面を突き破るように生えた木々が、妖魔の攻撃を阻んでくれたに違いない。
心臓の鼓動は、まだばくばくと忙しない。タイランは体を起こすと、ゆっくりと辺りを見渡した。
嘘のように静かな夜だ。追いかけられたことがまやかしだったと思わせるように、妖魔の気配は消えている。
「……くそ、なんでこんな」
じわりと涙が滲む。俯けば、体は濡れ鼠のように濡れそぼり、白い深衣は所々が破れて泥まみれだ。
細かな傷のついた手のひらが、弱音を堪えるように瞼へと押し付けられる。
(泣くなタイラン。お前のした選択だろう。今更、どの面下げて戻れというのだ)
目元を赤くした琥珀の瞳が、ごうごうと流れる眼下の川へと向けられる。落ちたら死ぬだろう。妖魔から逃げるうちに、随分と登山道をそれてしまった。
山は夜に染まり、黒々と葉を広げた草木が雨粒を受けて葉を震わせる。
こんなところで、立ち止まってはいられない。魏界山を抜けるまで、タイランは気を抜くことができないのだ。
視界を戻す。踏み出そうとして足元に目を向けたタイランは、動きを止めた。
(待ってくれ……)
ばくりと跳ねた心臓が、体を突き破ってしまうかと思った。
指先が震える。そっと持ち上げた手のひらで、タイランはゆっくりと口元を押さえた。
雨は、まだ止んでいない。タイランの周りだけ、降っていないのだ。
足元に敷き詰められた落ち葉。それに交ざるかのようにして、一枚の大きな羽根が落ちていた。
「あ」
タイランの目は、羽根の持ち主を探すように頭上へと向けられた。
黒く大きな翼が、空を遮るように雨を防いでいる。四つ足の鉤爪で木の幹を鷲掴み、こちらを見下ろす金色の瞳にはタイランの姿が映っていた。
猩々のように突き出た牙が、ゆっくりと動く。顔を真横に引き裂くようにして笑った妖魔が、聞き取れぬ複音で何かを宣った。
タイランの記憶は、そこで途切れている。
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