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ドウメキという男

『タイラン、タイランはどうして巫力がないの。』 『だめだよ、生まれつきじゃあどうしようもない。せめて手に職をつけて、生きられるようにしてあげなくては。』 『ヤンレイが、守城に選ばれたって。もしかしたら、タイランの巫力もヤンレイが持っていっちゃったのかもね。』 『兄貴の方は城の炊事番だってよ。ヤンレイのおかげで仕事にもありつけたのか。』  タイランへと向けられる言葉は、どれも哀れみの色を宿している。  蘇る一番鮮明な記憶は、ヤンレイの使役する妖魔。鳳凰にも似た九魄(くたく)が現れたときだ。  名前を持つ、特別な妖魔は力が強い。ヤンレイが九魄に選ばれた時から、周りが勝手にタイランを可哀想な兄にした。  優しくしてくれるのは、タイランが一人だったからだ。ヤンレイが守城になり、両親が死んで、家族がいるのに孤独になった。  取り残されるのはいつだってタイラン一人で、期待されていないという事実から、ずっと目を背けて生きてきた。  明るく振る舞った。周りが気を使わないように、言われるままに手に職をつけようとも頑張った。それでも、できないことも多かった。  何度も嫌な思いをした。表面上では笑みを貼り付け、身の丈をわきまえた振る舞いを心掛けてきた。  妖魔を持たないタイランがそこまで強くあれたのは、物心ついた頃から頭の中に聞こえていた、タイランへ語りかける声のおかげであった。  ーーお前はいつも同じことで頭を悩ませる。選んだ道を信じれば良い。間違っていたら、俺が守ってやる。  その声は、いつも肯定をしてくれた。柔らかな声色でタイランを甘やかす。  誰なの。そう問いかけをしたこともあった。しかし、返されるのはいつも同じ言葉だった。  ーー面白いことを言う。そんなこと、とうにわかっているだろうに。    気がつけば、タイランは柔らかな温もりに包まれていた。体は疲れて、休みを欲している。もしかして、今日は休息日だろうか。今までのことはきっと悪い夢で、目を開けばまた変わらない日常が待っているに違いない。  息苦しい日々が繰り返されるのは苦痛だが、それでも死ぬよりかはずっとましだ。  そんな希望を微かに抱き、息を吸い込む。  鼻腔に感じたのは、知らぬ香りだ。タイランはかぎ慣れぬそれに意識を引きずられるように、ゆっくりと覚醒した。 (また、あの声が聞こえたな……、随分と聞いていなかったのに)  まだ、耳に残っている。耳朶をくすぐるその声は、いつも揶揄い混じりにタイランへと囁いた。  薄ぼんやりとした視界は、うまく定まらない。まだ微睡んでいたいと体が引き留めるかのようだった。 (どこだ、ここは)  視界が定まってくると、タイランは知らぬ場所で寝こけていたことに気がついた。  真紅の飾り行燈がいくつも天井からぶら下がり、光る鬼灯が実を鈴なりにして見下ろしているようにもみえた。  見事なそれは硝子細工で、城の天井を見上げているような気にもなってくる。  赤い光が怪しく光る。いつしか、眠気はすっかりと収まっていた。  一体ここはどこだ。タイランはじわりと滲んだ手の汗を誤魔化すように、体にかけられていた寝具を握り締める。  沸々と湧き上がってきたのは、焦りだ。 「っ……」  心臓が、バクン、バクン、と鼓動している。タイランの希望は裏切られ、起こったことが現実だと知らしめてくる。  喉がかわく。緊張からか、冷静に物事を判断できない。このまま起き上がってしまおうか。逃げなくてはいけない。ここがどこだかはわからないが、安全だと決まったわけでもないのだ。 「見事なのは天井ばかりではないぞ」  不意に、耳に馴染みのある声が聞こえてきた。琥珀の瞳が、きゅうっと細まる。この声は、タイランのそばでずっと聞こえていた声だった。  弾かれたように身を起こす。粗野な声の出処を確かめようと思ったのだ。   (白髪だ……)  姿が映ってしまいそうなほど磨かれた黒い床板を踏みつけるように立っていたのは、随分と上等な男であった。  短く整えられた白髪頭に、朱を刺す吊り目がちな目元。タイランよりも逞しい体には、透かし模様の入った黒い深衣に、猩々緋に染まる羽織を身に纏っている。  はっきりとした配色を好む男は、戸惑うタイランの向かいにどかりと腰を下ろすと、人好きのする笑みを浮かべた。 「守城(しゅじょう)。少し見ぬ間に、随分と頼りなくなったなあ」  タイランを前に、男は開口一番に嬉しそうな顔で笑った。目元が緩むと、雰囲気がガラリと変わる。  無邪気な笑みに流されそうになったが、誰かと勘違いをしているのだろう。タイランは慌てて男の言葉を否定した。 「お、俺は守城ではない」 「俺が主を間違えるわけがない。お前は間違いなく、このドウメキの主である」 「あ、るじ……?」  ドウメキはタイランを置いてけぼりにして、勝手に話を進めてくる。身に覚えもない話をこんこんとされながら、タイランは曖昧な相槌で反応を示す他はなかった。  思考は、己のいる場所を探っていた。ドウメキという名前らしい美丈夫を前に、タイランは場所を確認するようにちろりと周囲を見渡した。  大広間にしては広すぎやしないだろうか。離れた格子窓から見える景色は、雲海のように雲が降りている。まだ判断はつかないが、どうやら高所にいるらしい。   「俺の話を聞いていたか」 「え、あ」 「やはりな。お前が空返事をするのは今に始まった事ではない。まあ、過去を思い返せば懐かしむこともできようぞ」  ドウメキは、ハン、と笑った。伊達男とはこういうもののことを言うのだろう。話の内容をほとんど聞いていなかったが、どうやらそれに対して叱られることもなさそうだ。  戸惑うタイランをよそに、ドウメキはそっと手を伸ばしてきた。  身構えるタイランの、長い黒髪の一筋を手に取ると、頬を撫でるように耳にかけられる。 「長いのも似合うな」 「ま、待ってくれ。俺がここにいる理由を説明してくれ!」  タイランは、慌てて声を上げた。唐突に、異性にするような仕草をされてどきりとしたのだ。  距離感が近い男は、あまり得意ではない。つい声が大きくなると、ドウメキは驚いたように手を止めた。 「喰録(ばろく)が連れてきた。まさか。冗談抜きで覚えがないのか」 「ば、ばろく……?」 「お前が操る妖魔だぞ。散々愛でていたろうに」 「俺が、妖魔を……?」  巫力がないタイランが、妖魔を操れるはずがない。訳のわからないことを言うドウメキに戸惑いを覚えれば、身を乗り出すように距離を詰めてきた。  グッと顔を近づけられ、気がついた。ドウメキの瞳の色は、紅色をしていた。  人間なら、ありえない瞳の色だ。タイランは表情を強張らせると、布団をずらすようにして後退りをする。 「ど、ドウメキは、人ではないのか……」 「……記憶がないのか」 「だから、だ、誰と重ねている……」  タイランの取り乱しは、ドウメキにも伝わったらしい。形の良い目元をひくりと震わせると、紅い瞳が細まった。その目の奥には、ほのかに悲しみが宿る。  何も悪いことはしていない。勝手に人を重ねたのは、目の前の妖魔だ。しかし、物悲しそうな表情を見せられると、タイランの良心が痛む。  なんて声をかければいいのか。戸惑いながらドウメキを見つめていた、その時だった。 「城主(しろぬし)。」 「ひ、っ」  生ぬるい存在感がタイランの背後に現れた。男かも女かもわからぬ複音の声が、頸に呼気を吹きかけるように聞こえてくる。  気配などなかった。タイランは、隣からヌウッと顔を突き出した妖魔に気づくと、わかりやすく身を固くした。 「城主、守城はお目覚めか」 「喰録。どうやら守城は記憶がないらしい。お前のことも、こんな具合だ」 「あ、あ、あ……」  タイランの顔ほどはありそうな大きな目玉が、ぎょろりと向けられる。ブワリと膨れ上がった恐怖が、タイランの体から体温を奪うように侵食した。  じわりと滲んだ汗に反応を示すかのように、喰録と呼ばれた大きな妖魔が首筋に鼻先を寄せる。はみ出た牙が喉元をくすぐった時、タイランの肺は心臓が移ったかのように震えた。 「っは、ひゅ……っ」 「あん?」 「守城?」  目の奥が痙攣するように、視界が揺れた。指先が末端から冷えていく。あの時、崖から落ちるタイランへと向けられた鉤爪が、瞳の奥で蘇る。  肺は正常な呼吸を放棄した。動きを止めたタイランの、胸だけが不自然に上下する。  まるで、底の見えない水の中にでも入ったかのような心地だ。  怖い、じわりと涙が滲んだその時。タイランの肩は強い力で掴まれた。 「こちらを向け」 「ぁ……っん、ング、っ」  衣擦れの音がして、アッと思ったときには大きな手のひらが後頭部へと回っていた。  琥珀の瞳に映ったのは、鋭い犬歯を見せつけるようにして口を開けたドウメキだ。  ああ、ここで俺は食われて死ぬのか。そんな考えがタイランの頭をよぎった時だった。 「ーーーーっ」  柔らかいなにかが唇に触れた。睫毛が震えるだけで、触れ合ってしまいそうなほど近い距離だ。  唇を喰まれるように、啄まれる。戯れるように下唇を甘噛みされ、牙の感触に思わず呼気が漏れた。  唇の隙間をこじ開けるようにして差し込まれた熱い舌に、タイランは思わず身をこわばらせた。 (なんだ、これ)  滑る舌が同じ動きを強要するかのように唇を割り開き、顔の角度を変えることで重なりを深くする。  舌裏を舐め上げるように絡められた濡れた肉の摩擦は、小さな水音を立て唾液の境界線を弾かせた。  気がつけば、あれだけ下手くそだった呼吸は正常に戻り、熱に侵された緩慢な思考のみを残した。 「ん、んぅ、ふ……」 「大丈夫だ、落ち着け。ここにお前を害をなすものはおらん」 「はぁ、あ、……お、俺は男……」 「知っている」  ならば、どうして。  タイランの抗議は、再びドウメキによって遮られた。  唇のわずかな隙間から取り込む外気が冷たい。そう感じてしまうほど、タイランの体温は分かりやすく上がっていた。  他人の唇を知らない、だから、どうしていいのかもわからない。  ドウメキの体を引き剥がそうと、厚みのある胸板に手を置いた。グッと力を入れて押し返そうにも、一回り大きな手によって、タイランの手は引き離された。  目がチカチカする。視界いっぱいにドウメキの紅色の瞳が広がって、唇を労わるように啄まれる。唇には、まだ重なりの感触が生々しく残っていた。 「あ、ぁ」 「大丈夫、大丈夫だ」  気がつけば、喰録が二人を囲うように丸くなっていた。おとなしく行為が終わるのを待っていたらしい。  力が入らぬまま、タイランはへたり込むようにドウメキの肩に頭を預けた。  タイランの肺は心拍数と引き換えに正常さを取り戻し、忙しなく跳ねる心臓の感覚が体に震えを伝えていた。体が痺れるのは、脳に酸素が回らなかっただけではない。 「落ち着いたか、守城」 「だから、俺はお前など知らない……」 「俺が知っている」  黒髪に、頬を寄せるようにしてドウメキが宣う。タイランの背中に回された腕は力強い。慣れぬ男の温もりに包まれていると言うのに、ドウメキの声はタイランから抵抗を奪うような、そんな切ない声色だった。   まだ、何も理解が及ばない。初めての口付けの余韻を引きずりながら、タイランはドウメキを突き放せぬままに逡巡した。何がどうしてこうなったのだろうと。  しかし、タイランの問いかけに答えてくれるものは、この場のどこにもいなかった。  

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